天王眼破れたり

 夢を売るはずの吉原は、騒乱の様相を呈していた。

 半鐘も鳴らず、非常時を知らせる拍子木や呼笛も鳴らぬが、登楼した客や遊女たちも、忘八衆や忍者たちが繰り広げる争いにはちらほらと気づきだしている。

 睦言の合間に溢れる妓楼からの行燈の灯り、辻灯籠の灯りの他にも、忍びたちの龕灯がんどうの灯りが遊郭を巡った。

 その中を、夢見客人ゆめみ まろうどは駆ける。

 すでに追っ手がかかり、高尾太夫に千鶴を任せてから十人は斬ったが、いまだ油断のできない気配が潜んでいる。


「――おお、夢さん! こっちだぜ」


 仲見世通りに向かう客人に、天次郎の声がかかった。


「天さん、助っ人かたじけない」

「なあに、いいってことよ。戦国の世でいう勝手働きのようなもんだ」

「その気風を忘れぬとは、さすが当代きっての傾奇者だ」

「夢見様……! ご無事で何よりです」


 夢見客人の姿を見て、千鶴もすぐに駆け寄った。


「太夫、礼を言わねばならんな」

「夢見様への貸しができるのなら、わっちも本望でござんす」

「それは高くつきそうだ」

「あい、もしもの備えもありんす。ですからたんと高こう買うてくりゃんせ」


 大名や豪商を相手にする名の知れた太夫となればこそ、非常時の心得もある。

 すぐに忘八衆のひとりがやってくる。

 天次郎ほどではないが、背も高く屈強そうな壮年である。大小ふた振りの刀も携えていた。

 寛永の頃は、町人の帯刀はまだ禁じられておらず、遊里に入るのに打刀を差すことも珍しくはなかった。


「太夫、こちらへ――」


 憮然とした顔の忘八が高尾太夫と一行を招く。

 彼ら忘八衆は、遊女の仕置もすれば厄介事に割って入ることもあるから、強面の連中も多い。


「さっ、急ぎんす」

「いや、待て――!」


 客人が、咄嗟に高尾太夫の手を引いて止めた。

 二本差しの忘八が、「うっ」と短く声を上げてよろめき倒れたのである。

 同時に、水桶の傍らから小柄な老人がひょっこりと現れた。

 倒れた男の横腹からは、じわりと赤いものが流れ出ている。

 刺したのは、この老人で間違いない。その証拠に、手に持つ苦無くないが血に濡れていた。

 だが、とてもではないが人を刺したようには思えない。

 殺気などとは縁遠く、目を細めて柔和な笑みを浮かべたままだ。


「ご老体、おぬしも逆卍党の忍びか」

「いかにも、わしは逆卍党の佐取明玄と申します」


 ただならぬ相手に、夢見客人も柄に手をかけ、鯉口を切る。


「そちらの姫君と夢見客人殿を、お迎えに参ったのですじゃ」

「迎えに来た、だと?」

「夢見客人とは変名へんめい、その真名しんみょうは――」


 告げようとした途端、佐取明玄は、すっと後ろに半歩引いた。

 大剣を構えた天次郎と美鈴が、同時に青ざめた顔をする。


「おっと剣呑剣呑、おふたりとも話の中で斬りつけようとは悪しゅうございますよ」

「おい夢さん、こやつ……」

「ああ、気をつけたほうがいい。相当の手練れだ」

「天さんに美鈴殿、いかがした? 老いぼれ忍者相手にらしくもない」


 想庵が、怪訝に思って天次郎と美鈴に訊ねる。


「俺は、忘八衆の仇とぶった斬てやるつもりだったのだが、いとも簡単に拍子を外しやがったんだ」

「私が柄に手を置く前に、まるで知っていたかのように間合いから退かれました」


 美鈴に至っては、冷や汗まで浮かべている。

 天次郎も美鈴も、並の腕前ではない。

 であるから、斬撃を仕掛ける拍子や間合いを読まれるような真似はしない。

 それどころか、わずかにも動いていなかったのだ。

 気配で察したというだけでは、説明がつかない何かがある。


「ほうほう、末廣すえひろ神社まで逃れてそこから船を出す手筈、と。なかなか手際がよろしいな」


 今度は、高尾太夫が青ざめる。

 吉原総鎮守の末廣神社を経てから廓の塀を越え、堀留川には猪牙舟ちょきぶねを出す用意がしてある。

 このことは、高尾太夫と忘八衆のみが知るはず。

 しかし、佐取明玄は知っていた。いや、悟ったのだ――。


「ご老体、おぬし人の心が読めるのか……?」

「ええ、多少ですが」


 客人の問いに、佐取明玄はこともなげに言ってのけた。

 十分に驚愕せしめる答えであった。


「なんと、さとりの怪か!」


 思わず、想庵が声を上げた。

 人の思ったことを言い当てると覚という怪異の存在は知られている。古くは中国南北朝時代の文献『荊楚歳時記けいそさいじき』でも確認することができる。

 人間には、視覚、聴覚、嗅覚、触覚、味覚の五感があるが、第六感というこれらを超えた感覚の存在がまことしやかに語られてきた。近年の研究では、人間には地磁気を感知する能力が備わっているという説もある。

 鮫は、ロレンチーニ器官という独自の感覚器を備えている。魚の細胞と海水の電位差から微弱な電流を感じ取って、得物を感知するという。佐取明玄も、同じように電流から生じる磁気を感じ取る超感覚を有しているのだ。

