35.ライオンには勝てません

 その男性も息子同様に髭をはやしていた。白い髭、耳の下から顎まで、短く切り揃えた品のある髭。息子の慶太郎によく似ていて、まるで白いライオン。美湖の第一印象はそれだった。


「伯父のかおるです。そのお電話、お借りしてもよろしいですかね」


 得体の知れない笑顔が、横浜の教授を思わせたから、美湖は素直に手渡した。

 美湖の電話を耳に当てた途端、その目が鋭くなった。


「晴紀。慶太郎から聞いた。いますぐ帰ってきなさい。気が済んだだろう。伯父さんが説明するから、すぐに今治に来るんだ。わかったな」


 声色も変わった。美湖にはわかる。晴紀も背筋が伸びて、身体を硬直させているのが。


「お返ししますね」


 美湖には紳士の笑顔だったが、美湖は畏れ多い気持ちで電話を返してもらい、再度耳に当てる。


「晴紀……君……」

『伯父さんの言う通りにしないと後が怖いから、もう帰る。センセ……、待ってて。俺、いますぐ帰るから』

「ハル君、うん。待ってる」


 もう熱い涙しか流れない。安心して、嬉しくて、待ち遠しくて。晴紀のしっかりした声を聞いてほっとしている。帰ると言ってくれて……。

 通話を終えると、少し離れて待っていた伯父様がまた美湖に微笑みかける。


「間に合って良かった。噂の女医さんにお会いしたくて、急いで切り上げてきました」

 美湖も改めて挨拶をする。

「清子さんと晴紀君に大変お世話になっております。診療所を任されました、相良美湖です。お忙しいところおじゃましております」

 その伯父様が、美湖には優しい眼差しを、でもその瞳の奥に哀愁の色を感じた。


「いいえ、こちらこそ。妹の清子から聞いております。美湖先生が来てくださって、妹がまた生き生きとした日々を取り戻そうとしている。清子をお昼の料理人として雇ってくださったそうですね。毎日、張りきって診療所のお手伝いをしているようで。妹からもよく電話がかかってくるようになりました。私も働いているのよ、美湖先生が立派なスキルだと言ってくれたと……」


 兄の顔だとわかり、美湖も恐縮しながら笑い返す。


「私がまったく私生活に無頓着で、島に来たとたん、食生活で困るようになったものですから、助かっているのは私なのです」

「晴紀のことも……。ただ、こんなふうになるとは、予想外でした」


 美湖という女医が来て、晴紀と関係するようになったから、伯父様とお兄様が保っていたことが崩れたと聞こえてしまった。


「私が来たこと自体、余計だったかもしれないですね。知らなくていいこと、晴紀君が知ってしまいました」

「いえ、……晴紀が女性とそうなるとは思わなかったものですから。身を引いて生きていくと思っていました」

「伯父様は、それで……よろしかったのですか」

「うちの仕事さえ支えてもらえれば」


 日本の物資を担う一人である男の無情さを美湖は感じた。しかし、それは大学病院でも散々見てきた男の生き方。大きな責任ある仕事を担う者にはあるべきもの。


「慶太郎は家庭を持って子供に恵まれたので、晴紀にできなければそれでもいいと思っていました。それに晴紀は見合いとしては紹介できない、紹介しても断られる経歴があったものですから、仕事だけはきちんとしてやろうと教育しているところでした」


 もしかして、これは反対される? 美湖が怖かったのはそこだった。晴紀は御殿場の父に試されたが、いま美湖がエヒメオーナーの伯父に試されている思った。この男性は、既に父親を亡くした晴紀の『父代わり』なのだから。

 本当なら、晴紀は海運王の仲間である船主の甥っ子。おぼっちゃま、御曹司みたいなもの。なにもなければ、伯父様の眼鏡にかなったお嬢様と結婚できていたのかもしれない。


「晴紀君は潔白です。どなたとも結婚できます。伯父様が望まれたお嬢様とも――」


「一概に『なにもなかった』とは言えない状態に遭遇してしまった謂われは払拭できないことでしょう。『経歴を持ち合う見合い』などは、かえって我が家には不利です。それなら最初からやらないほうがいい。それに、かわいいだけのお嬢様は要りません。晴紀を支えてくれる、我が一族の一員になれる気概がなくてはいけません」


 伯父様がじっと美湖を見つめて離さない。本当にその圧倒される視線に、美湖はもう言葉が言えなくなる。


「晴紀が、島に来た女医さんは気が強くてかわいくない。でも彼女の情はどこまでも深く凛としていると言っていました。なるほど、貴女の目は強い。晴紀が言っていたことがよくわかりました」

