8.瀬戸内の男たちをなめんなよ
男たちが、診療所に訪ねてきた男と、足から血を流している男に群がって処置室へ運ぼうとしている。でもそこには、愛美の兄がまだ……。
美湖はハルを探す。
「ハル君!」
雨合羽姿ばかりの男たちの中から、ハルが顔を上げた。
「なに、センセ」
「愛美さんのお兄さんを別のところで、安静に寝かせたいの。簡易的でいいから、なにか……。そうだ。待合室のソファーをくっつけてベットに出来る? 運んでほしいの。愛美さんの指示に従って」
「わかった。すぐにやる」
「それから……」
美湖から歩み寄る。ハルも気がついてくれたのか、新たに運ばれてきた患者を運ぼうとする男たちの輪から抜け、そばに来てくれる。
「どうした。先生」
待合室の片隅、男たちが愛美の兄と新しい患者を入れ替える準備をして騒々しくなる中、壁際にふたりでそっと向きあう。
「ハル君……。ドクターヘリは夜間は駄目だったよね」
美湖の言葉に、ハルもショックを受けたような顔になる。でも、岡氏を始めた漁協の同僚が手伝っている様子を眺めるとすぐに、いつもの素っ気ない顔に戻った。
「夜間は飛ばない、そもそもこの暴風雨では無理だ」
「ほかのヘリは? 消防とか」
「要請しても、きっと時間がかかる」
「救急艇も?」
「たぶん……。でも波は少しおさまってきた気はする。聞いてみないとわからない」
「救急艇が来たとして、市街の港についてから、大きな病院までどれくらい?」
「市街港にある、ここにあるような小さな総合病院なら5分、中心街にある市立病院なら急いで20分、郊外にある大学病院だったら40分だ」
「港のはだめ。せめて市立……。間に合うかな」
改めて、ハルに聞かれる。
「美湖センセじゃ、駄目なのかよ。ここじゃできないってことかよ」
「止血が最優先、それはここでする。でも。処置後、整形外科の専門的な処置がいる。出来れば早急に。そうしないとショックで危篤になる可能性がある。あるいは……」
言えなかった。それ以上のことは医師ではない者には言えない。
「危険な状態ってことなんだ。どうすればいい。なにか方法は」
「とにかく今から止血する。救急艇だけでも来られないか交渉できない?」
「わかった。やってみる。多少の波なら救急艇も来られるかもしれないから」
お願い。そう託して、美湖は再び処置室へ向かう。
愛美も動揺していたが、男たちと一緒に兄を別の場所へと移す準備を手伝っていた。
「先生……。あの足、出血量……」
愛美も事の重大さがわかっていた。
「止血だけする。また準備して」
「わかりました」
深夜にさしかかったが、診療所はさらに騒然としてた。
愛美と一緒に止血のためのオペの準備をする。
「愛美さん。器具、足りる? 輸血は中央じゃないと出来ないよね……」
「器具は大丈夫です、輸液なら幾分か。ですが、港中央病院に応援頼んでおきました」
「ありがとう。急いで、できるだけのことするよ!」
白衣を脱ぐと、愛美が術用の簡易服を美湖に着せてくれる。愛美もその姿に整え、二人で一斉に患者周りの処置準備を整えた。
「Aラインとろう」
「はい。モニター準備します」
また処置室のドアを閉める時になって、岡氏が駆け込んできた。
「先生。あと十分待って、波がある程度収まっていたら三津浜から救急艇出せるかもしれんって。その時に連絡するゆうてる!」
「わかりました。港は……どこ? まさか中央の東側の港?」
「それやったら救急艇もめっちゃ早く着くと思うけれど、こっち西側のこの診療所から東の港まで運ぶのに三十分や。しかも海沿いの道はいま危険やき」
「西側、すぐそこの港には来てくれないの」
岡氏もその後ろに控えている漁師達が途端に黙った。
ハルもいて、なにか言いたそうにしている。
「西側も遠回りになって駄目ってことなの? ハル君?」
「センセ、こっち西側の港は島と島が連なっている海域を通って回り込む航路になっていて、潮の流れが東側と違うんだ。救急艇に乗っている消防の男たちも訓練はしているけれど。救急車乗っけてくる艇だから……、そうなると足が遅くなるし、時間がかかる」
「東側と西側の時間差はどれぐらい」
「十分か二十分、波による。この時間の潮にもよる」
漁師の彼らが黙っているのは、つまり、こっちの港に来るには救急艇でも危険とわかっているからだと美湖にも通じた。二次災害を回避するなら、消防は東側の港を選ぶといいたそうだった。
「東の港は患者を動かして陸路海沿いの搬送が必要、三十分……。西側の港だと救命艇が来ても到着の保証がない……」
どうする。患者を動かして搬送、早く着く東側に行くか。患者を動かさなくとも同じぐらいの時間で西側の港にきてもらう、だが救急艇には危険な航路。
どうする。美湖に初めての迷いが生まれる。この出血量、止血をしてどれぐらい保つ?
三十分経ってから出航できるか判断、そこからさらに二十分から四十分で西側の港に到着? それからまた市街港まで搬送、さらに市街の病院まで陸路搬送。とても、間に合わない……!
