駿河一景

 客人は、回復した伴天連を連れて富岳風穴を出て、富士川沿いに進んでいく。


「江戸に戻るのではないのか?」


 瞳鬼の立場としては、一刻も早く江戸に戻らねばという思いもある。榊世槃は、江戸を業火で焼き尽くすと言ったのだ。

 だというのに、甲州街道を上って江戸に帰るわけでもない。


「公家殿の案内だ、従えば間違いはない」


 見上げると、あの式神の鷹が空を舞ってその行き先を示すように飛んでいる。

 その先は南、駿河湾に向かっているはずだ。


「追ってもかかって急がねばならぬのだぞ」

「だからこそだ、八王子の宿で挟み撃ちにされるというのもまずかろう」

「それは、そうだが……」


 瞳鬼は、ちらりと伴天連に目をやった。

 肺を貫かれたはずだというのに、もう肩を借りずに歩ける。

 足手まといという心配はなさそうだが、紅毛の南蛮人を連れて歩くのは目立つ。しかし、瞳鬼の左目、そして客人の人並み外れた容姿もある、その心配は今更だと思い返した。


「伴天連殿、歩きながら話せるかな?」

「ええ、構いません……」


 伴天連の言葉は流暢であった。

 富岳風穴に潜み、布教活動を行なうためにこの国の言葉を学んだのであろう。

 しかし、逆卍党を率いる世槃に裏切られたようだ。


「あの榊世槃という男は、江戸を焼くと言っていったが……心当たりはござるか」

「私もくわしくは知らぬのですが、一揆の企てがあったようなのです。九州では同胞が過酷に弾圧されています。その談合が進んでいるとも」

「一揆か……。その九州の一揆が起こった頃に、江戸で呼応しようという準備があったのかもしれん」


 つまりは、東西同時に乱を起こし、幕府を揺るがそうという画策かもしれぬ――江戸を業火で焼き払うとは、これを意味しているのではと客人は推測した。


「我ら切支丹の教えでは、地上の王に逆らってはならないのです。十字架公方様は耐えかねていたのかもしれませんが……やはり世槃のような魔術を使うという噂の者を用いるべきではなかった」


 深い後悔の念とともに、伴天連の嘆息が吐き出される。

 これを聞いて、千鶴はきゅっと拳を握った。


「……わたくしは、あの方の前に赴きます」

「姫……」

「そうすれば、江戸を業火で焼き払うなどという恐ろしいことは思い留まるはず――」

「待つのだ、姫」

「ですが、そうしなければ、江戸が大変なことになります! ……わたくしは、夢見様の長屋を訪ねて、江戸の町にいろいろな人たちがいることを知りました。天次郎様に、公家様に、美鈴さんにお縫ちゃん。刃洲先生に物書きの想庵様も物知りで、お縫ちゃんもいるし、吉原の高尾太夫も、みんな素敵な方々ばかりでした」


 千鶴は、これまでに出会った人々のことを思い描く。

 我が母が顔も知らぬ殿のお手つきと知らず、市井で暮らし、一転して姫君として扱われ、今度のことに巻き込まれた。

 その身に宿った聖痕のことも知らず、籠の鳥となった。

 だが、夢見客人と出会って、暇人長屋を訪ねてからすべてが変わった。

 医者先生に見てもらいに来るお婆さん、夢見客人をひと目見ようとやってくる娘衆、世話焼きの女房たちに訳ありの長屋の面々……。

 江戸に暮らす人々の、生き生きとした息吹が間近にあった。


「短い間でしたが、あんなに楽しい日々はこれまでにありませんでした。本当に、いろいろなことがあって、面白いばかり……。そんな町が焼かれるなど、わたくしには耐えられません!」


 世槃の境遇には、同情して余りある。

 だが、これまで見たあの江戸の町が災禍に見舞われるのは止めねばならない。

 大切なものが、散りばめられたところなのだから。

 頬に伝った千鶴の涙を、夢見客人は優しく拭う。


「そのお気持ちは大切なもの。されど、姫もいまや暇人長屋で暮らし、江戸の一部となったのではござらんか。姫もまた江戸から欠けてはならぬのです」

「わたくしも、江戸の一部……」

「左様、大名家の姫君にもかからわず、好き好んで暇人長屋にやってきた押しかけ姫。拙者と同じ、物好きの暇人にござろう」

「ああ、嬉しゅうございます。わたくしも、夢見様や長屋の皆と同じ、暇人。ふふっ……」


 涙を見せながらも、千鶴は嬉しくてつい微笑んだ。

 この時代、身分の差というものは純然としてある。それぞれ生きる世界が違い、立ち入れない垣根がある。

 しかし、客人は言う。同じ暇人であると。

 これが、どれほど嬉しかったか。


「だからこそ、御身を犠牲にして救おうなどど考えずともよい。斯様なときこそ、暇をしておる拙者にお任せあれ」

「はいっ!」

「――まぁたそうやって調子のいいこと言って惚れさせようとするんだから」


 呆れ気味だが、可愛らしい声が聞こえた。

 千鶴も客人も、瞳鬼にも聞き覚えがある。


「……お縫坊、江戸から出てきたのか」

「あたしだけじゃないけどね。でも、みんな暇してるしさ。迎えに来たよ」

「夢見殿、しばらくぶりです」

「わっちもお仲間に入れてくりゃんせ」


 なんと、美鈴と高雄太夫の姿まである。

 華やかな出迎えであった。


「美鈴殿、もうよろしいのか。それに高尾太夫も遊里を離れるどころか駿河まで出向くとは」

「まだ、毒が残っておるということですが、だいぶ動けます。……その、助けてもらった礼はしませんと」


 美鈴は照れて、頬を染める。

 客人の美しすぎる顔を見た途端、首筋に噛みつこうとしたことや口移しのことを思い出したのか、恥じらいを覚えたのだ。


「年季開けの金子の使い道を考えあぐねたところでありんす。せっかくですから、ぬし様を江戸からお迎えに来さんした」

「みんな、公家さんの案内できたのさ」

「こうして落ち合えたのもあの御仁の趣向か。しかし、娘三人がよく江戸から出られたものだ」

「ああ、そいつは高尾姐さんのおかげだよ。まったく豪儀ごうぎだねえ」

「さて、豪儀とは……?」

「こっちにくればばわかるよ、清水のみなとが見えてくるからさ。ほら」


 そう言って、お縫が走って手招きする。ちょうど丘から駿河湾を望める場所だ。

 客人も、一行とともにそちらへと向かう。

 陽の光を受けて波をきらめかせる駿河湾の海上に、一隻の帆掛け船が浮かんでいる。


「太夫、船を出したのか」

「あい。ぬし様のお迎えでござんすから」

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