光の彼方
刻まれし印
「救世正宗か。名刀を野ざらしにするのは忍びなきゆえ、頂戴するぞ」
みずから柄元から断った世槃の佩刀を拾い上げる。
事実、実戦でも使われた正宗はそうして現存するものが多い。
「姫様、降りましょう」
「はい」
言って、客人は御世継ぎ殺し村正の血を懐紙で拭う。 はらはらと乾の風に乗って夜の中に舞った。
世槃の亡骸を、客人とともに本堂の屋根から下ろす。
地獄こそが楽園と最期に言い残したとしても、その安らかなる顔を見ると捨て置くには忍びない。
キリスト教の葬り方はできないが、寺であれば弔いもできよう。
それと、富岳風穴から清水湊に逃れ、船旅をした瞳鬼も。
「坊さんたちは、眠り薬を嗅がされたのと縛られたのが、何人か。それと殺されたのが結構いるぜ」
境内をざっと見て回った天次郎が報告する。
護摩壇の火は、晴満が井戸から水を運んで消し止めた。
ただ、じっくりしてはいられない訳がある。
「将軍家菩提寺を血で穢したとあっては、拙者たちにも累が及ぶであろう。手が回らぬうちに、長屋に引き上げたほうがよい」
「だが夢さんよ、これだけ派手に暴れて、お咎めなしってことになるもんかねえ?」
「さて、住職も変わったばかりだ。騒動によってせっかくの
この前年、伝通院三世住職
紫衣とは、高僧に許された袈裟である。
浄土宗の僧を育成する
朝廷からこれを贈るものであったが、禁中並公家諸法度においては幕府の許可が必要と定めた。
これによっていざこざが起こったものの、その権威と格式は幕府との接近と結びつく。
いかなる処理をするのかは、無頼の暇人たちの預かり知らぬところである。
「では、麿が一筆」
亡骸を手厚く葬ってもらえるよう、晴満が一筆したためる。
「そんなんで騒ぎになんねえのか」
「何、院の筆を拝見したことがあっての。少しばかり字が似るのでおじゃる」
「おいおい……」
院とはすなわち前述した紫衣事件に不快感を示し、内親王の
晴満はやんごとなき御方の筆を真似て、事を収めるつもりのようだ。無論、花押署名まではさすがに真似ない。
あくまでも、勘違いを誘発するのみに留める。
「しかし、なかなか天下泰平とはならんものであるな」
「それも、面倒事にならぬことを祈るとしよう」
しみじみと言う想庵に、客人が言った。
客人の御世継ぎ殺しを巡っては、まだ土井大炊頭と柳生但馬守の暗闘は終わっていない。
次なる監視、刺客が差し向けられるのも、間違いはあるまい。
「夢見様、わたくしは思うのです。本当に、この傷なしの血は奇蹟の証なのかと……」
「それは、姫様のこれから次第でござる」
「わたくしの?」
「切支丹の教えで聖なる傷痕とされても、今の世では邪宗門の烙印ともされましょう。謀反人の子も悪魔の子も同じ、身に刻まれた印はたやすくは消えてくれはしませぬ。しかし、いかに烙印が生き方を定めようとしても、魂までは当人のものです。聖人として生きるも死ぬも、あるいは背を向けるのも姫様が選んでよいのでござる」
千鶴に刻まれた聖痕も、本人が望んだものではない。
隠れキリシタンの娘にして某藩の殿様のお手つきという生まれも、夢見客人の出生と同じく一生を左右するその身に受けた烙印である。
望む望まずに関わらず、烙印は試練をもたらす。生き方までも定めようともする。
その烙印を見た者も、さも生き方が定まったかのように言うだろう。
しかし、魂に刻まれたものではない。その魂は当人のものだと、客人は言う。
悪魔の子として生まれても、悪魔とならずともよい。
聖人の兆しを背負っても、聖人とならずともよい。
おのれの人生は、自分で決めてよいものだ。
「夢見様も、ご自身でお決めになられたのですね」
「拙者は、もう少しばかり退屈を楽しむと決め申した。ただ、なかなかそうさせてはもらえませぬが」
彼の烙印である佩刀に視線を落とし、客人は緩やかな笑みを浮かべた。
その笑みが、千鶴の心を大きく占めていく。
もしも、このように笑うことができたなら――。
秘められた出生と妖刀ごと課せられた運命にも、流れるがごとく闊達に生きることができたなら。
本当に美しいと、心の底から憧れるのであった。
「早いとこ引き上げねえと、夜が明けちまうな」
「そうだな。退散いたそう」
天次郎に促され、暇人長屋の面々は境内から姿を消すことにした。
はぐれ医者の早良刃洲の姿は、もうすでにない。
その裏稼業ゆえか、去り際の気配は誰も掴めなかった。
「じゃあ、いくね。瞳鬼ちゃん……」
「長屋からも近いから、ときどきお墓参りをさせてもらいましょう」
山門へと向かう前に、お縫と美鈴が最後に瞳鬼の亡骸に別れを告げる。
そしてまた、夢見客人も夜明けの到来を待たずに去っていった。
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