飛翔剣の一刀

 伝通院本堂の屋根に、客人は千鶴を連れて登った。

 着流し姿だというのに、するすると駆け上がっていくのは幼少期に山野を駆け巡り忍びも技を覚えたという客人の出自も関係していよう。

 足元がおぼつかない千鶴の手を引き、炎に照らし出された世槃とふたたび相見える。


「ここからだと、城の天守もよう見える」


 闇夜の中に、江戸城天守閣の姿が浮かぶ。

 伝通院は、小石川の高台にある。

 それでも、高さ三十間(約五十m)を誇る木造高層建築は、見上げるほどである。

 この天守閣が城下とともに燃えるさまを、世槃は今も夢想している。

 伝通院の境内には、本堂を始め、書院、仏塔、僧堂が無数にあり、大火を起こすものには事欠かない。

 夜も過ぎ、風は一層強く吹いた。

 魔気を孕んだ瞳が、夢見客人と千鶴を待ち受けていた。


「おぬしの野望もここまでと知るがいい」

「どうかな? 煉獄の業火はこの胸のうちに燃え盛り、解き放たれる日をずっと待っておったのだ。そう簡単には収まらぬ」


 客人の言葉にも、身じろぎもしない。

 今宵、世に稀なるふたつの美身が、剣を交えようとしている。

 月も恥じらってか、出てこようとはしない。

 護摩壇の炎が、夜闇の中にその身を照らす。


「この炎は、江戸のみでは終わらぬ。西国の豊臣残党、切支丹が一揆を起こして呼応し、機に乗じてこの国を征服せんとイスパーニャの艦隊も押し寄せる。この国はふたたび戦乱に包まれよう」


 炎の到来を、心の底から待ち望むかのように。

 凄惨なる光景こそ、いつか見た夢であるかのように。

 世槃は陶酔をその顔に浮かべていた。

 だが、本当にそうなのだろうか――。


「……本当は、あなたも救いを求めているのではないのですか?」


 心の底から大勢の死と苦しみを欲する邪悪なさがなどありはしない。

 千鶴は、一歩を踏み出す。

 その邪悪なる怨念の中に、苦しみもがき続ける善性を救い出さねならないと。


「救いか、ならば今も求めておる。安寧を信じて暮らす者どもが、もがき苦しんで苛まれる様こそが俺を救ってくれる」

「それほどまでの憎しみは、あなたも苦しいからです。今も、神の慈悲と救いを求めているはずです!」


 世槃の境遇を思えば、世を恨んで余りあろう。

 だからこそ、恨み、憎むよりも、今も苦しみから逃れる救いの手が差し伸べられる日を待っているのではないか?

 そう言いたいがために、この場にやってきた。


「だが、神というのは祈り、願っても答えはせん。あのくのいちの命を救おうと願ったのではないか?」

「それは……」

「神は気まぐれよ。崇め奉り、縋りつく者すら気に入らねば救いはせぬ。捧げものの見返りに望みを叶える悪魔のほいが、よほど救いをもたらす存在であろう」

「違います、そんなこと!」

「では、どう違う?」

「神様は、決してお見捨てになりません。ですから……」


 千鶴にも、迷いはあった。

 隠れキリシタンへの激しい弾圧がある。

 神を信じるがゆえに、この国では恐ろしい試練が待ち受けている。

 それでも、救いを信じ続けなければ、と。

 信じることの尊さは、絶望の淵に立っても負けぬ強さなのだ。

 うまく言葉にならない、信仰であるからこそ今は言葉で言い尽くせぬ。


「神は、その高みから降りて人を救いはせぬ。人がもがき苦しむ様を楽しみ、気まぐれに人を救うというだけのこと。俺も、その楽しみを味わうのだ」


 ひときわ残酷で、ぞっとするほど美しい笑みであった。

 闇に堕ちる者が魅入られ、惹かれてしまうような。

 逆卍党の忍びや四天王も、おのれの怨念を形にしてくれる美しさに惹かれたのだ。

 恐ろしい。しかし、どこか痛々しくもあった。

 そんな世槃を、いまだ憂えを湛えた客人の視線が見据えていた。


「拙者は不信心ゆえに神や仏を頼ったことはないが……。おぬしのように悪魔がましとは思わぬな」

「夢見様……」


 思わず、千鶴は客人を振り返る。

 信仰を持たぬ無頼の徒であるこの剣客が、世に舞い降りた天使のように思えた。

 今、魔人世槃を見据え、敢然と挑もうとしている。


「この俺に神を説くか。よい、聞いてやろう」

「悪魔は、対価を差し出せばおぬしの望みだろうと叶えるかもしれぬ。しかし、神は気まぐれであればこそ何を捧げようが聞き届けぬ。万人を救う願いなど、それこそ万にひとつもない」


