秘技閂破り
関ヶ原の合戦以来、徳川幕府は諸大名に対して厳封、改易を中心とした廃絶政策を取ってきた。
厳しい幕法で締め上げ、違反すればそれを口実としたお取り潰しの他、末期養子を禁じたために無嗣断絶となって領地の召し上げて天領とした。そのため、この頃には、外様、譜代、親藩合わせて百家以上の大名家が改易の対象となっている。
大名たちは参勤交代によって国許から江戸を行き来し、正室と世継ぎは江戸に住まわせなければならない。
この際に江戸に居住する江戸屋敷は、藩からの出向機関でもあり、千人以上の人員が生活する広大な敷地を持っていた。
しかし、お取り潰しの憂き目に合えば、住まう者を失い、空屋敷となってしまう。
幕府から土地を与えられた拝領屋敷は屋敷改の支配となるが、大名たちが買い上げた土地に建てた抱屋敷となると人手に渡るまで放置されることは多かった。旗本御家人の屋敷も同上である。
さて、夢見客人が様子を窺っているのは、紀州尾張両大納言の下屋敷のある清水坂からさらに西に行って四谷のあたりにある空き屋敷だ。
江戸城登城のための上屋敷と違い、このあたりにある下屋敷は敷地も広いが空屋敷となったら荒れるに任される例も珍しくない。
「探ってみたが、なにやら気配が感じられるようじゃ」
客人に語ったのは瞳鬼の声であった。
彼女の役目は、客人の佩刀お世継ぎ殺し村正の監視であるが、今は暇人長屋の面々と呉越同舟にある。
この屋敷は、潔斎祈祷した晴満が式占と式神を使って当たりをつけたものだ。
「さて、どうする? 乗り込むかい、夢さん」
客人に同行した天次郎が訊く。
他に、無縁亭想庵もやってきている。
お縫と刃洲は容態が安定しつつある美鈴を見守っており、晴満はその守りの役目に残していた。
「まずは様子を見よう。逆卍党の狙いは千鶴姫の身柄にあるはず。わざわざ拐かしたというのであれば、尚更だ」
「そうだな。もしお姫さんを手にかけるって気があるなら、わざわざさらいはしねえからな」
「然り。逆卍党の狙いは、千鶴姫のその身に宿る秘密にあろう」
千鶴は藩主の落し胤であり、お家騒動の種となる背景があるが、逆卍党の目的はその事情にに乗じて攫うことであった。
始末することが目的であるなら、いつでもできたはずである。
何かしら千鶴の身に用がある、ゆえに攫ったのだ。
なればこそ、いたずらに危害を加えることはないと踏んだ。
とはいえ、何が目的なのかは杳として知れぬのだから、油断はできない。
「む、待て。誰ぞ来る――」
瞳鬼が何かに気づいた。
客人たちも、身を隠せるところに潜む。
しばらくすると、行者姿の一団が寂れた門を潜って中に入っていく。
「なんでえ、あいつらは?」
「富士の行者に見えるが、化けておるのか……」
富士行者とは、霊峰富士を信仰対象とする山岳信仰の修行者をいう。
戦国の頃、富士の
二代将軍秀忠の代に江戸で疫病が流行ると、この角行が関東を中心として平癒祈願の祈祷を行なった。
当初は、不審な宗教者として幕府からの弾圧を受けて入牢することになるが、後に赦免されると角行の教えが広まり、やがて富士講が組織されることになる。
幕府による甲州街道の整備が始まると、高井戸宿から甲府大月宿を経由して、吉田口から富士山頂に登拝する巡礼が行われるようになる。
この講の行者たちは
また、忍者の変装術に七方出というものがある。これは、虚無僧、出家、山伏、商人、放下師、猿楽師、常の形の七種に化ける術であるが、山伏……つまり修験者の行者の行者姿は小道具も隠せ、旅中にあっても怪しまれないという隠形の術でもあるのだ。
「廃れた屋敷に入っていく行者一行とは面妖だな」
「ともすると、姫を富士の麓まで連れ出すつもりやもしれん」
「何、富士の麓に?」
「富士の風穴は知られておろう。江戸から離れて人目を避けるにはうってつけだ」
「……そうか。もうしばらく様子を探るつもりであったが、うかうかしておれんな」
「おう、そっちのほうが話が早えぜ」
にっと太い笑みを浮かべた天次郎は嬉しそうである。
背負った大剣に手をかけ、すでに大立ち回りをする気でいる。
「天さん、頼めるか?」
「任せておけ、これしきは何でもねえぜ」
「待て……! お前たち、まさか――」
瞳鬼がさすがに慌てている。
客人と天次郎は、堂々と屋敷に乗り込む覚悟を決めたようだ。
気取られることもお構いなしという発想は、伊賀の忍びである瞳鬼からするとありえないものだ。
しかし、忍んだところで相手は名うての忍者集団である。察知されずに乗り込むことはまずできない。
となれば、真正面から入ってしまおうというのである。
寂れたといえど、武家屋敷の門構えというものは、もしもに備えて頑丈に造らているものだ。
しかし、天次郎は大剣を構えて、門扉を力任せに叩き斬った。
いや、斬ったというより打ち壊したと言ったほうがいい。
派手な音がして、
「相変わらずの剛剣だな、天さん」
その技に、客人も感心するばかりである。
天次郎の並外れた膂力と、大剣あってこそなせる技だ。
一方で、開いた口が塞がらぬのは動機であった。
「穀蔵院一刀流閂破りってな。ざっとこんなもんよ。さあて、またひと暴れだ」
「なんという男じゃ、おぬしは……」
「ちょいと喧嘩が好きな暇人さ。まだるっこしいのは性に合わねえ」
「ふん、バカなやつ!」
瞳鬼は短く言い捨てると、現れる敵に備える。
客人と天次郎は、もう屋敷の中に乗り込んでいた。
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