先生には、ナイショ③-1
夜が明ける。網を引き上げろ。同じ漁師仲間がこぞって海から網を巻き上げる。
空が青くなったら、港へ。
冬の海は朝靄にけぶる。
「おう! ハル、今日はどうだよ!」
島の西港へと向かっていると、そばにもう一隻の漁船が接近してきた。
「まあまあかな」
「俺もだな~」
幼馴染み、愛美の兄貴『小嶋成夫』だった。
船上で気怠そうな成夫を見て、晴紀は溜め息をつく。昨夜はいつまで遊んでいたことやら。どうせ、妹夫妻を二人きりにしてやろうと途中から一人になって、城山麓の繁華街で遊び倒していたのだろう。
そのまま市街のマンションで休んで帰ってくるかと思ったら、きちんと漁の時間に戻ってきていた。
おーい! ハルー!
向こうから声が聞こえてきて振り向くと、少し離れたところに岡ちゃんの漁船。
「おーい、ハル! お父さん駄目だわ。船酔い!」
あー、心配していた通りになったと、晴紀は苦笑い。昨夜、呑むだけ呑んで岡ちゃんと語らって寝不足で漁船に乗ったらそりゃ酔うわ……と思っていたから。
すぐ隣で漁船を併走させている成夫も溜め息をついていた。
「やっぱな。酔うと思った。前は酔わなくても、体調が万全じゃないし漁に出ている船と釣り船として出すポイントは違うもんな」
「そうなんだよ。だから俺も止めたし、岡ちゃんも止めていたんだけれど、お父さんがもうすぐ御殿場に帰るから絶対に乗ると言い張って大変だったんだ」
「あれだな。美湖先生にそっくりだよ。強気で熱血で頑固だ」
幼馴染みから語られる相良親子の姿に、晴紀もその通りと笑ってしまった。
無事に着港。船を降りて桟橋にて、岡ちゃんがお父さんを連れて帰ってくるのを成夫と一緒に待った。
お互いにジャンパーを着込んだ漁師姿で冷え込む桟橋で、岡ちゃんの漁船が入港するのを眺めていた。
「成夫、今日は市街に泊まらないで帰ってきたんだな。また二番町のお姉ちゃんをお持ち帰りで朝帰りかと思っていた」
「まあな。でもよ、昨日は昼から披露宴、夕方まで二次会、呑みっぱなしだっただろ。夜にはもう酒も飽きた。やっぱ海に出ないとシャキンとしねえわ、俺は」
この男も海の子だった。会計士の資格も持っているし、資金運用の才能もある。だから、実家の財産をうまく回して悠々自適に暮らしている。本当なら、それだけ金があれば好きなだけ遊んでいられるだろうに、成夫の原点は『島の海』。子供の頃から、父親が操縦する船に乗って育ってきたのは晴紀と同じだった。
「都会なんてつまんねーよ。決まりきったスーツの質と役職だけを競ってさ。潮を浴びねえと、なんかやる気が萎える。血が滾らねえ。漁とダイビングができればそれでいい、俺は」
精力的に遊びほうけられるのも、潮を浴びて生命力を養うから。それが彼の生き方だった。
「そうだ。ハル、この前さ、美湖先生が今治のおいちゃんに、薬局が西港側にも欲しいって言っていたんだろ」
「あ、うん。伯父も検討するとか言っていたからどうかな」
「俺、出資してもいいぜ」
急な申し出に晴紀は目を丸くする。
「いや、でも」
戸惑う晴紀に成夫が片腕を上げると、脇の下をさすった。そこは台風の夜に胸を強打し、気胸という症状に陥った時に、外科医の美湖が躊躇いもなくメスを入れた箇所だった。
「美湖先生には危ないところ助けてもらったからな。その恩返し。そういうお礼のほうがあの先生、喜ぶだろ」
ありがとうを言われても美湖は喜ばない。それを幼馴染みは良くわかっていた。
「伯父さんが出資しないとかいうなら、俺が全額出資してもいいからな。どうすればいいか教えてくれよ。まあ、長続きできる薬局が作れるかどうかは俺もわからねえ。薬剤師も確保しなくちゃならないし、どっちかというと出資損の気もするけれどな」
「いいのかよ」
「ハルが診療所にだいぶ出資したから、今度は俺な」
「先生、喜ぶよ」
「ハルはどうなんだよ。いつ先生の実家に挨拶に行くか決めたのか」
「母ちゃんは今年中に行くと言っている」
「へえ、清子おばさん、だいぶ元気になったな。良かった。また島外へ出掛ける気になってきたんだ」
