9.ネロリ、匂い立つ

 まだ少し風が残っている。うっすらと空がオレンジ色に明るくなる。雨はもう降っていない。まだ波もやや高し。


 あの後、さらなる吾妻の細部にわたる処置を施してすぐ。吾妻とナースの早苗が付き添った救急艇で、足を負傷していた作業員男性は市街病院に搬送された。

 深夜、港病院から搬送用の車が到着し、愛美の兄『成夫』も海周りの道で東側の港病院へ搬送し無事に入院。状態も落ち着いているとのことだった。


 いま美湖はダイニングテーブルにつっぷして、目が覚めたところだった。

「あ、ここで……寝ちゃったんだ」

 キッチンの窓ガラスがオレンジ色に染まっていた。

 微かな香りが鼻を掠める。あの蜜柑の花の匂い?

 だけれど目が覚めれば覚めるほど、その匂いはどこにもないのだと気がついてしまう。


 白衣を羽織ったままの姿で、そっと立ち上がる。

 なんだか力が出ない。冷凍庫を開けようとして、美湖はそこでしゃがみ込んでしまった。

「どうなったんだろう」

 間に合わなかったら。美湖は目をつむる。

 またぐったりとして食べものの物色をやめ、椅子に座ってしまう。

 そっと項垂れている間に、オレンジ色の空が青さをましてきた。

 風が残っていても、もう嵐は去ったのだろう。


『センセ』

 どきりとする。キッチンの勝手口ドアからノックの音。ハルの声。

 のっそりと立ち上がって美湖はドアを開けた。


「昨夜は大変だったな。お疲れ様。腹、へってねえ。これ、うちの母が先生にって」

 大きな長方形の盆に、いろいろな料理が乗っていてラップされていた。

「ハル君のお母さんが……」

「ずっと診療所が騒々しかっただろ。でも自分は手伝いに出ても足手まといだからって、せめてと思って作っていたんだって。ここキッチン、ずっと灯りがついていたけど、センセ、寝たのかよ」

「うん、ヨダレ垂らしてたみたい」

 ハルがギョッとした。もちろん美湖の嘘で、そういう疲れた空気を読みとられたくないための冗談だった。だからなのか、ハルが笑い出した。

「やめろよ! 綺麗な女医さんがそんなこと言うの」

「綺麗じゃない! がさつなの! 普通なの! なんにもできないの。ほら、冷蔵庫も満足にいっぱいにできないの、私は!」

 なのにハルが、晴紀がどこか優しく美湖を見下ろしている。いつもと違う黒い瞳に美湖は思わずドキリとしてしまう。


「あの作業員の人……、助かると良いな」

 美湖がなんで落ち込んでいるのか。もう読みとられていた。

 改めて、お盆にのっているものを眺める。

「おいしそう」

「だろ。センセ、ここんとこ、こういうの食べていないだろ」

 こっくりと頷いてしまう。


 キッチンにあがったハルが膳を整えてくれる。

 バラ寿司というこちら地方特有だというちらし寿司に、茄子の煮浸し、ごま豆腐などがあった。

「いただきます」

 バラ寿司をひとくち。久しぶりの手作りの味に、美湖の心もほろりと崩れてくる。


「先生、買い物に行けなかっただろ。メモをしてくれたら俺が今日、診療時間の間に行ってくるよ。それからこれ、」

 何かの申込用紙とパンフレットを差し出される。

「ここらへんの母ちゃん達はこれをしているんだ。生協の配達。母ちゃんが先生みたいに忙しい人はこれをしたほうがいいって。書いてくれたら手続きは俺か母ちゃんがやっておくから」

