宵の影

吉原遊郭

 太閤秀吉から関八州を与えられた神君家康が駿府から映ってきた頃の江戸は、見渡すかぎり湿地が広がるばかりであったという。

 関ヶ原の戦に勝ち、征夷大将軍の宣下を受けて幕府を開き、居城を江戸城に定めると、それに伴って御家人、旗本たちも移住した。

 この地を切り開くべく、天下普請が行われ、山を崩し、浜を埋め立て、用水路を引くために膨大な人足たちも集められた。

 参勤交代も始まり、大名たちが住まう武家屋敷も置かれるようになる。

 人が集まれば、商売も始まってさらに賑わう。

 こうして武士と町人が集まった結果、圧倒的に男子が多いという歪な人口比となった。

 つまりは、男が余る。

 当初は、葭原よしわらと言われた葭の生え茂る僻地に男たちを相手にする遊女たちが集められた。縁起のよい吉の字に改めて今に至る。

 吉原は、その周囲を高い塀で覆われ、中には妓楼が立ち並ぶ町並みとなっている。

 外界から隔絶された桃源郷の演出と、遊女たちの逃亡を防ぐ意味合いもある。

 出入り口は吉原大門だいもんのみで、それの少し進むと通りは折れ曲がっており中の様子を窺えないようになっている。

 今は、昼見世の時刻。夜間の外出に制限のある武士、中でも大名旗本などを商売の相手とする刻限である。

 とはいえ、見物客も大勢やってきている。総籬そうまがき大見世おおみせの格子の向こうには、着飾った格子女郎も顔を見せており、暇な時間に冷やかしに着た職人たちもいる。

 遊郭の活気というものは、千鶴にとって初めての体験であった。

 被衣かつぎをかぶって歩き、その様子を興味津々にちらりちらりと覗く。

 

 ――このようなところで、きょろきょろするは、はしたないことなのではないだろうか?

 

 千鶴が良家の子女として教育を受けたのは、つい最近のこと。ゆえに、ついつい好奇の視線を泳がせてしまう。


「姫、お気にされず自然に振る舞っていただきたいのです。吉原は武家も珍しくなく、遊女たちも身分のよい出の者が多くいます。そのほうが返って目立ちませぬゆえ」

「は、はい……」


 千鶴は、小さな声で答えた。

 客人まろうどにもわかるほど落ち着かない様子だったのだろうかと恥じたのだった。

 しかし、この賑わいの中でも客人は人の目を引く。

 気位の高い吉原の遊女たちも、夢見客人が道行けば少女のように嬌声を上げた。

 大通りの籬の向こうから、誘う煙管の吸口が伸びる。これが転じて手練手管と言う。

 その後ろを離れて歩く千鶴にも、羨望と嫉妬の目も向く。

 なるほど、堂々としていたほうが返って目立たないのかもしれぬ。

 それに、人の往来が多いが故にその人々の視線が千鶴を守ってくれるのだ。

 逆卍党も、闇に潜む者たちであるがために衆目に晒されることは嫌うであろう。

 千鶴は、客人に連れられて一軒の店に入る。


「御免――」

「あら夢さん、いらっしゃいまし」


 愛想を振りまいて、年増の女将が出迎える。

 声も甲高く、無理に若く作った感もあるが、相手が美麗な客人であれば、そうもなろうというもの。


「訳ありってことですけれど、そちらのお嬢さんですこと?」

「いかにも。これ以上の詮索は無用に願えるかな?」

「夢さんがそうおっしゃるなら、もちろんですよぉ。でもさ、そんな初心そうな娘さんを連れ込むなんて、妬けるじゃありませんか。決めた女はいないっていう天下の色男がさ」

「なら、特別に女将に事情を話すが……そのような仲ではないよ」

「本当にぃ? 吉原で勝手御免なんて夢さんくらいだものねえ。憎らしいわぁ」

「女将に憎まれるのはかなわんから、そのような真似はいたさぬ」

「ふん、どうだか。じゃ、お二階ご案内しますよ」


 女将は、客人とも勝手知ったる馴染みのようだ。

 千鶴を連れて、二階に案内される。大見世の一階は台所と客を受け付ける場で、座敷は二階だ。

 二階には手洗いもあり、「二階で小便をする」というのは吉原で粋に遊んだという自慢の種である。

 すでに宴席の支度がしてあり、客人は腰の朱鞘を預けて席に座る。


「あの、ここは……?」

「吉原というのは、夢を売るところ。これもまた、その夢のひとつ。贅を尽くしたうたげを設け、妓楼の花の到来を待つ……そういう演出をするものにござる」

「そうなのですか。わたくし、知りませんでした」

「遊里の作法など、姫君が知らずともよろしいこと。当然でござろう」


 切見世と呼ばれる長屋のように仕切られた安い店もあるが、吉原は贅を尽くした遊びをするところでもある。

 まずは揚屋に上がって、宴席を設けて高級遊女の太夫を招く用意をする。この頃、花魁おいらんという言葉はまだない。

 その揚屋に、露払いの金棒持ち、禿かむろや見習いの振り袖新造、世話役の引船女郎、傘持ち、肩貸しの男衆などの供を従えて太夫を迎える、というのが後にしきたりとなっていく。

