21.女医さんと恋
晴紀と関係を結んでも、美湖の生活は変わらない。
診療所でまた島民を診察する日々。青い異世界を通じて起きた甘いひととき、その熱と疼きは奥に仕舞う。
それでも、診察室の窓辺に見える海から夕凪が見えてくると『俺は見られなくても、センセには見せたい』と言ってくれた青年の姿が浮かんできてしまってしようがない。
「美湖先生、お疲れ様でしたー」
診療時間が終了し、愛美が帰宅する。
だが美湖がいる診察室の灯はまだ落ちない。
そこで美湖はカルテを振り返る。
年齢、性別、季節。多かった症状がないか。また慢性的になっている症状はあるか、あればどうするか。いままでの診療履歴などと照らし合わせる。
一週間分の往診予定を眺めて、スケジュールの見通しを立てる。
最後は吾妻から借りた資料や書籍を開いて読み込む。
そうしていると、空が美しいワイン色に染まる。その時間は僅かで、少し眺めている間に空も海も藍に消える。だが、遠くタンカーや漁船の漁り火が煌めき始める。
風は潮の匂い。瀬戸内の夏の夜。島は静か、夏虫の声。
「センセ、お疲れさん。まだやってんの」
診察室のドアが開き、そこから晴紀が覗いている。
「うん。でももう終わるよ」
「メシ、食ってなさそう」
「ああ、うん。お肉と野菜でも炒めて食べようかと思ってた」
晴紀がちょっと窺うように美湖を見ている。
「俺、作ろうか?」
「え! 作れるの、ハル君!」
「船乗りの時は食べる施設が整っていたけれど、陸では独り暮らしだったし、いまだって母ちゃんと一緒に作ったりしているけれどな」
ちゃんと自立しているのが年下の彼のほうで、お姉さんであるはずの美湖は情けなくなってしまう。
「これ。今日、漁協でアサリが獲れて、もらっていたんだ。ボンゴレにしようか、酒蒸しとかもさっとできるけれど、ニンニク入れる派、入れない派?」
「ボンゴレ! もうもうずううっと食べていない! ニンニク入れる派!!」
「じゃ、それにするな。あ、ロッソとビアンコ、どっちがいい?」
どっちも作れるんですかーと、美湖はますます自分が情けなくなりつつ観念して甘えてしまう。
「ビアンコでお願いします」
「白ワイン、持ってきたから、これで作るな。三十分くらいで出来ると思うから待っていて」
「うん。じゃあ、もうしばらくここで雑務を片づけておくね」
診察室には一歩も入らないで、晴紀はキッチンへ向かっていく。
美湖はまたデスクに向かった。メールが来ている。吾妻からだった。
『島で手術を希望している患者がいる。家族が市街に通うのが負担になること、早急な手術が必要なため、港中央病院で引き受けることにした。助手をしてくれないか』という内容だった。症状と吾妻が計画している術式が説明されていた。麻酔科医も市街の大学病院から派遣してらえる手続きを済ませているということだった。
心臓外科のアシスタントも依頼したほうがいいのではないかと思ったが、自分はそう思うけれども間に合わないのであれば助手をすると返答しておいた。
その術式の資料が添付されていたため、美湖はそれを眺めておく。
窓から潮騒。遠く料理をする音。ニンニクとオリーブオイルの匂い。
センセ、美湖先生。美湖……。
「美湖サン」
その声にはっと振り返る。開け放たれていた診察室のドア、そこにまた晴紀がいる。
「あ、ハル君……」
「出来たんだけど」
「う、うん。もう行くね」
「本当に? またそのモニターに向かったら、一時間は戻ってこない気がする」
もしかして――と、美湖は時計を見た。晴紀が作るとキッチンに行ってしまってから一時間以上が経っている。
驚いて、思わずデスクに手を突いて慌てて立ち上がった。
「ご、ごめん。もしかして、何度も呼んでいた?」
「二十分前に一度。背中向けたまま『うん、わかった』と言ってくれたから待っていたら、この時間」
「うそ、やだ! せっかく作ってくれたのに、冷めちゃったよね!」
急いでデスクを片づけ、白衣姿の美湖はとにかくキッチンへと急いだ。
テーブルに、カフェ並の食卓が整っていた。ボンゴレパスタの他には、カボチャとカッテージチーズのサラダまである。
パスタの皿からはもう湯気は見えない。美湖は目元を覆って、もう倒れそうな思いで自責する。
「もう、ほんとに、ほんとにごめん」
やっちゃった――と思った。でも晴紀は無表情だった。
「大丈夫だよ、温めなおせば。アサリは少し固くなるかもしれないけれど」
「もう、やだ。こんな自分……」
それでも晴紀は不機嫌な様子もなく、淡々とパスタの皿にラップをして電子レンジに持っていく。
「そんな落ち込まなくても、センセ。俺も、ちょっと遠慮してしまったから」
遠慮? 美湖はやっとうなだれていた頭を上げて、晴紀を見た。
