暇人長屋日常

 神田明神からそう遠くないところに、奇妙な長屋があった。


『御用の無き者、まかり入るべからず』


 なんとも人を食った立て札を立てたこの長屋、店子たなこたちは日がなぶらぶらしている者ばかり。

 そのため、いつの間にやら『暇人長屋』と呼ばれるようになった。

 その暇人長屋でも、極めつけの暇人との呼び声も高いのが、浪人者の夢見客人ゆめみ まろうどである。

 藍染めの着流しに三文銭の紋所をしていることから、人は『三文銭の夢さん』と呼ぶ。

 この夢見客人、日々の糊口を凌ぐのも精一杯という浪人の中にあって、暮らし振りはすこぶるよい。

 最低辺の棟割り長屋に分類される暇人長屋だが、家賃は一月一千文と九尺二間の裏長屋並みにふんだくる。

 客人まろうどは家賃を滞らせたことは一度もなく、そのうえ吉原にも通いつけるという。

 用心棒――それも極めつけに危ない橋を渡るもの――で泡銭を稼いでいるのだ。

 本人、この明日をも知れぬ暮らしが気に入っているらしく、一向に仕官するつもりはないらしい。

 こうした無頼の徒は、真面目に働いている者の反発を買うものだが、彼の場合そうでもない。

 まず、気前がよい。

 金が入ると、気の合った仲間を呼んでは好きなように呑ませる。

 呼ばれた連中はただ酒にありつけると遠慮なく呑むのだが、自身はちびりと唇を湿らす程度しか嗜まない。

 客人いわく、騒ぐのが好きなのではなく、騒ぐのを見るのが好きなのだと、奇矯な言い方をする。


 そして次に――。


 すこぶるつきの美男子なのだ。

 夢見客人の美形ぶりといったら知らぬ者はなく、江戸一、いいや日本一だと周囲は言う。

 町をゆけば、下は毬突きを覚えたばかりの小さな童女から上は棺桶に足を突っ込んだ婆さんまで、ぽーっとしだす始末。これで女郎買いもするから、浮名は流れるばかり。

 周りに住む女たちも、夢さんの顔を眺めようと何かと世話を焼いてくれる。

 これほど名の知れた浪人だが、氏素性はまったく知られていない。

 その名も、どう考えても変名であろうし、本人に問うたところで「さる高貴な方の血を引いておるゆえ、おいそれと素性は明かせぬのよ」などとと茶化されるのが関の山だ。中には、ああなるほどと得心してしまう者もいる。そんな戯れ言で世の中を渡ろうとするあたりが、実に彼らしくもある。

 さて、この夢見客人を訊ねる者があった。

 一見すると人のよさそうな中年男で、口入れ屋の四郎兵衛しろうべえという。

 口入れ屋――平たく言えば仕事の斡旋業である。四郎兵衛が持ってくる仕事は実入りはいいが曰くつきのものばかりと評判で、夢見客人のよく請け負っている。


「よう夢さん。いるかい?」


 威勢よく戸を開け、軽い調子で声をかける。

 客人は、ちょうど刀の手入れをしていたところだ。


「四郎兵衛か。それで、お手当てのほうは?」


 最近まっとうに働いていないため、客人の懐の具合はよくない。

 先日、四朗兵衛の仕事を引き受けたのも、そうした事情によるところだ。


「急かすない。ちゃんと持ってきてるよ。金に目の色を変えてちゃあ、せっかくのいい男が台無しだぜ」

「そう言うな。近頃は修行僧もかくやという質素な暮らしぶりでな」

「たまにはいいんじゃねえのか。夢さんは普段が普段だからねえ。ほれ、約束の二〇両」

「ありがたい、これでまっとうな暮らしができる」


 と、目の前に出された金子に手をつけた途端であった――


「おっと待ちねえ。このうちからおいらの手間賃を頂いておかねえとな」


 言うや否や、四郎兵衛はさっそく二両を差し引いた。

 目の前で手数料を差し引いてみせるあたりが、四郎兵衛の人の悪さである。


「まあ、一八両が手元に残るのだから、文句は言えんか……」


 渋々承知し、また手を伸ばすと――


「おっと、まだまだ」

「おい、今度はなんだ?」


 さすがに二度もお預けを食うと、客人の機嫌も悪くなる。


「ほれ、一月前に一〇両貸したろう。そいつを返してもらおうと思ってよ」

「覚えているとも。四郎兵衛相手に借りた金を踏み倒すほど、拙者は恐いもの知らずではない」


 口入れ屋のついでに、四郎兵衛は用心棒相手に金を貸し、ちょこちょこと小金を稼いでいる。日々の暮らしにも苦労する浪人者にとって救いになることもあるのだが、小額だからといって踏み倒そうとすると後が恐い。


