世は事もなし
それから、世は事もなく。
逆卍党との伝通院も、二、三日ばかり山門が閉ざされていたが、騒乱の痕跡はきれいさっぱり消されていた。例の書き置きの効果であろうか、
暇人長屋界隈には、いつもどおりの日々が流れた。
早良刃洲の診療所には相変わらず評判を聞きつけた患者が並び、抜刀小町こと美鈴は居合抜きの興行を門前仲を賑わせている。関口流抜刀術の妙技で、お縫が放る大根を真っぷたつにしてみせる。陰陽師の芦屋晴満は、土御門伝来の陰陽術という触れ込みで暦や辻占で稼ぐと、どこぞに繰り出していく。無縁亭想庵は、版元からせっつかれながら戯作に追われている。津神天次郎は、江戸の町で暴れまわる
さて、夢見客人はといえば、無頼の暮らしを続けている。
用心棒稼業の傍ら、また何の因縁ともしれぬ相手と刃を交わしつつ、ふらりと江戸の各所に姿を見せるという。
そうして長屋に戻ってきたのは、昼八つ(午後二時頃)であった。
神田鍛治町の刀鍛冶に、磨り上げを頼んだ救世正宗を受け取っての帰宅である。
「お帰りなさいませ、夢見様」
「戻りました、姫様」
押しかけ姫の千鶴が、三指を突いて待っていた。
部屋も掃除が行き届いてこざっぱりとしていて、帰りの時刻を告げていないのに甲斐甲斐しいことこのうえない。
だからこそ、客人も帰りの足が遠のくのであるが。
畳に腰を下ろすと、お茶まで淹れてくれる気の使いようだ。
すっかり女房のような振る舞いが板についている千鶴であったが、客人は身の回りの諸々の道具がまとめられていることで何かを察したようである。
「さっ、どうぞ」
「かたじけない」
こうして何気ない日々が過ぎていくが、少し前までは逆卍党と隠れキリシタンを巻き込んだ大陰謀の渦中にいたのが、嘘のように平穏であった。
その大きな変化は、さる大名家の姫君という立場であった千鶴に、ひとつの心境の変化をもたらしている。
天下泰平の影には、知られざる戦いと秘密があったのだ。
そして胸に人には言えぬ事情を持つ者は、千鶴だけではなかった。
客人は、ひと口含むと湯呑みを静かに置く。
その何気ない仕草、振る舞いですら、ため息が出るほどのものであった。
「伴天連様も傷が癒えてもう差し障りないということです」
「この暇人長屋なら、宗門改の探索を心配することはありませぬ。世に憚ることなく暮らすならば居心地のよいところでござる」
千鶴の世話をしていた宣教師の青年は、富岳風穴にて瀕死の重傷を受けたものの、癒やしの奇跡によって一命をとりとめた。
今は、富士の行者ということにしてこの暇人長屋に身を潜めている。
しかし、その傷ももう癒えたという。
「夢見様、わたくし考えていたことがあるのです」
「うかがいましょう」
「伴天連様とともに、信仰を伝え学ぶ旅に出ようと思うのです」
穏やか表情で、千鶴は客人に告げた。
その身に聖痕を宿した意味を思い、決めたことであった。
「……どこまでいかれるのおつもりか」
「伴天連様が言うには、天竺に大きな聖堂があるといいます。わたくし、行ってみとうございます」
インドの港町ゴアは、ポルトガル王国の植民地となっており、サンタ・カタリナ大聖堂が築かれている。
かのフランシスコ・ザビエルもゴアを経由して日本布教に訪れ、また最期を迎えた。
その遺体が安置されており、死後五十年後に切断された右手からは鮮血が溢れ、奇蹟に認定されてる。
「海を渡って天竺までいくとなれば、長い旅になりましょう。決して容易いものでありますまい」
幕府は、いわゆる鎖国体制を着々と進めており、寛永の頃には外国船の入港を長崎のみに定め、ポルトガル人の追放を行なった。また、日本人の出国と帰国も禁じる触れも出ている。
それでも、千鶴の中ではその思いは大きくなっていた。
「それでも、行ってみとうございます。わたくしも夢見様のように誰かの心の支えになれるのなら。この身は、夢見様に救われましたから」
「拙者、
「そのおかげで、わたくしはこうして長屋におられますから」
たとえ金のためだとしても、この美貌の剣客が千鶴の光明となったのは間違いない。
あのときの安堵と希望があったからこそ、今があるのだ。
救いがもたらされぬ暗さが、どれほどの恐怖なのかを身を持って知った。
だからこそ、榊世槃の絶望を思う。
光なき闇の中で、光あるものを焼き払いたいと願う苦しみを。
それを瀬戸際で止められるのだとしたら、身に宿された聖痕にも意味があろう。
「姫様の決められたことならば、拙者は何も申しませぬ」
「短い間ですが、勝手に押しかけてお世話になりました。我が身の都合で立つことをお許しください」
「お気遣い無用、拙者も誰気兼ねなく生きております。お暇ができたら、いつでも顔を見せてくだされ」
「はい、いつになるやらわかりませんが……」
インドゴアまでは、長崎のオランダ船に乗ってマラッカを経由しても半年以上はかかる長旅になろう。
伴天連とともに旅立つとしても、危険も多く旅半ばで斃れることもある。
それでも、千鶴は決意した。
聖痕が刻まれているからと言って、聖人として生きずともよい。
だが、聖痕が刻まれているからこそ、その意味に生きてもいい。
いずれにしろ、自分で選ぶ道なのだ。
「伴天連殿共々、旅のご支度が整いましたら拙者もお見送りいたしましょう」
「ありがとうございます、夢見様」
「何、礼には及びませぬ」
「わたくし、この長屋に来てよかった……」
千鶴は、懐に隠した十字架に触れた。
暇人長屋にやってきたことで、大きな救いがあったのだ。
楽しいこと、嬉しいこと。色とりどりの景色があった。
大名の姫君のままなら、きっと知らずに過ごしてただろう。
だからこそ、今生の別れとなろうとも思い出を胸に生きていける。
これから、江戸に夏が訪れようとしている。
一足早い蝉の声が聞こえていた。
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