闇の哄笑

 その構え、その技、別のようでいて同じであった。

 夢見客人と榊世槃の邂逅は、何かの運命を思わせる。


「剣の腕前で遅れを取ると思ったことはないが……なるほど、同じであれば鏡と戦うごとしか」


 世槃の言うように、剣の腕は伯仲していた。

 世槃が下段を狙えば客人がこれを巧みにさばき、客人が返す刀を振るえばマンゴーシュで受け流される。

 攻防は一進一退となり、互いに容易に手を出せず、にらみ合いとなった。


「鏡と言うなら、叩き割るまでのこと」


 答えて、客人は世槃との間合いを詰める。

 お互いの刃が触れるか触れぬか、一触即発の距離である。

 異郷の剣を使い、あざやかな受け流しと下段への技を見せる世槃であるが、さりとて夢見客人を切り伏せるほどの決め手にも欠いて攻めあぐねている。

 じり、と一歩下がるのは、峻烈華麗な轟天流の剣を恐れるからこそだ。

 この火花散る攻防は、風穴に響くいくつもの足音に寄って中断されることになる。


「ご党首、引き際でございます」


 さっと世槃の側に姿を見せたのは、墨染直綴すみぞめじきとつの僧形であった。禿頭痩身の身に、首には数珠と逆さ十字架アンチクルスをかけ、世槃同様に妖気を漂わせている。


「……日叡か、存外早かったな」

「はっ、隠れ切支丹とイエズス会の伴天連は片づきましたが」


 世槃に告げたこの怪しげな坊主こそ、逆卍党四天王の残りひとり、増長天の神仏殺し日叡である。


「夢見客人よ、勝負は預けておく――」

「む……?」


 世槃は、邪々丸を連れて刃の境から後退した。

 千鶴から離れる、ということでもあった。


「この風穴に八王子の千人同心がやってくる。千鶴姫を連れて逃げねば、役人どもの手に渡るぞ」

「おぬしの狙いは、姫ではないのか?」

「無論、聖痕を宿した奇蹟の姫こそ、我が狙い。だが、転ばせるのは公儀の手でも構わぬ――この手でやってみたくはあったがな――そののち、取り戻せばよいだけだ」


 ちらりと、世槃は突き飛ばした千鶴に目を向けた。

 笑っていた、余裕綽々の表情であった。

 一度は幕府宗門改に預けても、取り返す算段がいくらでもあるのだろう。

 魔術と剣術を極め、怪忍者を統べるこの魔人ならば、いとも容易くやってのけると思わせる。


「おぬしには、姫は渡さぬ」


 下がる世槃、邪々丸、日叡たちを警戒しつつ、客人は千鶴を庇うように割って入る。


「いいや、返してもらう。それまでせいぜい守ってやるがいい。この国に、切支丹の千鶴姫に身の置き場などないのだ。姫みずから、俺の前に帰るようにしてやろう」

「なんだと?」

「……ま、待ってください! あなたは、何をするつもりなのですか!?」


 ぞっとするほどの予感が千鶴に走った。

 救世主にならんとする魔人は、何か災いを起こそうとしている、そう感じた。

 そしてまた、災いを起こすほどの力があると、十分に思わせた。


「姫、あなたが我が前に現れぬのなら、この手で江戸を煉獄の業火で焼き払う――」

「……っ!?」

「刻限は、安息日サバトが明けるまでとしよう。夢見客人よ、それまで千鶴姫を預けておくぞ。その御世継ぎ殺し村正とともに我が前にやってくるがいい」

「左様な勝手な約定、応じると思うか?」

「応じずとも構わん。ならば、容赦の理由もない。炎が、すべてを浄化するまでのこと」

「させるか――!」


 客人が踏み出し、切っ先が横に払われた。

 しかし、世槃のマンゴーシュがこれを見事に弾き返す。

 はっと気づいた瞳鬼も、慌てて追おうとするが、すでに世槃、邪々丸、日叡の三人は、風穴奥の闇へと姿を消している。


「待っておるぞ、千鶴姫。次に会うときを楽しみにしよう。ははははははっ……!」


 地獄から響くような哄笑が、いつまでも風穴に響いた。

 江戸を炎に包むという世槃の言葉に、嘘はなかろう。

  榊世槃は、すでに同胞であったはずの隠れ切支丹とイエズス会士、さらには十字架公方を葬り去って、あっという間に血の海地獄を再現してみせたのだ。


「おのれ、逃げたか!」


 瞳鬼は、歯噛みした。

 風穴の暗がりの中でも、その視力ならば見通せるが、迷路のように入り組んでおり、深追いすれば返って命取りとなろう。まして、追いついたところで、西洋の魔術を駆使し、夢見客人と拮抗するほどの剣技を見せた榊世槃に勝つ術などない。