「じゃあ、元の一〇両と利息の二両、合わせて一二両引かせてもらうぜ」

「それでは残り六両ではないか。一月借りて二割持っていくとは、あこぎにも程があるぞ」

「おいおい夢さんよ。あこぎたぁ聞き捨てならねえな」

「う……」


 四郎兵衛は下の方から睨みつける。じっとりとした、実に嫌な目つきである。


「いいかい? おいらはどこぞの高利貸しみてえに月一割も金利を取るわけじゃねえ。いつまで借りたって元金の二割しか取らねえんだ。夢さんだって、借りたときゃあ『本当にそれでよいのか』なんて、喜んで飛びついたくせによ。それを今になってどうこう言うのかい? 三文銭の夢さんも、ずいぶんしみったれちまったよなぁ」

「しかし、金は返せるときでよいと……」

「今がそうじゃねえか。それとも何かい? 四郎兵衛なんぞの借金は、ずっと放っておいてもいいと、そう言いたいわけかい?」

「いや、誰もそんなことを言っては――」

「じゃあ文句はねえよな。そいじゃあ、夢さんの取り分はしめて六両、と」


 二〇両の山が、見る見るうちに四分の一程度になってしまった。

 これで嘆かずにいる者の方が珍しいだろう。


「命を張って、取り分がこれだけとは泣けてくるな。そろそろ人肌が恋しいというに」

「へっ、何言ってやがる。素浪人の分際で女郎買いかい? こちとら手前の女房ともご無沙汰だ。まあ、どうしてもって言うんなら、少しばかりなら貸してやらねえでもねえがな」

「せっかくだが、遠慮させてもらう」


 にいっと、いやらしい笑いを浮かべる四郎兵衛に、客人は首を振った。

 これ以上、吸いあげられてはたまらない。


「まあ、何はともあれ、あの仕事は夢さんに任せてよかったぜ。首尾は上々、かどわかされたお姫さんも無事助け出したそうじゃねえか。他にも漏れてねえようだしよ」

「ま、そのくらいはな」


 高い報酬を目当てに客人が請け負った仕事は、誘拐された某藩の姫君の奪還であった。

 先日の夜、さらわれた姫の行方を追って見事奪い返した。

 仕事はうまくいったのだが、客人にはまだ疑問があった。

 少し小声になって、四郎兵衛に訊ねる。


「ところで、あの連中は何者だ? 並みの者ではなかったぞ」


 あの連中とは、その夜刃を交えた忍びたちである。

 四郎兵衛も顔を寄せ、小声になる。


「そう、それよ。なんでも、逆卍党さかまんじとうだとかいう噂よ」

「逆卍党だと」


 逆卍党――。


 近頃巷を騒がせている盗賊である。押し入った部屋に逆さ卍を書き残してゆくところからその名がある。

 厳重な土蔵も難なく破る手並みから、忍び崩れの集団だと見られている。

 徳川家康が江戸幕府を開いて以来、戦乱は収まったものの、各地の戦国大名の下で諜報活動に従事した忍びたちも主を失い、忍び崩れとなって盗賊となる者も少なくないという。

 関東の雄、後北条氏に使えていた風魔小太郎も、その滅亡後は江戸に潜んで盗賊となったという噂もある。


「それを先に言わぬか。おかげで死ぬ目に遭ったぞ」


 もし、賊の正体が逆卍党であると知っていたなら、もう少し用心して事にあたっていただろう。

 相手が手練れの忍者であるならば、それ相応の準備と覚悟が必要になってくる。


「おいらだって、つい今し方聞いたばかりなんだぜ。お殿様方としちゃあ、盗賊に大事な姫様をかどわかされたなんてこたぁ、絶対に漏らしたくねえわけよ。それが巷で噂の盗賊とあっちゃあなおさらだ。下手をすりゃあ、お取り潰だからな」


 親藩譜代はともかくとして、外様の大名たちは幕府の露骨な改易政策に怯えている。江戸を跳梁する盗賊に姫を攫われたなどという不祥事が発覚すれば、列藩の牙を抜くことに躍起な幕府に絶好の口実を与えてしまう。

 そのような依頼人の都合もわからなくもないが、身を危険に晒す側としてはたまったものではない。

 ともかくも、浪人者が破格の報酬を得るには相応の裏もあるというわけだ。


「しかし、面倒なことにならなければいいが」


 ――逆卍党は、ただの盗賊集団ではあるまい。

 あれだけの忍者を抱えているのであれば、きっと表にならぬ事情がある。

 若いながらも用心棒として裏社会を生きてきた客人は、そう直感した。

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