小天狗お縫

 さっと血振りして懐紙で刀身の血を拭ったのち、客人はお世継ぎ殺し村正を朱鞘に納める。

 一刀のもとに斬ったとはいえ、佐取明玄は恐るべきできであった。

 千鶴は、ただ一連の動作を黙って見守った。

 その佩刀には、豊太閤の隠し金と彼自身の出生にまつわる秘密があった。

 佐取明玄がその真名を見抜いたが、客人は知らぬと答えた。

 集まった暇人たちは、そのことに触れることはない。

 しかし、幸頼という名から素性はおおよそ察しはつく。

 “頼”は、おそらくは太閤豊臣秀頼から“頼”を一文字拝領したもの。“幸”は客人の父からのものであろう。

 となれば、大坂夏の陣にて徳川家康の本陣まであと一歩のところまで迫り、切腹を覚悟させた日本一の兵、真田幸村からのものであろう。

 真田さなだ左衛門佐さえもんざ信繁のぶしげが幸村と名乗ったことがないとされる。

 しかし、幸村は伝心月叟でんしん げっそうなる山伏として変名を用いたこともある。

 “幸”の字は真田家の本家にあたる海野家も代々受け継ぐ通字であり、村正は徳川と戦う際に備えていたとも言われ、幸村もまた彼の変名のひとつであった。


「千鶴姫、今は一介の浪人者夢見客人としか名乗れませぬ。どうかご容赦願いたい」

「いえ、構いません。わたくしにとって、夢見様は夢見様です」


 どんな秘密を抱えていようが、千鶴にとって彼はただ夢見客人という剣客であるのだ。

 某藩の姫という自分の立場も、客人の明かせぬ出生も、何も関係はない。

 憧れ、焦がれる稀人まれびとであるのだ。


「今は、暇人長屋にご厄介になる身です。秘密の詮議をしない流儀も覚えました。ですから、わたくしもお仲間だと思ってください」

「千鶴姫が、暇人長屋の仲間か」

「今更でおじゃろう。千鶴姫、朝餉の作り方は覚えたでござるか?」

「もちろんです。茄子のお漬物に薄味風味のおみおつけ。刻んだ大根も入れて、あっさりと仕上げます!」


 そう言うと晴満は扇で口元を隠し、客人に横目を向ける。

 客人も、これにはなんともいえぬ顔をするしかない。

 大名家の姫君ともあろう千鶴が、ずいぶんと所帯じみてきた。


「……ということでおじゃるよ、夢見殿」

「あまり長屋の流儀に染めると、留守居役殿に顔向けできぬな」


 困ったような笑みが、ふと美貌に浮かぶ。

 そのどこか優しげなものに、千鶴はますます惹かれてしまう。


「……まったく、こっちは格好がつかねえぜ」


 一方、悪態をつく天次郎である。

 秘めた想いを暴露されたままというのは、ばつが悪いことこのうえない。

 まして、道ならぬ恋ならば尚更だ。


「あの、わたくし誰にも言いませんので」


 ぽりぽりと頬を掻く天次郎の袖を、見えぬように引いて千鶴は小さな声で囁く。


「こいつは参ったな!」


 天次郎は、言ってからからと大きく笑った。

 いかに豪傑といえど、心の柔らかい部分に触れられるのは、たまったものではない。

 しかし、千鶴の気遣いはくすぐったくもあり、可愛らしくもあった。

 これもまた、恋を知る者同士ともいえよう。


「ともかく、敵が塀を越えて攻めてきたうえは河岸を変えねばならぬでおじゃろう」

「末廣神社まで行けるのなら、姫様を無事に逃すこともできんすが」

「さて、無事に逃してくれるかどうか……」


 客人の視線は、吉原仲見世通りの遠くに向ける。

 奥から、幾人もの忍びたちが影のように駆けてくる。

 すわ逆卍党の忍者かと思えば、どうもそれだけではない。

 敵味方のふたつに分かれ、刃を交えている様子が窺えた。


「さて、一方は伊賀者のようだが身に覚えがあるかな、夢さん?」

「あるな。この村正が引き寄せたのであろう」


 想庵の問いに、客人は朱鞘に触れて答えた。

 世を揺るがすほどの隠し金を巡って、幕府側である伊賀者も柳生も動いている。


「やはりか。だが、今宵は都合がよい。兵法でいう二虎競食の計、今のうちである」

「なら、俺と公家さんで殿しんがりに立つか。追ってくる連中は食い止めるぜ」

「数を頼みに来るなら、こちらも用意があるでおじゃるよ」

「だが、こちらも手の内を読まれておる。待ち伏せがあるかもしれん」


 佐取明玄は、忍法“天王眼”によって心を読んだ。

 それが他に伝わっていることも考えられよう。

 そのように、想庵が思案を巡らしていると――。


「だったら、あたしが案内するよ」


 そんな声とともに、屋根から飛び降りる影があった。

 一同、何者かと身構えるも、相手は敵ではない。

 まだ年端もいかぬ小娘である。漆器職人幻兵衛の孫娘お縫が現われたのだ。


「お縫坊、おぬしまでついて来たのか。すぐ戻ると言ったはずだぞ」

「ふん、あたしだけ仲間外れにしようったって、そうはいかないんだからね!」


 お縫は薄小豆色の忍装束に身を包み、得意げに胸を張った。

 命の遣り取りをする場となったこの吉原には、およそ似つかわしくない。

 長屋の面々も、どうするのかと思わず顔を見合わせた。


「末廣神社って、あの小さい社でしょう? 気をつけないと、待ち伏せが潜んでいるよ!」

「ふうむ、吾輩が見立てたとおりだ」

「あたし、先に探っておいたからついてきなよ」

「さて、どうするのだ夢さん?」

「まさか、帰れというわけにもいくまい。ひとりにするほうが危なかろう」

「でしょ? だったら、一緒にいてあげるからさ」

「ただ、ひとつ約束をしてほしい」


 お縫の振る舞いに呆れた客人であるが、ふと真剣になる。

 さすがに、お縫も神妙になった。


「うん、約束ってのは?」

「戦うなとは言わぬ。だが、印地打ちでも加減するようにな。お縫が人を殺めるところは、拙者も見たくない」


 印地打ちとは、要は投石や飛礫のことである。

 お縫は、“天狗礫の”お縫と仇名があるほどで、石合戦でも男の子を何人も泣かすほどの上手だが、ちゃんと加減してのことだ。本気で打てば、石ころでも十分な殺傷力を持つ。


「夢さんがそういのなら、いいけど」

「そうか、では約束だ。簪などあるかな?」

「えっと、これでいい?」


 お縫が懐から取り出したのは、苦無だ。

 忍びの術の心得があるとしても、よい顔はできない客人である。


「ああ、それでよい。では、金打きんちょう――」

「うん、金打!」


 刀の鍔と苦無を打ち合わせ、キンと音を立てる。

 こうして、約束を守る金打の儀式を終えた。


「お縫坊、案内を任せたぞ」

「うん、任せて夢さん!」

「これこれ」


 お縫は、無邪気に客人に抱きついた。

 あっと思う千鶴に向かって、にんまりと笑う。

 夢見客人を新参者の押しかけ姫に渡してなるものかという、対抗心であった。

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