「白衣姿ですごい集中しているんだもんな。難しそうな人体図みたいなの見ていた。心臓のあたりを開いた図みたいなの……。だから、声、強くかけられなかった」
「えっと、あの……。これからはちょっと怒るぐらいでいいから、声をかけて」
「わかった。そうする」
パスタが温まり、晴紀が再度、テーブルをセッティングしてくれる。
「いい匂い。おいしそう」
「仕上げに、パセリな」
ドライではない新鮮なパセリをふりかけてくれると、さらにいい香りに包まれる。
「ハル君は、夕食終わったの」
「うん。母ちゃんと食べた。うちの飯は焼き茄子と、豆腐と鶏だんごのみぞれがけ」
「それもおいしそうだなあー。さすが清子さん」
「少しだけなら、いいだろ。ボンゴレで残った白ワイン」
グラスも用意されていて、そこにほんのひとくち分だけ。料理をして残った白ワインを晴紀が注いでくれた。
「至れり尽くせり。いいのかなー、もう、またこんなに甘やかされたら、私、ここでも無頓着になっちゃうよー」
なのに晴紀が笑っている。いいんじゃないそれでも、とばかりに。
「でも、さっき。先生の背中を見て思ったよ。あんなにあそこに力を注いでいたら、……そうだな、プライベートで無頓着になるぐらいがちょうどいいのかもなって」
「どっちも上手に出来る人、いるんだけれどね。まさかの初っぱなから雑でごめんね」
「もう謝らなくていいから。ほら、白衣、脱いで」
目の前に来た晴紀が、美湖の肩から白衣を滑らせて脱がそうとしている。
「え、別に脱がなくても」
「だめ。俺、白衣を着ている美湖サンには手を出さないて決めている」
「なに、それ。診療時間は終わっているし、誰もいないよ」
「だめだ。これはケジメ。白衣を着ている先生に不埒なことをするたびに罰が当たるような気がして……」
ハル君らしい生真面目さ。そして、罪を刻んでいる男は『生』に対して敏感なのだろう。美湖が『生』を扱う仕事をしているから、仕事姿の時には不純な思いで触れない。
そういって美湖の腕から白衣が抜けると、晴紀はダイニングの椅子の背にかけてしまう。
「やっと、センセに触れる」
「んっ」
頬をつつまれたと思ったら、背が高い彼が頭を傾けて美湖の唇を熱くふさいだ。美湖の唇を舌先でこじあけて入ってくる。でも美湖もそれを吸って侵入を許した。
しばらく一緒に愛しあっていると、晴紀がやっとの思いで離れてくれる。
「また、冷めちゃうところだった」
「そうだった。いただくね」
美湖もすぐ食卓につく準備をして椅子に座った。
いただきます――とボンゴレ・ビアンコをほうばって『おいしい』と伝えると、正面に座っている晴紀も嬉しそうに微笑んでくれる。
「ハル君は飲まないの」
「センセに飲ましたからやめておく。急患が出たら、俺が運転してやるから」
だからたまには飲んだらと言われ、美湖も今夜は甘えて、久しぶりの白ワインをひとくちだけ味わった。
「おいしい。お料理と合ってるね。すごく嬉しい。ありがとう、ハル君」
都会で気楽にできていたことが、自分と同じような医師が何人もいた場所だからこそ、気兼ねなかったことが、この島ではそうはいかない。元々、アルコールの嗜みはなかったが、それでもたまに酒の香りを楽しみたくなることはある。それだけでほぐれる夜もある。それが島ではままならない。あの嵐の夜のような思いはしたくない。万全でいたいという思いがここ数ヶ月で強くなっていた。
それを晴紀は知ってくれていたのだろうか。そんな気持ちになる気遣いだった。
そうして晴紀が作ってくれた夕食を味わっていても、晴紀は目の前でずっと美湖を楽しそうに眺めているだけ。
「センセ。横浜ではそういうブラウスとスカートというスタイルだったんだ」
「ん、そうだね。でも島の往診日は歩くからラフな服をこのまえいっぱい揃えたよ。でも、なんだろ。ブラウスときちんとしたスカートは気が引き締まる」
その姿でさきほど仕事を終えたので、そのまま夕食をとっているのだが、そんな美湖を晴紀がずっと見つめている。
「吾妻先生から経歴書を見せてもらった時から……、俺、ドキドキしていたよ」
「え、なにそれ」
「頭の良さそうな、年上の女医さんを薦められて。その時の写真も先生は綺麗な黒髪で女らしいブラウスだった。だから綺麗な家にして、住みやすいようにして、田舎の島にいる男はなにもわかっていないと困らせないように迎えてやらなくちゃと思っていた。つまり、すげえ緊張していたわけ、俺」
「そうだったの。あー、だったらがっかりだね。逆にハル君の手を煩わせる無頓着女医だったしね」
そこで晴紀がまたおかしそうに噴き出して笑った。
「いやー、ほんと。それは予想外だった。でもさ、最初の最初で、あの吾妻先生と恋人みたいにくっついていたから、その、すげえがっかりしたというのもあるかな……。早苗姉ちゃんのことで心配していたことと、都会の女医さんはそういうの平気なんだというのと、ぐちゃぐちゃになってがっかりだった」