 一度目の初会は話もせずに太夫を宴席に呼ばれ、二回目からは酌もする、この二回目を裏といい、裏を返して三回目から馴染みとなって同衾どうきんするとされる。しかし、それも厳密ではなく、太夫に気に入られるかどうかであり、単なる売春ではなく太夫相手の恋愛と擬似的に祝言をあげるという体裁としたからだ。

 本来は、この揚屋に芸者や幇間ほうかんすなわち太鼓持ちも呼んで座敷を盛り上げるものだが、目的が遊びではないので呼んではいない。

 女将が、鉄瓶で客人に酌をする。その注がれた杯に、静かに口をつける。

 千鶴は、ぼうっと見惚れているだけだ。


「登楼の客を装っておりますが、せっかくの膳ですので手を付けても構いませぬ。暇人長屋では、大したものもご用意できませなんだが、こちらは大名、大店の旦那衆も舌鼓を打つものを出してくれますゆえ」

「わたくし、大名家の娘といいましても、市井に暮らしておりました。ですから、お気遣いは無用です」

「そうであられたか。留守居役殿からも事情を聞く前でしたので」

「もしや、留守居役殿は……」

「拙者に姫のことを託し、果てました」

「そうでしたか。わたくしに、よくしてくれた方でしたのに」


 きゅっと、両の拳を握りしめる。

 真面目な人物ゆえ、そうなるとは思っていたが。

 千鶴は、大名家の姫といえど小藩――しかも殿のお手つき侍女の娘であった。殿の世継ぎの話が持ち上がるまでは、しばらく市井で暮らしていた。

 大名の姫君といわれても、その身分にまだ慣れてもいない。

 幼い頃は、畑で鍬を打ったこともある。行儀も見習い中の最中であった。

 千鶴を探し当て、大名家の姫にしたのも、国元の殿の意向を組んだ江戸屋敷留守居役だった。


「留守居役殿のためにも、姫にはなんとしても無事でいてもらわねばなりませぬ。それに、拙者のために」

「夢見様のために、ですか?」

「左様、そうでないと拙者も落ち着いて懐に金子を入れることができませぬ」

「まあ……」


 つまりは、金のために守ってくれるという。

 あけすけな言い方だが、千鶴も思わず笑みを綻ばせる。

 そう割り切ってもらったほうが、気が楽になる。


「これも手当のうちに含まれること。存分にしていただきたい」

「でも、贅沢に慣れていないのです。あの長屋の暮らし、楽しくて性に合っていました。愉快な方々もいっぱいいましたし」

「愉快なのは間違いない。拙者のような無頼の徒には、暇人長屋は住みよいところにござる。ただ、多少の騒乱はつきものですが」

「わたくしを狙った雲水姿の一団が押し寄せたのですけれど、返り討ちにあっていました」

「あの長屋は、そういうところにござる。騒乱の種を抱えてしまい、表に出れず日がな暇をしておるものばかりが集まっていおるのです」

「ああ、だから暇人長屋なのですね」


 千鶴は、ぽんと手を打った。

 おかしな自称公家の芦屋晴満も、いきなりやってきた傾奇者の津神天次郎も、抜刀小町の美鈴も、医者崩れの刃洲先生も、穴の空いた知恵袋という想庵も、みんな暇に飽かせたお節介焼きなのだ。

 おそらく、夢見客人も――。


「その事情を詮索しないのも、長屋の流儀。なのでご安心いただきたい」

「はい。ありがたいことです」


 暇人長屋の面々は、千鶴の秘密に触れようとしなかったのも、そうした事情があるのだろう。

 無縁亭想庵の指摘した秘密も、いまだ守られている。


「夜見世が始まる前には、迎えの行列か来る手筈となっております。遊里の者たちは、こちらの事情に立ち入りはしないので、ゆるりとくつろいで構いませぬ」

「では、楽にさせていただきます」


 とはいえ、何をすればいいのだろう?

 ふたりで座敷にいると、つい見惚れてしまうのに。

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