出立之朝

 表街道は甲斐国甲府柳町宿まで、裏街道を含めると下諏訪宿まで続く四十四宿の甲州街道は、寛永の頃は甲州海道こうしゅうかいどうとの呼び名であった。後に甲州道中に改められることになるが、作中の表記上では馴染みのある「甲州街道」とさせていただこう。

 神君家康江戸入府の頃より、もしもに備えての避難路として整備されたものだと言われている。

 幕府が整備した五街道――すなわち、東海道、中山道、日光街道、奥州街道、甲州街道――の中でも、整備されたのはもっとも新しいものである。

 短いながらも小仏こぼとけ鶴瀬つるせに関所があり、俗に言う入り鉄砲に出女を厳しく取り締まった。

 さて、富士に向かうには、この甲州街道を下って大月宿おおつきしゅくから吉田口よしだぐちに至ることになる。富士講の聖地である人穴ひとあなは浄土と呼ばれ、富士参詣ののちに人穴宿に寄って宿泊したという。

 夢見客人ゆめみ まろうどは、この道を進むことになる。

 同行するのは、瞳鬼であった。

 抜刀小町の美鈴は吸血鬼有廉邪々丸の毒から癒えず、この呪詛払いと療養は芦屋晴満と早良刃洲が引き受ける。

 津神天次郎は後詰めとして暇人長屋に残ることになった。千鶴姫の身を守る依頼を引き受けたのは客人であり、助っ人として関わった天次郎を残すのは、彼なりのけじめである。

 無縁亭想庵はそもそも、旅路では足手まといになるほどの体力しかない。江戸から富士山までは、どんな健脚でも三泊四日はかかるとされている。

 一緒に行くとお縫が言いだしたが、そういうもいかない旅路だ。

 早朝、客人と瞳鬼の出立を見送るために長屋の面々が集まっている。

 客人は、裾を黒く縁取った野袴に打裂ぶっさき羽織、編笠と柄袋という旅装となった。

 瞳鬼も富士詣りの娘として手甲脚絆てっこうきゃはん、杖と饅頭笠を持つ。髪を結い上げつつも、特徴的な左目は前髪で隠した。

 関所破りはご法度で見つかれば磔の重罪で、小仏関では証文の改めがいる。

 この証文は、すぐに瞳鬼が手配した。

 大老、土井大炊頭の密命を受ける伊賀組の忍びゆえに、必要とあればそのくらいの手回しはできる。


「では、行ってくる」

「おうよ、後のことは任せておきな」


 天次郎がにっと笑んで応える。

 腕っぷしはもちろんのこと、後詰めに入れは何かと頼れる男である。


「連れて行ってって言ったのにさ」


 お縫は、まだ不満そうにしている。

 忍びの技を体得しているとはいえ、まだ十三の小娘である。

 何が待ち受けているかも知れぬ道中を共にするわけにはいかなかった。


「そう言うな。これ以上、幻兵衛爺さんに心配をかけるような真似をさせると拙者が叱られる」

「でも、瞳鬼ちゃんは連れて行くんじゃないか」

「連れて行くのでなく、ついてくるのだ。拙者のお目付け役としてな」

「そんなこと言って、深い仲になろうっていうんじゃないの?」


 ふんと鼻を鳴らし、ませたことを言う。

 数えで十三となれば、男女の仲もそろそろわかってくる年頃である。

 こう言われて、年上のはずの瞳鬼の顔が真っ赤になった。


「馬鹿を申すな、誰がこのような男と――」


 最後の方は消え入るような声になってしまう。


 ――こんな自分が、夢見客人とどうなれるというのだ?


 お縫より歳は三つか五つ上、瞳鬼もまた娘の盛りにあった。

 本来なら花も恥じらう乙女の頃であるが、その大きな左目のおかげで、色恋など無縁であると思い知ってきた。

 だが、思い知ったとしても、憧れる部分がなくなるわけではない。

 いずれ、ば消え去ってしまう感情だと思っていた。

 事実、気味悪がり、恐れる者ばかりしかいなかったというのに。

 夢見客人は違ったのだ。

 他の者と同じように自分を、気味悪がり、恐れてくれたのなら迷わなかったろう。

 その美貌に惹かれてしまった自分の心を、未練もなく断ち切れたはず。

 

「瞳鬼、しばしそのまま動いてならぬぞ」


 出し抜け客人が言って、そのしなやかな手がそっと瞳鬼の頬に添えられた。

 触れるか触れない程度だが、だというのに動けない。


「何を――」と戸惑うものの、その手を振り払えずにいる。


 まるで魅入られたかのようだった。

 暇人たちが見守る中でのこと、思わず瞳鬼の頬が朱に染まる。


「よしよし、似合うものでよかった」


 客人が瞳鬼の髪にそっと挿したのはかんざしであった。

 薄紅の珊瑚玉をあしらったもので、珊瑚玉が右に来るようにしている。


「ど、どういうつもりだ?」


 髪に挿された簪に触れ、瞳鬼は客人に理由を問う。

 高鳴る鼓動は、きっと聞かれてはいないと信じるしかない。


「この道中は忍び旅となろう。その簪で飾って釣り合いを取ってみれば、おぬしのその瞳もそれほど人の目を引くことはあるまい」

「余計なことを……」

「年頃の娘がなんの飾り気もない方が返って怪しまれる。つけておくがいい、用心のためにな」


 言いながらも、どこか楽しんでいる様子がある客人である。

 一方で、お縫はふくれっ面だ。仲睦まじい男女のような振る舞いが気に入らないのである。


「まーたそんなふうに口説くんだから。美鈴姐さんがまた焼きもち焼くよ」

「そいつはかなわんな。お縫坊と美鈴殿にも、土産を見繕っておこう」

「瞳鬼ちゃん、抜け駆けはなしね。夢さん、いっつもこんなだけど……気を抜いたら泣かされることになるんだから」


 見送りがてら、お縫は瞳鬼に囁いた。

 自分と夢見客人を取り合いしているつもりでいるのが、なんだかおかしかった。

 お互い、そのように意識されているわけもないというのに。

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