峠越え
日本橋から高井戸宿までは四理も歩く。
夢見客人と瞳鬼は、一日目の宿をここにとって、体を休めた。
のちに甲州街道の最初の宿場町となる内藤新宿はまだなく、国領、国領、下布田、上布田、下石原宿、上石原宿の布田五宿を抜けて府中宿に泊まった。
朝方、駒木野宿を立ち、小仏の関で手形改めをまっているところだ。
関所破りは重罪だが、そう難しいことではない。宿で銭を渡せば横道を教えてくれるだろう。
公儀隠密伊賀組というのは、幕府内でも誰もが知るところであるが存在しないものとなっている。
ゆえに、他藩に潜伏している最中に正体を暴かれようと幕府側は庇護しない。
藩内の事情を幕府が探っていたとなれば、不信の口実と面目を潰す口実を与えることになる。よって、切り捨てられても文句は言えず、送り込んだ幕府も知らぬ存ぜぬを通す。
よって、隠密は切り捨てお構いなしとなる。
手形を手配したものの、それで通してもらえるとは限らない。
小仏の関は東西に門があり、竹矢来で越えられぬよう囲われている。関所番は四人おり、まずは手形改めを受ける。
富士詣の証文と町人手形はあるものの、これを番所の前に置かれた手形石に並べ、吟味の間はもう一方にある一方の手付き石に手をついてお許しを待つことになる。
女は、そののちに改め婆によって髪を梳かれ、身体検査をされる。
ここで不一致があると、証文の取り直しまでさせられ、引き返すなりの足止めを食う。
ちなみに、男はここまで調べられることはない。しかし、女が男装して関所破りをする例もあり、類まれなる美形の客人も訝しまれはした。
「よし、こちらへ」
瞳鬼が呼ばれ、関所の番屋に上げられる番だ。
強欲そうな婆さんが、その身体を改めることになる。
「次、来な」
呼ばれて瞳鬼が向かおうとする。そこで客人が呼び止めた。
「いかんな、せっかくの簪がずれている。直してやろう」
と、簪を挿し直す。
「じ、自分で直す……!」
「いいから、じっとしておれ。身だしなみも人目につかぬためのものだ」
柔和に微笑む客人が、珊瑚玉の簪を整える。
髪に手が触れるたびに、舞い上がりそうな気持ちになるのを抑える。
心を落ち着かせると、正座した瞳鬼の後ろに改め婆が膝立ちになって人見が始まった。
左目は、眼病ということで証文に届けてある。
「年の頃、一七。左目は目病みで腫れあり。ほら、頭を見せな」
面倒くさそうに改めを行なう。難癖をつけて追い返し、袖の下を取ろうという例も少なくない。
雰囲気から察するに、この婆さんもその手合いのようだ。
「証文どおりかねえ。ん……?」
乱暴に髪を解こうとした婆さんはそこで何かに気づき、手を止めた。
まとめた髪の間に挟んであった、一分銀が二枚。
簪を直すと見せて、客人が忍ばせたものだ。
「証文通り、通っておいき」
にんまりと笑った婆さんが、豆銀をさっと懐に仕舞い込んだ。
地獄の沙汰も金次第だが、峠の関を越すのも金が物を言うのである。
すんなりと通れたことで、振り返りもせずに関所を後にする。
小仏宿の旅籠について、
「このこと、礼は言わぬぞ」
「構わん、いつぞや命拾いしたことの恩返しだ」
吉原で、斎藤丈之助の暗殺剣より救ってもらったことへの返礼なのだという。
あのとき、瞳鬼が声をかけなくとも、夢見客人ならば躱していたはずだ。
「それに、小仏の峠は高雄の山にかかる難所だ。その前に、足止めを食ったらかなわん」
小仏峠は、武蔵と甲斐を結ぶ路で、高尾山と景信山の間にある。勾配が急な難所とされる。
そのため、峠を登る前に休めるよう
それでも、一〇軒程度の旅籠があり、飯も出てくる。