 人間の思考は、言ってしまえば脳の神経細胞体から生じた活性電位が伝達されるもの。

 明玄は、思考の過程で発生する磁気と、表情動作の変化を捉える驚異的な観察力を合わせ、相手の内心を正確に読み取ることを可能とする。


「人の心を読めるというなら、拙者の答えは言わずともわかろう」

「左様。なるほど、わしらの迎えに応じぬとのであれば、もはや生かしてはおけませぬぞ。その村正が豊太閤ほうたいこうの隠し金の在り処を示すと知る身なら、なおのこと」

「えっ――」


 思わず、千鶴が客人の顔を覗き込む。

 秀麗な美貌にも、険しいものが宿っていた。

 一方の佐取明玄もまた、細い目をわずかに開く。それだけで冷たいものが漂う。

 国中の金山銀山を手中に収めた太閤秀吉の富は、膨大なものであった。

 大坂城の屋根瓦に金箔をしつらえ、黄金の茶室もこしらえ、天正大判も鋳造した。

 その莫大な黄金は、大阪の陣の前にいずこかに埋蔵され、まだ見つかっていないともいう。

 だが、あくまでも風の噂に過ぎない。


「人の心を読むたぁ大した術だが、誰しも触れられたくねえ秘密ってもんがある。そいつを暴こうってのは感心しねえな、爺さん」

「なるほど、その秘密とやらは旗本家の部屋済みの身でありながら兄嫁に懸想した……などですかな?」

「てめえ――」


 秘密――というのは暇人長屋の面々が詮索しないものである。

 千鶴もまた、人には言えぬ秘密を持つ。心を読んで老忍者はそこに触れてくるのだ。

 踏み出そうとした天次郎であったが、足を止めた。そうするしかない。

 いつの間にやら、踏み出す足先に棒手裏剣が刺さっているのだ。

 佐取明玄があらかじめ放ったものだが、たったそれだけで機先を挫かれてしまう。


「下手に動かぬほうがよろしいですぞ」


 明玄は、棒手裏剣を取り出すと、とんとんと立て続けに地面に楔のように放つ。

 残りは、天高く夜空に投げ上げた。


「心を読むのを極めたすえに、起こることの先も読めるようになりました。名づけて忍法“天王眼てんのうがん”――」


 佐取明玄は、腰の後ろで手を組みながら、すたすたと客人と千鶴に向かって歩く。

 まるで無防備、無警戒だが、千鶴も天次郎もまったく手を出すことができない。

 足を進めようとする先にはすでに手裏剣が突き立っており、別の先に踏み出そうとすると明玄が投げ上げた手裏剣がその足先にちょうど落ちて刺さる。


「こ、これでは動けませぬ……!」


 先も説明したように、人間には第六感が備わっており、身に迫る危機を察知する能力がある。

 虫の知らせ、予感、予知、そうした言葉で表されるが、心を読む能力を徹底して研ぎ澄ました佐取明玄は、相手がどう動くかさえも予知予見できるまでの知覚を備えたのだ。

 これぞ、忍法“天王眼”――。

 釈迦の弟子、提婆達多だいばだったは師である釈迦を亡き者にせんとした極悪人である。この罪は予見されていたが釈迦はこれを許した。何故なら、未来に天王如来となることも予見されていたからである。

 佐取明玄の忍法は、法華経にあるこの説話に因む。

 先が読めることを示すごとく手裏剣が降り落ちれば、いかに動けばいいかもわからなくなる。

 武術の真髄は歩法にあり、美鈴や天次郎ほどの使い手であれば尚更である。


「さて、お答えは変わらぬようですな」

「お世継ぎ殺しを欲するならば、斬るしかあるまい――」


 客人は、すらりと朱鞘から抜いて刀身を月明かりに晒す。


「さすがは、曽呂利新左衛門そろり しんざえもんの朱鞘。音もなく抜けますのう」


 曽呂利新左衛門は、豊臣秀吉の御伽衆おとぎしゅうとなった鞘師である。

 秀吉の側近であればこそ、隠し金の在り処を鞘と刀身に秘すこともできよう。

 だが、一介の浪人である夢見客人が何故それほどものが秘められた刀を持つのか?


「やはり、ご老体は豊臣恩顧おんこの者か」

「いかにも。大阪夏の陣では大将首も狙い申した。なればこそ、徳川の天下を覆すために動いておるのです。村正が德川に祟ると禁じるのも、お世継ぎ殺し村正に秘められた隠し金の力を恐れてのこと」

「…………

「考えはあたまりませぬか? わしらの側で、お父上のご無念を晴らしましょうぞ。幸頼ゆきより様」


 幸頼とは、夢見客人の真名か。

 佐取明玄は、その名を心を読まずとも知っていた。

 日本一のつわものと神君家康の心胆を寒からしめた武将の遺児とされる名であるからこそ。


「拙者は夢見客人。その名は知らぬ」

「なるほど。あくまで一介の浪人者であるというなら、お望み通り名もなき者として葬ってお刀をいただくとしましょう」


 佐取明玄は、苦無を構えて歩み出る。天王眼を持つ自分は万が一にも破れようがないと確信がある。

 対して、夢見客人は上段に構えた。

 お世継ぎ殺し村正の刀身が、夜天の月を映して青白く光る。


「ご老体、せめて一刀で仕留めるゆえ悪く思うな」

「お忘れか? 天王眼は先を読む。左様な剣でわしを――お?」


 明玄は、天王眼によってもたらされる未来を完全に予測し、驚愕した。

 おのれが斬られる未来であった。いかに動いても、他の結末は訪れない。

 数手先を読もうが、かわしようのない一刀がある。

 それほどにまで冴え渡った技があるのを、佐取明玄は生の終わりとともに知ったのであった。

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