苦界剣城

 四方を塀で覆われた吉原は、夜四つ(二二:〇〇)になると夜見世も終わり、大門が閉ざされる。

 外界とも閉ざされ、結界が張られた空間となる。


「さっ、夢見ゆめみ様おひとつ。夜は長うござんすよ」

「では、一献のみにて」

「ようざんす。今宵は訳ありの様子。でも、いつかの機会にお情けをおくんなし」


 行燈の明かりの中で、客人に寄り添いながら酌をするのは、名妓と名高い高尾太夫たかおだゆう

 客人まろうどと千鶴は、妓楼三浦屋の二階座敷でその接待を受ける。

 夜見世が始まる前に揚屋に行列で迎えに来たのだが、そのときは見物客がどこからともなく現れるほどだった。

 吉原では、太夫は十万石取りの大名も横に置かない扱いであり、酌などするものではない。

 殿上の貴人との叶わぬ色恋という夢を売るのだ。

 登楼する際、腰の物は見世の内所に預けるしきたりがある。刃傷沙汰を避けるためのものだが、夢見客人は郭の中でも特別に身近に置く特例が許されていた。


「そちらの愛らしいお姫さんも、一献いかが?」

「いえ、わたくしは……」

「ふふ、郭の女とはいえあきちも同じ女でありんしょう。仲良うしておくんなまし」


 艶やかで洗練された高尾太夫のほうがよほど気品を備えていると、千鶴は気後れしてしまう。


「姫、太夫には親父様を通じて事情は介してもらっている。こちらの味方にござる」

 親父様とは、吉原の創設者で総名主の庄司甚右衛門しょうじ じんえもんを指す。

 吉原に続く堀留川ほりどめがわに架けられた親父橋にその通称が残る。

 夢見客人は吉原の用心棒を務め、甚右衛門にも伝手と貸しがあるのだ。


「そうですえ。夢見様は吉原のおゆかり様。男衆おとこしも総出で結界を張ってくれんした。滅多なことでは、こなたに手出しはできささんす」

「そんなことまで」

「親父様は、元を辿れば北条の武士ともいう。吉原遊郭も戦に備えた縄張りになっているのでござる」

「……戦、ですか?」

「左様、逆卍党は必ず姫を狙って仕掛けてくる。迎え撃つ城となってくれるはずだ」

「娑婆と苦界を仕切る塀でありんす」


 四方を塀で覆われた吉原は、守りの城となってくれるのだ。

 吉原の忘八衆は、権力による庇護を期待できない立場にある。郭内の治安についても奉行所の支配ではなく浅草弾左衛門あさくさ だんざえもん手下てかが担っている。

 囲われた塀は、いざというときの自衛のためでもあるのだ。


「……夜風が止んだ」


 ふと客人が何かに気づき、朱鞘を引き寄せる。


 風が止んだということは、人の臭いを運ぶ気の流れが消えたということ。

 夜陰に乗じて動く機会が来たのだ。


「夢見様、男衆の火の用心の音が聞こえささんす」

「もしや、仕掛けてきたかもしれん――」


 客人は、片膝を立てて襲撃に備える。

 緊張した面持ちの高尾太夫に、千鶴を連れて奥の控えに向かうよう示唆した。

 瞬間、襖を突き破っていくつもの手裏剣が客人に向かって投げ込まれる!

 鞘を抜かずに一振りで打ち払うと、忍者刀を構えた黒ずくめの集団が襖を蹴り倒して乗り込んできた。

 片手抜刀で鞘を払い、そのまま右手から斬りかかる忍者の鳩尾みぞおちに柄頭をめり込ませ、左手からの忍者は鞘で打ちのめした。

 正面からの忍者は、一連の動作の中で峰打ちとした。

 戦場とすることを引き受けてくれた高尾太夫への義理を果たすため、血を流さずに片付けている。


「太夫、ここは引き受けるゆえ、姫を」

「あい、心得ておりんす!」


 垂髪たれがみかんざしを抜き、高尾太夫も襲撃に備えた。

 一流の名妓だからこそ、諍いのあしらいにも慣れているのか、取り乱した様子もない。


「おお、千鶴姫。こちらだ――」

「想庵先生ではありませんか!」


 廊下を走ると、すっと襖を開いて現われたのは、暇人長屋の知恵袋にして草紙書きの無縁亭想庵であった。


「なあに、吾輩の他にも長屋の暇人たちが駆けつけております。心配ご無用」

「はい!」

「ああ、それと。姫にどうしても渡さねばならぬものがあったゆえに、馳せ参じました」


 想庵は、千鶴に小さな守り袋を手渡した。

 中に、何やら入っているようだ。


「これは……?」

「姫の御身を守るものを入れてあります。しかし、ただ一度きり、もはやこれまでとお覚悟あしばしたときにのみ、この袋を開けていただきたい。よいですかな? 生涯、ただ一度きりのことでありますぞ」

「……はい、わかりました」


 千鶴は、想庵から受け取った守り袋を握りしめた。

 何が入っているのかは気にはなるが、生涯一度きりのこととして心に留めておく。


「さっ、夢見様ならば万にひとつも負けることはありんせん。お姫さんも行きなんし」

「左様、ここは夢さんに任せて楼を出るが得策であろう」


 刃を交える音を背に聞きながら、千鶴は想庵と高尾太夫とともに三浦屋を後にするのだった。

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