「え、あの……」

「お困りのことはありませんか。必要であれば援助させて頂きますよ、相良先生」


 にっこりとまた優しい伯父様の笑みに戻ったが、美湖は逆にヒヤリとしていた。

 援助する? いきなり診療所の話? 女としての話は聞く耳持たないってこと? それとも、これも伯父様が医師と繋がることでなにかのメリットを見つけた思惑? そう広瀬教授にそっくりだと思った。


 でも、そうだな。せっかくだから、ここで困っていること言ってしまおうと思った。


「薬局と薬剤師を西側地区にも充実させたいです」

「なるほど」

「診療所にも2床ほど患者を診療所で経過を見られる個室があると助かります。あと、地区の誰でも気兼ねなく出入りができる集会場のようなものを地区としてでなく、診療所のそばに欲しいです」

「ほう。集会場なら、地区のもので充分では?」

「診療所のそばに、です。診察に来たついでにお昼ごはんやおやつを食べながらわいわいして帰れたらいいのにと、会計が終わっても待合室で井戸端会議をしている地区の方をみて思いました。子供達も放課後に出入りできれば大人の目もあって安心ですから」

「ほう」


 次に美湖を見下ろす馨伯父の目は、またライオンの目だった。


「先生。晴紀に対してはなにもないのですか」

 あれ? 診療所でお困りのことがあれば……と言わなかった?

「あの援助って……診療所のことだったのでは?」

「いえ、そういって、どのような種の援助を望まれるかと思いましてね」


 ドキリとした。心臓が跳ね上がるほどに。本当に試されていた! 困っていることがあって援助する――、そう提案してこの女がなにを言い出すのか。伯父様に試されていた。

 え、それなら。伯父として甥っ子を助けるなにかを言って欲しかった? 美湖は青ざめる。


 だがそこで伯父様がクスクスと笑った。


「晴紀がかわいくない女医さんと言っていたけれど、それはまだ晴紀が若いか、貴女に勝てない男が多いだけのようだね。私から見れば、貴女はまったくかわいらしいお嬢さんですよ」


 うわーっ、駄目だ。この人にはさすがの私も強くなれない! そう思ったら今度は顔が熱くなってきた!


「いえね。ここで晴紀がハル君がと、甥とどうなりたいとか言いだしたら、貴女も女医ではなく、ただの女だと思うことにしようと思いましたが……」

 そこで伯父様が、もう堪えきれないとばかりに笑い出した。

「いやー、やはり、かわいげないですね! 恋する甥っ子より、診療所を援助してほしいとおっしゃるぐらいなのだから!」


 いやこれは面白いとずっと笑われている。もう美湖はひたすら顔が火照るばかり。


「もちろん! 晴紀君のことは心配です。だから、ここまで来たのですから!」

「パパと一緒に、ですよね」

 また、小さな女の子みたいに扱われた!

「ち、父と一緒に来たのには、それは、父に晴紀君のことを認めて欲しいから、です!」

 また馨伯父が大笑いした。いやー、だめだ、私は絶対にこの人にはどんなにしても、私は『お嬢ちゃん』にされてしまうんだ! 美湖は困惑した。


「いえ、本当に晴紀が言う女医さんに会えて嬉しいですよ。でなければ、私は会う気などありませんし、そもそも慶太郎に貴女とお父様に『真実をお話ししろ』という許可すらしませんから」


 え、じゃあ……、会ってくれたってことは!? 美湖はもう目を丸くして伯父様を見るだけ。しかも、最初から会ってくれるつもりだったし、大事な話も共有する気持ちでいてくれたんじゃない。でも、やっぱり手のひらで転がすように試された! もう美湖の完敗、いやまだまだ若輩者だった。


「私……、これからも、晴紀君と一緒にいてもよろしいのでしょうか」

「そういう話は追々しましょう、晴紀が帰ってきてからです。ですが……、これからも甥と妹を、島でよろしくお願い致します」


 ついに、エヒメオーナーの伯父様が、恭しくお辞儀をしてくれた。

 美湖も姿勢を正す。


「なにもできない女です。でも、清子さんと晴紀君には……、明るい毎日を取り戻してほしいのです」

 美湖も頭を下げた。

「おなじです。危うく妹を失うところでした。二度とそのようなことは私も遭いたくない、遭わせたくない。晴紀もです。この会社を担っていく一族の大事な男児です。これからも頼みます」

 これからのことは、また改めて。いまは、そう、島であった日常を一緒に取り戻しましょう。そこから、美湖もこの伯父様と一緒に、慌てずにやっていこうという気構えを整える。