「ありがとう……。そうか、この手があったか」

「主婦にならないと、なかなか思いつかないよな」

「すごく……、おいしい。お母様にお礼を伝えて。ありがとうって」

 素直なありがとうが自然と出ていた。このまえ、ありがとうのひとつでこの青年と食い違ったばかりだから、美湖もはっとして正面に座っている彼を見てしまう。


「なんだ、センセ。かわいいとこあるじゃん」

「ありがとうぐらい言えるから!」

「知っている。俺が庭木を補強した時もちゃんとありがとう言ってくれたよ。でも……うん、子供にありがとうと言わせたかもしれない。おじちゃんが頑張ってやったこと、先生にきてもらったこと、俺がありがとうって言われたかったかもしれない。それで、俺じゃないよ、先生にいいなってかっこつけたかもしれない……」

 美湖は『ううん』と首を振った。

「違う。私が……、頑なだったの」

「センセみたいに、おっきな病院にいるとそうなるかもとは思った。ありがとうと言われても、自分達には患者を診たり治したりする行為は毎日あたりまえで、ありがとうを言われなくてもすべき『仕事』。ありがとうじゃない時もあっただろうし。ありがとうだけでやるんじゃないって気持ちわからなくて」

「ハル君、おいしいよ」

 もうあのことは話したくなくなって、ハルに謝ってほしくなくて、美湖はひらすら彼の母親の料理に舌鼓を打った。ほんとうに、優しくて美味しい。

 ハルも黙って、美湖が食べるのを見守ってくれている。


 黒い短髪、鼻筋が通った整った顔。凛々しい眉に真っ直ぐな黒い目。浅黒く灼けた腕と胸元は逞しい。だらっとしたラフ服装だけれど、ハルは人の心をすぐに読みとって、また察知して、相手に合わせて機敏に敏感に動いてくれる。だから、昨夜。美湖は漁師の男たちが雪崩れ込んできた時、すぐに彼の顔を探してしまった。

 彼は処置に追われる美湖をさりげなくサポートしてくれていた。島の男として出来ることを。ドア越しに控えてくれていたその気配がどれだけ心強かったか。


「ハル君、おいしい」

「わ、わかったから」

 そうしてひたすら食べていると、テーブルの上に置いている携帯電話が震えた。吾妻だった。


『相良。いま三津浜にいる。昨夜、なんとか市立病院に搬送して引き渡した』

「それで……。あの患者さんは」

 美湖は息を呑む。

『大丈夫だったよ。足も間に合った。ただな、ちょっと不自由になるかもな。危なかった。あと二十分、三十分遅れていたらアウトだったと整形の先生に言われたよ』

 いまから早苗と一緒にフェリーに乗って帰るよ。また到着したら連絡する――と、吾妻が電話を切った。


 美湖は切れた電話をそっとテーブルに置いた。そして、額をかかえて項垂れる。もう……、食べられなかった。

「ごめん、ハル君……」

「吾妻先生? なんだって」

 もう涙が出ていた。久しぶりに、熱い涙で美湖は自分でも驚いている。

「先生……。美湖、センセ」

 ハルも驚いているのだろう。


「吾妻先生がこなかったら……、きっと、切断だった……あの男性の足……」

 ハルの引いた息が聞こえた。それはつまり、吾妻が機転を利かせて救急艇に乗っていなければ、連れてこなければ。あそこで美湖が迷っていたままの状態でタイムアウト。足を失う男性となっていたことだろう。


 それがやっぱり、多くを語らなくてもハルには通じている。

「これが……、島、なんだね。ハル君……、晴紀君」

「美湖センセのせいじゃない」

 彼の声も震えていた。

「わかってる。でも……、ごめん、ひとりにしてくれる」

 恐ろしさと安堵と情けなさがいっぺんに襲ってきた。涙はすべてが綯い交ぜになっているもの。こんな涙をだいぶ昔に流したのも思い出してしまう。


 目元を覆ったままうつむいている美湖の目の前から。すっと気配がなくなった。

 ドアが閉まった音も静か。目の前からハルがいなくなっていた。


 また蜜柑の花の匂いがする。もう咲いていないのに匂いがする。

 あの甘美に包まれた、初めて港に降りた日。あの日の風、潮の匂い。麗しい島の記憶がいまは美湖を慰めてくれるから、記憶の底から匂い立つだけ。


 

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