夜動く

 日は沈んで、江戸は寝静まる。

 晩九つ、子の刻(〇:〇〇)――。

 水戸藩江戸上屋敷近くにある小石川の伝通院は、幾多の堂塔や学寮を有し、数多くの学僧が学ぶ。

 その境内で、赤々と護摩壇ごまだんが焚かれていた。


「…… 曩莫ノウマク 薩縛怛他孽帝毗藥サラバタタギャテイビャク 薩縛目契毗藥サラバボッケイビャク 薩縛他サラバ 咀羅吒タタラタ 贊拏センダ 摩訶路灑拏マカロシャダ ケン 佉呬佉呬ギャキギャキ 薩縛尾覲南サラバビギナン ウン 怛羅吒タラタ 憾漫カンマン――」


 響き渡る不動明王火界咒ふどうみょうおうかかいしゅの真言独唱。

 立ち上る炎の前で結跏趺坐する“神仏殺し”日叡が、印を結んで唱えるこの真言こそ、激しい火炎によって一切の煩悩、悪業、悪因縁を浄化するとされるものだ。

 逆卍党の忍者たちは、すでに僧たちを拘束し、あるいは殺戮して静寂を保った。

 夜天に昇ろうかという勢いで燃える護摩壇の炎が、乾からの風を受けて竜のごとくのたうった。


ウン――」


 気配を感じた日叡が真言を止め、正面を見据えた。

 伝通院の山門を通って現れた美影は三文銭の着流し姿の夢見客人。

 その背に付き従うのは、奇蹟の姫君こと千鶴。

 黒装束の忍びたちがざっと現れて、日叡との間に立ちはだかる。


「その炎が、煉獄の炎とやらか」

「いかにも。衆生を救い清める炎にて」

「阿弥陀如来を本尊とする霊山の境内で、進んで殺生するとはな」

「今こそ神も仏もすべて死に絶えた末法の世。破戒もまた楽しからず」


 妖しい笑みを浮かべて日叡は言う。

 “神仏殺し”の二つ名は、おのが信心の放棄したがゆえである。


「御坊と問答するつもりはない。約定通り、千鶴姫はここにまいった。世槃はいずこに?」

「あちらをご覧あれ――」


 日叡は、背後の本堂の屋根を指す。

 果たして、その屋根から真下を見下ろすように榊世槃は立っていた。

 その傍らには、吸血鬼の有廉邪々丸の姿もあった。


「世槃……」


 言って、客人は見上げると視線が交差する。

 千鶴が、客人の背から一歩を踏み出した。

 意を決し、視線の向こうにいる世槃に向いた。


「どうか、このようなこと、おやめください……! 無辜の人々を火に包もうというのは間違っております。皆様も、どうか!」


 逆卍党の忍者たちにも、千鶴は訴えかける。

 ほんのわずか、逆卍党の忍びたちが党首の指示を仰ぐように目を向けた。


「この世に無辜の民などおらぬ。我が手下の者は、世を恨んでおるのだ。天下泰平と信じて、おのがことを疑いもせぬ者どもをな」

「待ってください! 皆、せいいっぱい市井に生きる人々ではありませんか。そのような道理がありましょうか!」

「心の底からの恨みに、道理など通用せぬ。我が許に集ったのは、そもそもが豊臣恩顧の者をはじめ、道理もなく追い立てられ、虐げられた者たち。ゆえにこそ、この世のすべてを憎む――」