「お父様もいらっしゃるのですよね。ご挨拶させてください。お父様もお医者様でしたね」

「はい。御殿場で兄二人と医院をしております」

「お嬢様が心配で、瀬戸内まで来た気持ち、私もわかりますよ」


 そういってエスコートしてくれる伯父様は、優雅でやわらかな人。この時、美湖は初めて感じた。清子に似ている、やっぱりお兄様。知っている空気だと心が緩んだ。



・・・◇・◇・◇・・・


 

 帰りも特急しおかぜ。今治の駅で遅い昼食を父と取って、夕暮れが迫ってきた海沿いをまた帰る。


 美湖はスマートフォンを持って検索中。


「最後に道後温泉に泊まっていくなら、早くそう言ってよ! 人気の温泉なんだからね、宿が取りにくくなるでしょ!」

「いや、どこでもいいと思っていたんだが、やっぱり行きたくなった」

「どこも部屋とれなかったら、ビジネスホテルでいいよねっ」

「う~ん、郊外でもいいから温泉付きの安い宿でもないのか~」

「もう~っ、私だって、松山に来てまだそんなに経ってないんだよ~。知らないよ!」


 こんな時、晴紀に聞きたいのに、いまの彼の気持ちを思うと『いいお宿教えて』なんて気楽に聞けない。


「愛美さんに聞こうかな」

「おいおい、おまえ、横浜に出張になっているんだろ」

「ああ、そうだった。てことは、吾妻先生なら!」

 と思ったら、道後温泉本館近くの旅館が空いていた。電話をするため、デッキへと向かう。父と自分の部屋とひとつずつ取れた。


「空いていたよ、お父さん。私とひとつずつね」

「なんだ。一緒でも良かったのに。お父さんがおごってやったぞ」

「いえ、けっこうです。いちおう稼いでいるし、大人なっても女の子なので、男性のパパに見られたくないこといっぱいあります。一人でゆっくりします」

「夕飯は一緒にするだろ」

 美湖はそこでちょっと照れて伝える。

「うん……。お夕食は父の部屋で一緒にお願いしますと伝えておいた」

 父がにっこりと笑った。


 外はもう茜の海、黄金色の水平線。また父が車窓に釘付けになる。


「明日でこの海と島の景色ともお別れか」

 寂しそうに溜め息をついた。もう飛行機も予約してしまい、父は明日帰る。

「晴紀君に会ってから帰りたかったが、まずは今治の伯父さんと話すようだから、お父さんとはそれからだな」

「来月、また島に来るんでしょう」

「ああ。診察と晴紀君に会いにな」


 清子とは既に別れの挨拶を父は済ませていた。美湖が出張することになったついでに、父も帰ることにしたということになっている。


「それにしても、今治の伯父さんは圧巻だったな。あれは真の一族の長だ。美湖、おまえ、これから晴紀君とつきあうなら覚悟したほうがいいぞ」


 父も馨伯父の威厳には圧倒されたようだった。


「しかも、おまえがまごまごしているのが面白かった。あれぐらいの年配がいたほうが、おまえのためかもな」

「もう、それ言わないで、お父さん。もうもうほんっとに、やられ三昧だったのよー」

「かえって素直なほうが、あの伯父様にはかわいがられると思うな。だが、やはりエヒメオーナー凄かったなあ。いやー、あんな世界があるんだなあ。あの小さなビルにおさまっている社員だけで、百隻の大型貨物を動かして日本の海運と物資を支えているなんてな!」


 その父が自分のスマートフォンを美湖に差し出してきた。


「なに。お父さん」

「おまえ、船舶位置情報がわかるやつ、スマホで見ていただろ。父さんのスマホにも入れてくれ」


 それで晴紀君が乗る船とか、野間汽船の船を確認するんだ! なんて、父はもうすっかり瀬戸内と海運の虜だった。


「もう、しかたないな~」

「なあなあ、どうやって見るんだ。なあなあ」


 帰りの特急でそんな親子のひととき。その時間はあっという間だった。


 



 道後温泉の旅館。父は和室を取ってあげたが、美湖はベッドがあるシングル部屋。

 そのベッドで眠っていると、スマートフォンが震える。

 また寝ぼけ眼で眺めると、晴紀からのメッセージが入っている。


【 おはよう。先生、まだ寝ているかな。昨日の夕、今治に着き伯父と従兄と話し合いました。正午ぐらいに特急で松山に着きます。先生、まだ道後? 島に帰る前に会いたい 】


 美湖もそのつもりだった。晴紀の連絡が来るまでは、一人で島に帰るつもりはなかった。


【 おかえり、ハル君。待っています 】


 やっと、晴紀に会える。やっと……、彼が開放される? されていなくても、美湖は彼と一緒に島に帰りたい。


 

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