「夢見様……!」

「千鶴姫、よくぞご無事であられた」


 一方、千鶴は差し伸べられた手を取って、はっしと夢見客人の胸に飛び込む。

 この闇の中でどれほどか恐ろしい目に遭い、絶世の美貌を持つ剣客の助けを、一日千秋の思いで待ちわびたことか。

 しかし、この場で再会を祝うほどの時間はさほど残されていない。

 八王子千人同心とは、甲斐武田の遺臣たちを中心に、地侍や土豪を集めて甲州街道八王子宿に置かれた幕臣たちである。

 国境くにざかいの警備警護を任務としていたが、将軍お目見えが許されぬ御家人扱いとも言われるが、実態は半農半士であり、苗字を名乗ること、帯刀についても制限があった。士分身分から外れたことより、忍者であったと推測できる。


「急げ、捕らえられたら面倒なことになるぞ」

「そうだな。姫、すぐに立ちましょう」

「待ってください、あの人が……!」


 千鶴は、世槃に刺された伴天連の許へと小走りに向かった。

 囚われの境遇の中、彼のみが千鶴の境遇をを気遣い、励ましてくれたのだ、放ってはおけない。


「その伴天連、もう死んでおるのではないか」


 瞳鬼は、千鶴の背後から覗き込んでいう。

 背中から、肺腑はいふまで貫かれているように見える。

 仮に息があったとしても、長くはないであろう。


「神様が、助けてくれます……!」

「うかうかはしておれんというのに」

「すまぬな、姫の気の済むようにさせてやってくれ」

「どうなっても知らぬぞ」


 そう毒づいて、瞳鬼はそっぽを向いた。

 公儀隠密伊賀組の瞳鬼からすれば、切支丹の千鶴は邪宗門の法度に触れる。

 しかし、あくまでも与えられた役目は、夢見客人の御世継ぎ殺し村正の監視である。それも、土井大炊頭の表沙汰にできぬ探索の命であって正式な幕命ではない。

 ゆえに、ここでは知らぬふりをする。


天主デウス様、どうか救いください……」


 祈り、その痛々しい傷口に触れる。

 もし、自分が奇蹟の証を宿しているというのなら、どうか願いを聞き届けてほしいと願う。

 しかし、もう彼は息をしていない。命を絶たれた、そのはずであった。

 だが、奇蹟は起こった――。


「かはっ……!? うっ、ごふっ!」


 動かなかった伴天連が、驚くべきことに息を吹き返した。

 傷口も、ふさがっているように見える。


「ああ、よかった」

「まさか、そんなことが……」

「不思議なこともあるものだ。手当をして、連れていけるか?」


 足手まといになるのは重々承知である。

 やはり瞳鬼は不服そうにしているが、それでも膏薬や晒布さらしで手当をした。

 客人の頼みは、断れなくなっている。いつの間にか、そうした関係となった。


「伴天連殿、立てるか?」

「う、うう……」


 出血も止まり、よろよろと立ち上がれるほどに回復していた。

 キリスト教の聖者による癒やしは、ヴァチカン教皇庁によって厳粛に審議され、奇蹟に認定される。

 これもまた、千鶴の聖痕がもたらした奇蹟なのかもしれない――。


「さっ、拙者の肩を貸そう」

「あ、ありがとうございます……。ああ、なんということか。十字架公方様まで……」

「十字架公方……?」


 客人は、切り捨てられた老人の亡骸に目を移した。

 切支丹の老人がかっと目を見開き、無念のうちに果てている。

 南蛮渡来の祭服を着ているが、家紋がちらりと映った。“逆卍に違い矢斜め十字の紋”である。


「そうか、それで逆卍党か」


 何かを得心した顔で、客人は呟いた。

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