現の幻

暇人三昧

 夢見客人ゆめみ まろうどが暇人長屋を立って幾許かが過ぎ――。

 千鶴はその客人の帰りを待っていた。

 厚かましく押しかけてみたものの、これから先のことは何ひとつ考えていない。

 このまま江戸屋敷にいるよりはと、駄目で元々と覚悟を決めて飛び込んだのである。

 もちろんそこは恋する乙女の強さ、どこかで気持ちが通じるのではないかと確信もなく信じてはいたのだが。

 あの夜、もう助けなどこないと諦めかけたとき――。

 彼女の現われたのは、夢幻のごとき美貌と壮絶な剣の腕を持つ剣客だった。

 賊の手より助け出されその腕に抱きかかえられたとき、彼女は気を失ってしまった。

 安堵したからではない。

 月光に映し出される客人のかおをみたとき、身体の奥を痺れるものが駆け巡った。

 心の臓が跳ね上がるように鼓動し、そこから先のことは何ひとつ覚えていない。

 初めての恋。一目見ただけで恋に落ちたのは千鶴の罪でなく、夢見客人の罪。


「夢見様……」


 千鶴は、その名を呟いていた。

 呟くだけ、あのとき感じた想いの何分の一かを反芻はんすうできた。

 そんな羽化登仙の想いに浸っているとき、突然乱暴に木戸が開いた。


「夢見様、お帰りになられたのですか――えっ……?」


 千鶴は声を弾ませて客人を出迎えようとしたのだが――。

 そこにいたのは、夢見客人とは似ても似つかぬ筋骨隆々の大男である。

 六尺は超えているであろう巨体を屈め、いきなりどかどかと上がりこんでくる。


「あ、あのっ……」


 あまりに唐突だったので、千鶴はそれ以上声を上げられない。

 それにしても、この大男の出で立ちは目を引いた。

 月代は剃らず、高々と結い上げた茶筅髷に、鯉の滝登りの図柄をあしらった派手な着流し。長大な煙管を片手に、荒縄で締めた帯には漆塗りの瓢箪をぶら下げている。

 中でも奇異なのが背中に背負った大太刀だ。柄を合わせてもこの大男と同じく六尺以上ある。

 刃幅も広いから、重量は相当なものだろう。こんなものが人間に扱えるのだろうかと疑問に思うほど。

 その大太刀を無造作に立てかけると、大男はどっかりと腰を降ろした。


「え、あ……」


 呆然とする千鶴を、大男は個性的なぎょろ目でまじまじと見回す。


「ふうむ。夢さんのやつ宗旨変えか? 素人女には手を出さんと言っておったのになあ」


 そんなことを言うが、唖然としている千鶴の耳には入らない。

 一方の大男も、千鶴が驚きで固まっているのが理解できないようでその様子をまじまじと見つめている。


「き――きゃああああ~っ!!」


 千鶴のけたたましい悲鳴に驚いて、大男はひっくり返った。


「な、な、何だあっ!?」


 男は悲鳴の意味がわからず、目をぱちくりとさせている。

 すると、なにやら暇人長屋がにわかに慌しくなる。


「何事でおじゃるか! ……と、なんじゃ津神つがみ殿か、人騒がせな」


 亥の一番で駆けつけた晴満は、大男を見ると拍子抜けしたようだった。


「こ、この人がいきなり入ってきて……」


 千鶴は晴満の背に隠れると、おずおずと大男を指差した。


「ああ、こちらは津神天次郎つがみ てんじろうと申してな。おかしななりをしておるが心配はいらぬ。夢見殿の知己ちきで、向かいに住んでいるこの長屋の住人でおじゃるよ」

「そ、そうなのですか?」


 千鶴は、目を見開いて驚いた。

 晴満はそう言うが、この津神天次郎という奇妙な大男と優美な夢見客人という取り合せが、千鶴には想像できなかった。

 いや、晴満と顔見知りというところで、客人の人脈に疑いを持つべきなのだが。


「まったく驚いたぜ。いきなりあんなでかい声を出されては耳がおかしくなる」


 天次郎は、耳をほじりながら起き上がる。


「いきなりなのはどちらですかっ!」


 さすがにこれにはカチンときた。この男、自分のことを棚に上げてよく言う。


「大方、また挨拶もなく勝手に上がりこんだのでおじゃろう? それでは姫が驚くのも無理からぬこと」

「ふん。俺と夢さんの間にわずらわしい礼儀などいらんのだ。ただ黙って向かい合えばいい。それが朋友ともってもんだろう」

 ふたりの口振りから、どうやら一連の天次郎の行動は常習らしいとわかる。


「留守を預かる身としては、勝手に上がりこむようなあやしい人を信用するわけにはいきません!」


 天次朗が客人のことを親しげに話すのが、千鶴にはなんとなく許せなかった。

 見るからにまともそうでないこの男と客人が関わりあってほしくないという想いと、嫉妬じみた感情を持っている。


「まあ、こう見えて津神殿は直参旗本であるから、あやしいは言い過ぎでおじゃるな」

「この方が旗本……?」

「小部屋住みの次男坊だがな。そのうえ喧嘩のし過ぎで親父御おやじごからは勘当を言い渡された身だ。なあに、ここは暇人長屋。俺もたたの暇人、身分なんてどうでもよかろう」


 天次郎はそう言うが、どうでもいいと言うほど旗本という肩書きは軽くはない。

 建前では、大名と同格ということになっている。しかし、その禄高には明らかに差があった。

 三河以来、武辺一辺倒に徳川家に奉公してきた旗本たちだが、役職につけなければ代々変わることのない家禄しか与えられない。特に長子嫡男以外の男子は基本的に無役、婿の貰い手がなければ家督を継ぐこともなく、飼い殺しのような扱いとなる。