 この世に紅蓮の大火を起さんとする世槃の願いを叶える者は、悪魔であろう。

 神は、気まぐれであるからこそ神である。

 人に絶望しておろうとも、信ずる者あらば気まぐれに人を救おうとする――。

 ゆえにこそ、神は神であるのだ。


「はっ! ようできた説法だな。どこぞの売僧より理があるようだ」

「榊世槃よ、おぬしが恐ろしい目に遭わせた姫君は、いまだ正しき心を取り戻すはずと信じてここまで来たのだ。その真摯な願いは、耳に届かぬか?」

「その真摯で無垢なものこそ、踏み躙る甲斐があるというもの」

「ならば、是非もなし」


 一旦、鞘に収められた御世継ぎ殺し村正が、すらりと刀身を現わした。

 氷のように冴えた刃が、世槃を映す。

 世槃もまた、救世正宗とマンゴーシュを構えた。

 この場が決着となろうことは、双方とも承知の立ち会いである。

 ふたりの剣戟は壮絶なものになると悟り、千鶴は息を呑んだ。


「それでよい。俺と同じものは、この世にふたつと要らぬ」

「同じか、そうは思わぬがな」

「いいや、同じよ。うぬもその妖刀を抱え、世に生きる場を失い、人並み外れた剣の腕に至った。それこそ、俺と同じ魔の境地よ」


 救世正宗と名づけた剣の切っ先を、客人に向けた。

 客人も、静かに正眼に取る。


「……魔の境地、か」

「そうよ。うぬも俺と同じ現し世におられず、災いを呼ぶ魔人であろう」


 世槃は言う。

 悪魔と魔女の子と烙印を押されて生まれた自分。

 謀反人の子として忌まわしき妖刀を授かった客人。

 同じく、この世におられぬ魔人であると。


「拙者の名は、夢見客人……。夢からうつつへの客人まれびとなれば、元より現し世にこの身はない――」


 現世の移ろいには、かかわらぬ。

 一睡の夢から、また夢に去る浮世の客人であるから。

 加えて客人は言う。


「しかして、魔人にあらず。天下御免の暇人なり」


 魔人に非ずして暇人――。

 世を恨むこともなく、魔に落ちず、市井に埋もれ無頼となって暇をかこつ。

 出生に秘事を持ち、天下を覆すほどの妖刀を持ちながら、流れるごとく無頼に生きるという信念であった。


「くはははははははっ! 洒落たつもりか夢見客人!」


 世槃は、酔ったようにせせら笑った。

 同じでありながら、これほどまでに違うものはない。

 決して、相容れぬ存在が目の前にある。

 神の差配だとすれば、覆しておのれが勝って正しいと示す絶好の機会といえた。


「ゆくぞ、我が剣を受けて今生の誉れといたせ!」


 馬手めてに構えた正宗を引っさげ、瓦の上を滑るように迫る。

 素早い斬撃を冗談から片手て振り下ろす。

 客人、これを村正で弾きながら横に動いて間合いを外そうとする。

 しかし、世槃の技はここから。

 薙いで薙いで、下段を狙う得意の戦法で、行き着く暇すら与えない。

 屋根瓦がからからと音を立て、ふたりの立ち会いの壮絶さを伝えている。

 その徹底した下段を、一旦は鎬で止めて斬り上げる。

 世槃も、すぐに弓手ゆんでのマンゴーシュで巻き上げるようにして払った。


「夢見様……!」


 思わず、千鶴は声を上げる。

 榊世槃は強い、あの夢見客人に引けを取らぬほどに。

 片手で刃を繰り出しながら、一方の短剣マンゴーシュを守りに使う。

 幾多の忍びを斬り伏せ、柳生の刺客すら破った轟天流の剣を、すべて凌ぎきっている。

 目が離せない、瞬きひとつするうちに戦いは決する。

 それほどまでに研ぎ澄まされた攻防であった。


「それが暇人の剣か。修羅の剣に見えるがな」

「おぬしの剣こそ、どれほど藻掻いてきたかが見えるようだ」

「藻掻いたとも。苦しみ恨み、呪いの果てに体得した剣よ!」


 怨嗟を吐き出しながら、世槃は肩から当たるように突進する。

 右から左に、マンゴーシュの切っ先で客人の目の部分を掠めるように払った。

 俗に、霞をかけるという技だ。

 同時に、交差するように救世正宗の切っ先を左から右に抜いて客人の大腿部を狙う。

 人間の視野は、横には広く取られているが、縦は思った以上に狭いものだ。

 短剣で視線を横に釘付け、真の狙いは下段にある。

 これまで幾多の決闘代行人を血の海に沈めてきた、世槃必殺の逆十字剣であった。

 しかし――


「な――」


 夢見客人の姿が、世槃の視界から消えた。

 先に述べたように、人の視界は横には広いが縦には狭い。

 客人が、飛んだのだ。

 それも、人をひとり飛び越すほどに。

 まさに飛鳥のごとし。

 天高く飛び上がって、下段の払いを完全に外すと、天雷の勢いで一刀を振り下ろす。


「轟天流、金翅鳥王きんしちょうおう飛翔剣――」


 頭上からの一撃を止めようと、世槃はマンゴーシュと救世正宗を交差させる。

 そのふたつの刃ごと、客人の飛翔剣は断ち斬ったのである。

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