幼馴染みも心底ほっとした笑みを見せてくれた。子供の頃から親しんできた近所のおばちゃんだから、本当に家族のように案じてくれる。
そしてこの時。晴紀は幼馴染みに言おうかどうか躊躇った。結婚する女医センセがシアトルに留学することになって、それに晴紀も母もついていくことになったことを……。
「ハル! こっち来てくれや!」
悩んでいる間に、岡ちゃんの船が無事に着港。晴紀はすぐに岡ちゃんの船へと向かう。もう博お父さんはへろへろになっていた。
「ほれ、晴紀。すぐに美湖先生のところに連れて行ってやれよ」
時計を見ると、まだ診療時間前だったが、もう診療所で愛美と支度をしている頃だった。
「俺、軽トラ持ってくるな。ハル、お父さんを岡ちゃんと抱えてこいよ」
成夫も気を利かせてさっと駐車場へ行ってくれる。
岡ちゃんと一緒に晴紀は、お父さんを肩にかつぐ。
「はあ~、もうしわけない。晴紀君~」
「大丈夫ですよ、お父さん。いま成夫が車を持ってきてくれますから、一緒に帰りましょう」
「はー、予想外だった~、晴紀君と釣りをする時は酔わなかったから~。迂闊だったー」
さらに『美湖に怒られる~、怒られる~』と唸っている始末。岡ちゃんもそれを聞くと申し訳ない顔になった。
「俺も怒られるんかいなー、美湖先生、怒ったらおっかないけんなー」
いや、そんな怖くないだろ――と、晴紀は首を傾げてしまった。
だが、早朝から美湖の激しさが爆発する。
診療所に送り届けられた父親の情けない姿を見て、白衣で開院前の準備をしていた美湖がもの凄く怒った。
「お父さん、なにしているのよ! お酒呑んで寝不足で早朝から漁船に乗ったら酔うに決まってるじゃないの! しかも昨日、一日飲んでいたんでしょ! それでも医者なの!」
「あー、うー、わ、わかってる、みこ……、うえっ」
「やだ、これから診察で人が来るんだから、ここで吐かないで!」
「あわわ、美湖先生。俺が悪いんじゃ。無理して乗せたから」
博お父さんをなんとか助けようとした岡ちゃんが割って入ったが、美湖のきつい目線がきっと向いたから、彼もどっきり固まっている。
「岡さんじゃないでしょ。お父さんが乗る乗ると楽しみにしていたから、申し訳なくて乗せちゃったんでしょ。お父さん! 岡さんのところに泊まりに行くのも初めてだったんでしょ。昨夜、遅くまで楽しんで、芳子さんや志津さんの迷惑してないでしょうね!!」
「いやいや、美湖先生。うちの芳子もばあちゃんも、男が集まって飲むの慣れとるけん、大丈夫やって」
「でも!! そういう岡さんや芳子さんの優しさに甘えて、父がまた島に来たら妙に羽を伸ばしすぎて、だから、」
これはもう頭の中熱々になっていると悟った晴紀は、そっと美湖の前に立ちはだかる。
「センセ、そのへんにしとこうか」
「ハル君、だって――」
それまで医師の顔だった美湖が、晴紀の目を見ただけで『美湖さん』の表情に崩れたのがわかった。
美湖はいつも白衣を着ると、前髪をヘアクリップでアップにしてしまいおでこが丸出しになる。その時は色気ナシの本当に女医の顔になる。仕事が終わり彼女がそのヘアクリップを外すと、綺麗な黒髪がさらりと落ちてきて急に大人の女の雰囲気を醸し出す。そのオフに切り替わった時の彼女の顔を見るのが晴紀が好きだったし、その顔になって戻ってきた彼女を抱きしめたくなる。そんな時の美湖は優しい顔に戻る。『ハル君、ただいま』と少し甘えた声になる。いま、おでこ丸出しなのに、その声になった。
彼女が晴紀に対して、少し落ち着いた証拠と見極めて、晴紀から切り出す。
「美湖さんだってお父さんと同じように、心地よくなったことあるだろ。特に芳子さんと志津ばあちゃんと一緒にいると」
美湖が黙った。それは晴紀もよく知っていたからだった。岡の家と重見の家は近所で付き合いが古い。晴紀も岡の家の者には良くかわいがってもらった。こちらは長男と長女、次女と子供三人いるが皆島の外に出て、社会人として自立、会社勤め、結婚、家庭もあった。島に帰ってくるかどうかはわからないという。その岡家の兄妹にも晴紀はよくしてもらい、兄ちゃん姉ちゃんと思っている。父が亡くなってからは、岡ちゃんがよく気にかけてくれた。母の姿が見られないと最初に気がついてくれたのもこの岡家の志津のひとことから。そういう彼らの家に行くと、誰もが心地よくなる。美湖も赴任してから志津によく気をかけてもらったことは感謝しているとよく話す。