 その鬱憤から、中には泰平の世の気風に逆らって、奇妙な風体や派手な格好をして練り歩き、男伊達を競う者たちがもいる。これを旗本奴という。婆裟羅者、傾奇者と呼ばれる者の流れである。

 元が鬱憤晴らしなだけに、旗本奴たちは手のつけられない暴れようで、強請りたかりに乱暴狼藉を繰り返し、町民たちからは嫌われていた。千鶴の耳にも、その悪名は届いている。

 しかし、この津神天次郎はどこか違うように思えた。

 奇妙な格好をしているが、荒んだものは感じない。傾いた格好だが、威嚇するような気配もない。


「それで公家さんよ。こっちのおひいさんは?」


 天次郎が千鶴を指差して訊いた。

 相変わらず無遠慮な態度だが、そのような人物と思ってしまえば腹も立たない。


「千鶴と申します。夢見様に危ないところを救っていただいた者です」

「それで、夢見殿に心づくしの礼をしようと訊ねてきたのでおじゃるよ」

「そりゃあいい。人の情が薄くなった昨今、殊勝な心掛けじゃねえか」


 天次郎はひとりで頷き、感心している。


 ――この人、わりといい人なのかも。


 あからさまに天次郎を警戒していた千鶴だったが、その考えは改まり始めている。

 一目見ただけならいかつい大男だが、よく見ればずいぶん人懐っこい顔だ。


「ですが、わたくしは夢見殿に避けられているような気がして。やはり、突然押しかけたのはご迷惑だったのでしょうか?」

「いらぬ気遣いは無用でおじゃるよ。夢見殿は袖にした女子衆も多いゆえ、罪滅ぼしに姫の面倒を見るくらいで釣り合いが取れるというもの。それに窮鳥懐に入れば猟師も殺さずという。事情がおありなら、夢見殿はきっと姫の力になってくれるでおじゃるよ」

「それは――」

「やはり、何かおありのようでおじゃるな。御用のなき者まかり入るべからず――入口の立て札を見てもやってくるのは、相当なことであろうからの」

「…………」


 まさしく、晴満が見抜いたとおりであった。

 千鶴が客人を頼って押しかけたのは実のところ恩返しのためだけではない。

 人には開かせぬ秘密を背負っている千鶴には、頼れるのはあの夜に救い出してくれた剣客、夢見客人の他にない。


「ご安心を、千鶴姫。ここは暇人長屋、人助けが趣味という酔狂な暇人はいくらでもおる。のう、天次殿」

「ん? ああ、面白そうな話なら大歓迎だ。最近、めっきり手応えのある喧嘩もしておらんしな」


 天次郎は物騒なことを平気で言う。

 あの大太刀を振り回している姿を想像すると、喧嘩などという生易しいものではすみそうにない。

 ふと、和やかな空気が満ちた頃――。


「――だ、誰かおりますか!」


 切羽詰った女の声が、外で響いた。

 声を聞いた天次郎は、木戸を開けて呼び止める。


「美鈴姐さんじゃねえか。おう、そんなに慌ててどうしたい?」

「ああ、天次殿なら話が早い。実は、夢見殿が刺客に襲われております!」

「えっ――し、刺客っ!?」


 その物騒極まりない単語に反応したのは、実のところ千鶴だけである。


「なんだ、いつものことじゃねえか。その程度で取り乱すとは姐さんらしくもねえ」

「まあほれ、美鈴殿は夢見殿のこととなると……のう?」


 刺客という言葉を聞いても、天次郎も晴満も呑気に構えている。

 刺客に狙われるという非常事態を――それこそ本当に、いつものことのようにさらりと言ってのけた。

 まったく、このふたりは慌てた自分が馬鹿らしく思えるほど緊張感が欠けている。


「で、でも早く助けなけないと!」


 千鶴は呑気にしているふたりを急かすが、ふたりはどこ吹く風で構えている。


「夢見殿はさまざまに背負った事情がある御仁。刺客に狙われるのはよくあるのでおじゃるよ」

「だからと言って、放っておいてよいのですか?」

「なあに大丈夫さ。お姫さん、夢さんの強さを知らねえのか? 無比無敵の轟天流、夢さんにかなう奴なんざ、そうはおらんぜ」


 言われて、千鶴はあの夜のことを思い出した。

 妖しげな忍者たちを、瞬く間に斬り伏せた華麗なる絶技の数々を。

 それだけで、ぼう――となってしまう。


「並の刺客とは違うようです。そうそう悠長に構えてはいられないかと」

「ふうむ。だったらちょいと行ってきた方がいいかもしれん。で、場所は?」

「この先、根津神社です」

「急げば間に合うか、よおし公家さんよ。ここはひとつ、夢さんの助っ人にゆくか。姐さんの話だと、ちいとは面白い喧嘩もできそうだしな」


 天次郎はやけに嬉しそうに言って、例の大太刀を引き寄せる。

 太刀とは思ったが、反りはない。幅広の剣のようだ。神話の御代に伝わる十束剣とつかのつるぎに近い。


「……いや、どうもそういうわけにはゆかぬようでおじゃるな」


 珍しく真剣な目をして、晴満は扇子で向こうを差し示した。


『――観自在菩薩行深般若波羅密太かんじざいぼさつしんはんにゃはらみった……』


 般若心経を唱える無数の声、声、声……。

 その先には、三〇人はあろうかという雲水うんすいの群れがあった。

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