「そんな……」

「わからぬか? だが、その思いをわかるからこそ、この者らは俺に従う」


 世槃の声が、上から響く。

 江戸を焼く、それもみずからが救世主とならんがために。

 この狂気の企みに逆卍党に集った者たちが共鳴するのは、世に虐げられた者が望む恨みというものを榊世槃が理解するからだ。

 理不尽に虐げられたからこそ、理不尽を思い知らせたいと願う。

 これに理屈はない、ゆえにこそ理屈でないと思いを解する世槃を党首と仰ぐのだ。


「姫の願いを聞き遂げぬというならば、やむなしか」


 客人が朱鞘の御世継ぎ殺し村正に手をかけ、鯉口を切った。

 それを合図に逆卍党の忍びたちが大勢で取り囲んでいく。

 数十人ほどはいようか。


「よう、夢さん。そろそろ助っ人の頃合いだろ――」

「そうだな、天さん。ひと暴れいたすか」


 大剣を肩に担いだ津神天次郎が現れる。

 さらには、抜刀小町の美鈴、無縁亭想庵、芦屋晴満、お縫の錚々たる長屋の暇人たちが続いた。


「助っ人は多いほうがいいでしょ、夢さん!」

「揃いも揃って暇人ばかり集まったものだ」

「一番の暇人が何を申すやら」


 想庵が客人に言う。

 暇人長屋の暇人たちが、ここに集って大立ち回りに加わるという。


「しからば、拙僧もひさびさに槍を取りましょう」


 立ち上がった日叡は、槍を手にする。

 穂先が十字の鎌槍となる宝蔵院流槍術のものだ。

 

「こいつはおもしれえな。夢さんに付き合うと退屈せん」

「拙者はそろそろ退屈を楽しみたいがな」

「そいつは贅沢な楽しみだ。ここは俺たちが食い止める。あいつは夢さんに任すぜ」

「さっ、行くでおじゃる。あの妖僧、密教の術を使うとなれば麿の相手よな」

「かたじけない」

「何、浅草の茶屋でうまいものを供してくれれば」

「ずいぶんと高くつきそうでござるが、背に腹は変えられん」


 言って、晴満はじめ暇人長屋の面々は本堂までの道を切り開こうとする。

 伝通院の境内で、戦いの火蓋が切って落とされた。

 まずは一斉に忍びたちが動くが、これを美鈴の居合いと天次郎の大剣が薙ぎ払う。

 すると、十字槍を構えた日叡が天次郎と晴満の前へ。

 本堂の屋根から、ふわりと舞い降りた邪々丸が美鈴の前へ。

 それぞれに自分が食い止める相手を選んだ。


「姉様、もう一度あなたの甘露の血をくださいませ」

「面妖な……! 二度と不覚は取りません」

「ですが、毎夜疼いたのではありませんか? 血を吸いたい、吸われたいと」

「くっ……!」


 嘲る邪々丸に、美鈴はかっと血が上りそうになる。

 毒は想庵の秘薬と刃洲の処方でいくらか和らいではいるが、それでもあのときからの記憶は癒えてはない。


「おだまりなさい。今こそ、|破邪顕正〈はじゃけんしょう〉のとき」


 柄に手をかけ、林崎夢想流の流れをくむ関口新心流抜刀術の構えで腰を落とす。

 一方、天次郎と十字槍を構えた日叡が、双方の得物の間合いを探り合う。

 ツヴァイハンダーと十字槍の間合いは後者に有利があると見ていいが、薙ぐと突くとで有効な攻撃範囲に違いがあある。これを図り損ねれば敗北は必定だ。


「どうした坊さん? 睨み合いでは決着はつかんぞ」

「そちらこそ、存分に来られよ」


 乱戦の中でも、この二人は別格となって逆卍党の忍びたちも容易に手が出せない。

 本堂へ向かう夢見客人を止めようと、忍びたちが行く手を阻む。

 ――が、その額に立て続けに礫が小気味よく命中していった。


「さ、今のうちってね」


 小天狗お縫、得意の印地打ちであった。


「あまり無茶をするでないぞ、お縫坊」

「わかってるって」


 しかし、ここに新たな敵が現れることになる――。


「夢見客人、柳生じゃ!」

「何……!」


 仏塔の上から見張った瞳鬼の声がすると、猛獣を思わせる強烈な殺気が走る。

 逆卍党の忍びを斬り倒して現れた相手とは、これで三度の対面となる。

 ぎらりと血に濡れた太刀を引っさげて立つのは、深編笠に無紋の小袖の刺客――。


「会いたかったぞ、夢見客人ぉ……」


 柳生の刺客、斎藤丈之介であった。

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