腹をこしらえて一服ししても、明るいうちに越して次の小原宿につくはずだ。
山女魚の塩焼きはこのあたりの名物だけあって、なかなかの美味である。
主人が釣ってきたものだというが、山女魚というのは警戒心が強く、なかなか針にかからないらしい。それをうまくかけるのが名人だという。
そういう話を半刻ほど聞かされた頃には、客人も瞳鬼も十分に休めた。
宿を立ち、いよいよ山道へと向かう。
「山女魚も料理もよかったが、主の自慢話はいささか余分であったな」
「まったくだ」
木々の茂る山道を二人は歩く。瞳鬼も打ち解けてきたのか、微笑むようになった。
草鞋も新しいものに履き替え、踏みしめるように登っていく。
梅雨の時期にはまだ早いが、雨に降られないのが救いである。
小仏の名は、この峠の旅人の無事を祈って置かれた一尺八寸の仏像に由来する。
また、頂上には茶屋があり、冨士山も一望できる景色の良さでも知られている。富士行者たちは、参詣する際に必ず一望したという。
頂上へは、半刻を少し過ぎたところでたどり着いた。
一本松と茶屋が見えてくる。
「あれが富士のお山……」
息を呑むほどの絶景であった。
信仰の対象となったのも、わかろうというもの。
「さて、茶を一杯もらおう。団子もな」
緋毛氈が敷かれた縁台に腰を下ろし、茶汲みの娘に注文した。
温かい茶で、山道を登った喉を潤す。瞳鬼も同じように口をつけた。
何事もなければ、この旅も楽しいものに思えるが、彼女の役目はお世継ぎ殺し村正を持つこの浪人の監視である。
「若いお二人さんの旅でございますか」
茶屋の娘は、夢見客人に興味津々といったところだ。
その美貌が人目を惹くのは当然で、異形の左目を気にしていた瞳鬼からすると、いささか拍子抜けであった。
「富士詣でにな。妹の眼病快癒の祈願に向かう」
瞳鬼は、この旅では妹の瞳ということになっている。
なんのてらいもなく言ったので、娘も信じたようだ。
「まあ、それは。きっと良くなりますよ」
茶と団子を出した後も、ちらりちらりと娘は客人の横顔を目で追っている。
「さて、馳走になった。勘定は置いておく」
縁台の端に銭を置いて、すっと去っていく。
瞳鬼も続いた。
これからは下りで、ずいぶんと楽になった。
「この旅で目立つのは、お前ばかりではないか」
「人目を避けるのは苦手でな、こればかりはいつも難儀している」
「当たり前だ、鏡を見たことはあるのか」
「皆、この顔に見惚れてくれるのはありがたいのだがな」
「おかげで、私が見られることはない。それと、この簪のおかげだ」
これまでずっと気に病んでいた左目のことを、この旅の間に目に止めるものはいなかった。
うまく前髪で隠しているのもあるが、人の視線がまず珊瑚玉に移るのが瞳鬼にもわかった。釣り合いを取れば目立たないという客人の見立ては、そのとおりであった。
しかし、長い間、人々の往来に身を置くのは瞳鬼にとって初めてのことだ。
これほど簡単なことだったとは。
ただ簪を挿しだだけで、まるで生まれ変わったような気持ちになる。
「……礼は言わんぞ」
「構わんと言ったはずだぞ」
頭上には、鷹が輪を書いて飛んでいるのが見える。
そんなやり取りをしつつ、夢見客人ともに四半刻ほど下った頃だった。
ふと、客人の足が止まる。
「どうした?」
「ちと厄介な相手だ。引き返すわけにもいかんか」
その美貌がにわかに曇っていく。
客人ほどの剣客が厄介という相手とは、何者か?
峠を登ってやって来たのは、巫女装束の一団であった。
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