再度、美湖はそこで先生の指示があるかもと待っている漁師に聞いてしまう。
「どうしても……、ヘリ搬送は駄目ですか」
それだけ医師が時間を気にしていること、それも彼らに通じてしまい、不安な表情が揃ってしまう。
ただ、ハルと岡氏だけが毅然としている。
「わかった。先生、もっかい消防に掛け合ってくる。ハル、先生の手伝いしてやれ」
そのハルともう一度、目があった。
「今から止血のオペをする」
「なにかあったら呼んで。ここにいる」
愛美がドアを閉める。でもそこに、ハルの気配がある。
「血圧、気をつけておいて。メス」
「はい」
愛美の兄の時とは異なる差し迫ったオペを開始する。
久しぶりの救急オペだった。
そう昔、初期の研修医時代。救命の研修の時、そこに吾妻がいた。
救命の医師がなんだか知らないけれど、いっぱいやめちゃってね。俺ら、他の科から臨時で回されているわけ。よろしくな。
心臓外科にいた吾妻が臨時でそこにいた。だが、吾妻の救急の腕も皆が認めていた。
救命で処置をして、どこを治さなければならないか判断をし、専門医に引き継ぐ。その仕事の時に、吾妻にいろいろと教わった。
あの時を思い出しながら、美湖は損傷が激しい作業員の足の出血点を探す。
見つけたとして、止血したとして。早くしないと、早くしないと……。足が駄目になる! 切らないといけなくなる……!
あれからなんにも男たちの報告がない。ヘリ搬送も駄目だったのか。救急艇はどちらの港に来てくれるのか、それともやっぱり来られないのか。
だめだ。この患者は島から外に出さないと駄目だ。早く早く設備が整っている専門医がいる場所に行かせてあげないと!
しかし美湖の胸に迫るものがある。やはりここは島だ。来て半月、恐ろしく順調だなんて嘘だ。あっというまにこんな状況に陥る。それが離島……!
出来ることがこれしかない。いや、もうこのまま、私が出来るところまでやる? やってみる?
処置室の外がざわついていて、時折、岡氏の威勢の良い声が聞こえるけれど、ここにはなんの報告もない。
「あった。止血する。サテンスキー」
鉗子のラチェットが『カチ』と音を鳴らした時だった。
「相良! どうなってる!」
処置室のドアが開いて驚くと、そこにはスーツ姿の吾妻がいた。
「せ、先生。神戸に行ったんじゃ……」
「マナ、俺にも術服を」
「は、はい」
吾妻がすぐに美湖が処置していた患部を確認している。
「いまクランプしたところです」
「よし。ほかを確認するから、おまえ、そっちに回れ」
愛美がすぐにワイシャツ、スラックス姿の吾妻に簡易術服を羽織らせ、首で紐を結ぶ。手袋をはめながら吾妻が答える。
「そんな予感がしたんだ。今日の飛行機はキャンセルして、明日ギリギリの時間に変更したんだ。それで今夜は松山市内のビジネスホテルにいた。やっぱりな。東港の中央病院から連絡があって、三津浜の消防まですっとんできた。ちょうど、救急艇の要請があったと聞いて、行くなら俺も島まで乗せていけと乗り込んできたんだよ」
すごい予測と判断と行動力!? 美湖はあっけにとられた。でも、先程まで締めつけていたなにかが少しだけ緩んで、息ができて、また頭の中も落ち着きが戻っていくようだった。
吾妻が患部を確認する。
「相良。おまえ、ヘリ搬送がいいと言い張っていたようだな」
「言い張っていません。救急艇の搬送時間がどうしても……安心できなかったんです」
「なめんなよ。瀬戸内海の消防を、海と向きあっている男たちを。救急艇のほうがいい。運ぶまでの時間を考えて、できるだけの処置をする」
「わかりました。助手をします」
「なるべく時間を引き延ばせるよう処置するぞ」
「はい」
患者に向かい、愛美が吾妻の隣に立った。美湖は向かいに。
またドアが開く。今度はナース姿の女性。早苗だった。
「相良先生、遅くなりました。河野です。輸血……」
「早苗。俺と一緒に市内まで行けるか」
彼女も吾妻が目の前にいて驚いている。だが、すぐに美湖が最初に彼女を見た時同様の凛とした眼差しに戻る。
「行けます」
「子供は」
「両親に預けています」
「すぐ搬送の支度をしろ」
「はい。こちら、持ってきたものおいておきます」
息が合っている。いまは恋人同士だという二人の意思疎通を見せつけられた気がした。
「相良。待合室に成夫がいたじゃないか。あっちも見ておいた。成夫は天気が落ち着いたら島の病院の搬送で大丈夫だ。明日、俺が帰ったらもう一度見ておく」
「助かります。でも神戸には……」
「もう行かねえ。やっぱ、島を出るんじゃなかった」
吾妻が苦悶の表情を見せながら、手元で患部を処置している。
そんな吾妻の顔、初めて見た。恐ろしく真剣で鬼気迫る男の顔。
彼にとって島がなんであるのか、そして島がどんなものなのか。また海がどれだけ恐ろしいものなのか。
美湖はそのなにもかもを全身で感じざる得なかった。
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