そういうお宅へと誘われて、この島を気に入ってくれた博お父さんが羽目を外してしまったその心情が晴紀にはわかる。そして美湖にも通じると思った。
「あの、もう、始まっとるんやろか」
診察の島民が来てしまった。
「ハル、あっちのリビングに連れてこうか。美湖先生、仕事してや」
年長者の岡ちゃんがその場をまとめようとしてくれ、晴紀も美湖も一緒に頷いた。
リビングに布団を敷いて寝かせた後、晴紀は美湖の様子を見に行ってみる。
診療所の待合室にはもう島のお年寄りや風邪ひきの子供に母親でソファーが埋まっていた。
受付カウンターで愛美が一緒に来た兄貴となにやら話している。
「あ、ハル兄。博先生、大丈夫だった?」
愛美も心配そうだった。
「いま休んでる。美湖先生は?」
診察室のドアは勝手に開けてはいけないと言われているので、もう彼女の姿が見えない。
「んー、やっぱりプンプンしているかなー」
毎日一緒にいる愛美は『美湖先生は仕事の時はクールだけれど、プライベートになるとわかりやすい』とよく言っている。その様子がわかるようだった。
妹が看護師として働いているのに、兄貴はラフな漁師姿でカウンターにもたれニヤニヤしている。
「でもさ、俺。美湖先生は怒った時がいちばんかわいいと思うな」
自分以外にそんなことを言う男が出現して、晴紀はギョッとした。しかも生まれた時からずっと一緒だった幼馴染み、しかもタラしの男!
「もう兄ちゃんは不合格。ほんとうの意味で美湖先生が怒るのかわいいと思ってないもんね。ハルぐらいに、がつんと受け止められなくちゃだめ」
二歳年下の幼馴染みの立派なフォローにも晴紀はギョッとしてしまった。
「お兄ちゃんはすぐに踏み込むのやめるでしょ」
女と身体は深く結んでも、気持ちは結ばない兄貴の生き様にものを言っているようだった。
「ま、俺はしっかり者の女が必要なんだろうけれど、そのしっかり者が苦手なんで美湖先生は見ているほうが楽しいな」
きっとそうだろうと晴紀もわかっていた。幼馴染みの成夫は、美人の女医には食いつかないと安心はしていた。しかも気が強くて口が悪いなんてきたら、成夫はもう面倒くさがって一線どころか三線ぐらい引いてガードを固めそうだった。
そんな話を幼馴染み同士でしていたら、診察室から患者が一人、美湖と一緒に出てきた。
「あ、よかった。成夫君、まだいた。父を連れてきてくれてありがとう」
いつまでもぶらぶらしている成夫を見つけた美湖がにっこり微笑んだ。仕事中はクールにしている彼女が笑うと晴紀は密かにドキリとしている。
だが幼馴染みはこんな時も調子がいい。そばに来た白衣姿の美湖へと身をかがめて顔を近づけてくる。それも鼻先と鼻先が触れそうなほどそばに。それを見ていた待合室のじいちゃんばあちゃんにママさんに子供が揃ってギョッとした顔になった。
「先生、俺、キスのお礼でいいっすよ」
待合室がざわっとした。だが密かに溜め息も聞こえてくる。成夫という調子の良い(でもデキる)青年をよく知っている大人達は『やれやれまた調子が良い』と呆れているだけ。
「ちょっと、お兄ちゃん!」
愛美はすぐに頬を真っ赤にして怒った。晴紀はただ美湖の目を見ている。この先生がそんなことで驚くわけないだろ。むしろ……『やり返す』に決まってるからと。
「いいよ、成夫君」
また待合室がざわっとする。顔と顔がこれ以上とないほどに接近している島の青年と女医。それが診療中にそんなことするのかと。
だが美湖の目がそんな調子の良い男の目を見て、ぎらっと光ったのを晴紀は見逃さなかった。だから黙って見ている。
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