「あれは、そう、最悪のタイミングだったね。でも、二年ぶりに会ったから、吾妻先生が子供みたいな私をからかいたかっただけなんだよ。あの先生から見たら、私は子供なの」
「だから、俺――。いきなり口が悪かったし、先生をめちゃくちゃ睨んでいたかも。でも、いつも緊張していた。先生と話す時は」
年上の女医さんが来るからと、非常に気構えていたようだった。でも美湖もいま振り返ると笑ってしまう。
「お姉さんのくせに、仕事以外なんにもできないのにもがっかりだったでしょ」
晴紀もまた笑い出す。
「もうほんっと。密柑山に迷って買い物にいけなくて、気をつけておいてあげないと冷蔵庫はすぐにからっぽになるし。冷凍うどんばっかり白衣姿で食べている昼休みは衝撃だった」
「大学病院にいてもそんなもんだよ。女医に変なイメージ持ちすぎ」
「でも。俺……、そういう美湖サンでよかったと思ってる。そんな美湖サンと一緒の毎日がいつのまにか楽しくなっている。母も笑顔が増えて、俺は先生に島にいる間は良い思い出になるようにしてあげたいと思って……」
それでシュノーケリングに連れ出したと晴紀はいう。
「抑えていたよ。ずっと。先生はいつかここを出て行く都会の医者。俺は年下で、島の男。いつか返すために、そして俺なんかと関わらせないために。なのに、俺……」
美湖の手元にあったパスタの皿、ボンゴレがなくなる。アサリの殻だけが転がっている。
「ご馳走様。私、片づけるから。ハル君、シャワー浴びておいで」
私の部屋で過ごす準備をしろ、これから私たちはくっついて語り合う。あなたは私の恋人なのだと遠回しに言ったつもりだった。
「私は、そのつもりなんだけれど」
「ん、じゃあ。シャワー借ります」
敬語で答えた晴紀に美湖は少し笑って、それでも二階へと彼が素直に上がっていったのでほっとする。
エプロンをして食器を洗う。一階には浴槽のバスルームもあるが、二階にも小さなシャワー室を作ってくれていて、そこから音が聞こえてきた。
この家は外観は古いが、中は本当に至れり尽くせりのイマドキの設計になっている。各部屋にクーラーも完備されていて、都会から赴任してきた医師が快適に暮らしてくれるようにという晴紀の願いが込められているのがよくわかる。
キッチンも最新式で昼時に使う清子が『いままでどうってことないと思っていたけれど、うちのお台所もリフォームしたくなっちゃった』というほど。
いつか、返すために。いつかここを出て行く都会の医者。
皿を洗いながら、そんなことを当たり前のように言われたことが美湖の胸を締めつけている。
考えてはいけない。今は。そう、いつかそうなるとしても。もう惹かれあってしまったから遅い。止められない。晴紀じゃない、美湖自身がそうなっているから。
もう恋なんてしないと思っていた。男もセックスもいらないと思っていた。だから横浜に未練なく、ここに来られたのではないのか。
そこで出会ったものは、まるで不可抗力のように美湖の中にどんと激しく衝突してきた。
都会よりも、なにもかもが鮮やか。すべてを解かれるように、丸裸にされるように、恋をしてしまった。
美湖の部屋に晴紀が来るのは、もう何度目か。
彼は二階のシャワーで肌を綺麗にすると、美湖の部屋で本を読んだり、小さなテレビをつけて待っている。
美湖も一階の戸締まりを終え、二階の自室に戻る。部屋に入ってすぐ灯りを落とした。
「おまたせ」
暗くなった夜明かりの中、シャワーを浴びてバスタオルを巻いただけの素肌で戻ってきた。
彼と恋仲になって十日ほど。この部屋で素肌になって抱き合うことはもう躊躇うものではない。
だから。美湖が裸になってベッドに座ると、晴紀もすぐに来てくれる。
キスをして、暗がりでお互いの目を見つめ合って、素肌を重ねる。今夜もまっすぐで痛いくらいの愛撫を晴紀がしてくれる。
「窓、センセ……」
「閉めないで……」
声、ちゃんと抑えるから。窓から潮騒の音と、遠い船舶の光、そして夜空と海も一緒に。あの青い異世界を通じて結ばれたから、今夜も私はそこに行く。その色が欲しい。
俺、また今治の仕事で船に乗るから。
美湖の肌にキスをしながら晴紀がそういう。だから、センセが忘れないようにしていくと、また強く吸われ、この日は甘噛みまで。
「これぐらいしないと、センセ。忘れるだろ」
こんなに痛く強く甘く愛されたら忘れない。そしてそれは晴紀だけに許す行為。
「うん、そうね。噛んでもっと。ずきんとしたら、ハル君を思い出すから」
先のことなんて知らない。今は今、愛せるだけ愛しあう。
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