花航路
さて、夢見客人とその一行は、しばし船上の人となる。
清水湊から江戸湊までの海路は、およそ五日ほどになる。伴天連は船室で養生させることとなった。
甲板に出ると風が心地よく、波の揺れも紛れる。五人の女たちも、客人の目の届くところにいる。
清水湊の廻船問屋は、駿府城の建築当初から幕府よりさまざまな特権を得ており、大いに栄えた。
甲斐、信濃からの年貢米を江戸に届けるため、また上方からの酒、味噌、赤穂の塩などを運ぶ中継点でもあった。くわえて、甲州方面の飢饉に対応するための
高尾太夫が用意したこの船は、俗に千石船と呼ばれる帆一枚の
前年、幕府は海外での船舶通行を禁じ、太船建造禁止令を出している。あくまでも軍船に限ったものであったが、中には法令が行き届かず、商船も含むもだと五百石積みの船の建造を取りやめた例もある。
また、陸路の発展と振興のため、船舶による船旅には制限があった。特に、江戸への乗りつけは荷物以外は禁じられ、下田で降りて歩くということになる。
しかし、世の中、金を積めばどうにかなることは多い。
高雄太夫が懇意にする廻船問屋の伝手でやってきたというわけだ。
「夢さん、あたしに旅の土産はないの?」
お縫はさっそくこれである。
「急ぎの旅ゆえに土産というと……このようなものしかない」
出したのは、包みに来るんだ岩魚の干物である。
小仏の宿で道中にと、もらったものだ。
「……ちょっと、娘盛りのあたしに、これはないよ」
「色気より食い気だと思っていたがな」
「でも、炙って一杯やるにはよいものでありんす」
その様子がおかしかったのか、高尾太夫がくすくす笑っている。
落胆するばかりのお縫に、客人はすっと柘植の櫛を差し出した。
「なら、これでどうかな?」
「あっ、櫛! でも、もうちょっと飾り気がほしいなぁ」
「花より華やかな葉はあるまい? 櫛は葉だ、咲く花のために飾り気がなくとも細工のよいものがいいのだぞ」
「そっか、あたしが花かぁ。えへへ」
そう言われると満更ではないお縫である。
さっそく髪に櫛を指してみて、ふと簪を刺した瞳鬼が気になった。
なんと言っても、ふたり連れで甲州街道を旅したのだ。
「……でさあ、ふたりとも夢さんと何かあったりはしなかったの?」
「いえ、あのう、その、そのようなことは……」
「馬鹿なことを申すな。そちらの姫組は知らんが、左様な隙は見せはせぬ!」
「とかなんとか言って、その簪もらってるじゃないのさ」
「こ、これは目立たぬための変装術というから、仕方なく……」
「お縫ちゃん、瞳鬼ちゃんも困っているでしょう」
「だって気にならない? ふたりで街道下ったんだよ、何日も! 何かあったらって思うと」
「わっちも気にはなりますわなあ。男女の仲というのは、何がきっかかけで深まりますやら」
「だよねえ! 何かあったりしたんじゃないの? ……言わなきゃこうだよ」
「……ば、馬鹿、何をする、くすぐるなっ!?」
お縫が瞳鬼をくすぐりの詮議にかける。
娘三人集まればかしましいというが、五人もいる。
船乗りたちも、気になるであろう。
客人は、それを微笑ましく眺めていた。
しかし、気になるのはやはりあの男、榊世槃であった。
奇妙な剣を使ううえ、自身と同じであった。
数々の敵と刃を交えてきたが、同じというのは初めてである。
江戸を煉獄の業火で焼くというその言葉は、単なる脅しではないだろう。
潮風に絹糸のような総髪を
帆は風を受け、海猫の声が聞こえる。この頃は池乗りといって沖合いに出ず、船は沿岸沿いに進む。
「……や、くっ! や、やめぬか! くすぐりなぞ。これだから子供は……」
「子供じゃないよ、十三なんだから」
「いいえ、まだまだ子供でしょう? そんな悪戯をして」
「だいたい、このような醜い女なぞ、あの男も口説こうとは思わぬぞ……」
何故だか、瞳鬼の言葉に寂しいものが混じる。
あの男の優しさはわかる。同情もしてくれよう。
しかし、決して自分を女と見ることはないのだと思うと、胸が痛む。そんな気持ちになることを未熟だと思うも、どうしても捨てきれない。
すると、お縫は高尾太夫と美鈴の方を見る。
ふたりは何かを察したように頷き、瞳鬼を押さえた。
「……な、何をするのじゃ!?」
「せっかくでありんす。わっちが吉原流の女の化け方を伝授しますえ」
「ふふ、ちょっと楽しみですね」
「待て、この顔は玩具ではないのだぞ」
「いいからいいから」
「わ、わたくしにも、是非にご教授を……!」
娘たちが瞳鬼を捕まえ、高尾太夫が化粧箱を開ける。
紅に白粉、眉墨を出してこれを施す。
お縫も、千鶴も興味津々だ。
武家の姫君である千鶴には化粧の心得はあるが、高尾太夫の吉原流となると知りたくもなる。
瞳鬼の顔に、紅を指して白粉を乗せ、髪も整える。
「……ほら、ごらんなまし」
高尾太夫の手鏡で瞳鬼を映し、それを見せる。
瞳鬼自身、はっと息を呑んだ。
「これが、私……」
その左目の方を見せ、右目を隠す化粧であった。
ぱちりと見開いた目元に、赤い紅と白い肌。
娘らしい、自分がそこにいた。
「うん、なかなかのもんじゃないのさ」
「……きれいです、瞳鬼さん」
お縫も千鶴も、羨望の眼差しを向ける。
なるほど、女は化ける。吉原流の化粧術の妙であった。
「年頃の娘は、本当に美しくなりますね」
「ほんに。わっちにもこんな頃がありましたわいな」
「わ、私は、忍びじゃ。化粧など……」
「忍びなんだから、化け方も覚えなくっちゃ」
そう言って、お縫は瞳鬼を客人の側に押し出した。
「まて、まだ私は……」
――心の準備ができてはない。
いかに化粧をしようと、その目の醜さを完全には誤魔化せないであろう。
だが、見てほしい気持ちもある。
少しは、誇れるくらいには美しくなったのだ。
見ている側から、今度は見られる側に。
それでも、その眼鏡に適わなかったときは傷つくかもしれない。
そんな不安とともに、船上の客人の客人の許へと歩んでいった。
「その、私はこんなこと、望んだわけでは……」
やはりその美貌を前にすると気後れしてしまう。
どれだけ化粧をしても、かなうわけがないと思う。
それでも――。
「ほら、瞳鬼ちゃん化粧したよ。夢さんも見違えちゃうんじゃない?」
「見違えたりはせんな――」
「あ……」
やはり、その眼鏡に叶わなかったのだろう。
化粧で美しくなったといっても、左目の異様さは隠しきれるものではない。
少し、浮かれすぎたのだ。
「やはり紅白粉で娘らしくなった。その簪もよく似合う、見違えたりはせん。見立てたとおり、花のようだ」
「……っ!」
切れ長の目が、ふと優しげに細められる。
それだけで胸が高鳴り、思わず声を上げてしまいそうになってしまう。
かあっと顔が熱くなり、緩む頬を隠すのが精一杯であった。
やはり、夢見客人が憎らしい。
これほど自分を無防備にする男など、瞳鬼は他に知らなかった。
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