悪魔と天使
榊世槃によって岩牢から引き出された千鶴がみたのは、凄惨なる光景であった。
イエズス会の伴天連も、隠れ切支丹たちも皆、殺されていた。
そしてまた、殺されたはずの死体が甦り、獣のように首筋に噛みついて血を啜っている者までいる。
有廉邪々丸によって吸血鬼となり、おぞましい怪物に成り果てたのだ。
「このためだけでも、おぬしを
「うふふ、存分に味合わせていただきました」
世槃の刃のような横顔がちらりと向けられると、邪々丸は娘のようにうっとりとした表情で答えた。
「あなたたちが、このようなことを……。禁教とされても、信じようとした方々を、こんな……」
あまりにむごい仕打ちである。仲間と信じていたはずのものたちだ。
「何を言うかと思えば。姫君をさらうように仕向けたのは、こやつらだというのに」
「だとしてもです!」
凛とした声が、洞窟の中に反響した。
少し前までは、怖くて震えることしかできなった。
だが、この世槃という男の為した非道に声を上げてあらがうことができた。
いまだ震えは止まらない、それでも――。
あの人が助けてくれると、信じることが強さとなったからだろうか。
「聖痕が刻まれただけの小娘と思っていたが、なるほど資格がある」
「資格……?」
「俺が造り上げる新たな教えを解く聖女だ」
「あなたの教えなど、決して人に説くつもりはありません。わたくしにとって、神の教えは『聖書』のみです」
「であろうと、苦しみによって転ぶ。そして絶望の果てに真なる神を見る。かつての俺がそうであったように――」
すっと、世槃の鋭い
闇の中の炎で照らされた容貌は、魅入られそうになるほどの美しさであった。
何故か、夢見客人と重なってしまう。
美しい顔というのが同じだけであるというのに。
「耐え難い苦痛を味わうと、その苦痛を与える者にひれ伏し、崇めるようになる。まさに神を崇めるように、だ」
「そんなことはありません! 信仰とは、それほど弱いものではないのです」
「おのれを支配する絶対者であり、従えば苦しみから救ってくれる。人が神と崇めるものと何が違おうか? 俺が地獄で願い続けたのは、この世を炎で覆うこと。その願った光景こそ、神――」
榊世槃は、目の前で自身の母が悶え苦しみ、犯されるという地獄から来た。
悪魔の子として蔑まれ、嘲笑され、弄ばれた。
その中で一心に願ったのは、世界そのものが燃える復讐の夢想――。
なんと神々しく、美しかったことか。
おのれを苛む者、顧みない者すべてがが燃え落ち、焼かれ、苦しみ、滅びる。
無上の喜びであり、救いにして信じることができる神そのものであったのだ。
「なんという……」
千鶴は、嗚咽して涙を流した。
ああ、神よ。あなたはなんという悪魔を創り上げてしまったのか――。
「姫君よ、あなたも地獄を味わい、救う俺を救世主と崇めるようになる」
千鶴を連れて行った先にあったのは、人間ひとりを乗せられるほどの台がある。
上下には、巻き上げ式の縄がついている。これに手足を縛り、人体を引き伸ばすという
他にもスペインの長靴もあった。これは椅子に座らせて木の枷で足を挟み、楔を打って押し潰していく拷問具だ。この世でもっとも苦痛を与えるものとして、異端審問官が職人に発注したものだ。
他にも、おぞましい拷問器具がいつくか並べられていた。
潜伏中に異端に染まった場合は、拷問によって糺すという先鋭化を示すものだ。
「殺しはせん、死んでもらっては困る。多少不具になっても止めはせぬがな」
「あはは、どこまで持つのか見ものでございますな。それでも転ばぬときは……私めが噛んで差し上げましょう」
邪々丸が、声を上げて笑い、千鶴を囃し立てた。
赤い口元から、長く伸びた牙が見える。
この恐ろしい光景の中に、息を切らせて飛び込んできた者がある。
「世槃! おのれ……」
「十字架公方様のおでましか。始末をつけねばと思っておりましたが」
富岳風穴に逃れた隠れキリシタンを統べ、イエズス会も招いた老人、十字架公方。
世槃は、この老人に従いつつも、いつしか反旗を翻す機会をうがっていた。
そして奇蹟の姫君である千鶴を手中に収めたところで、決行に移したのだ。
「謀反の機会をうかがっておったか!」
「お互いに利用しようというのは納得ずくのはずでござろう。俺の方が、一枚上手であったようだが」
「よもや、
「はははははっ! 悪魔を崇めるか、それもいいだろう。この風穴に集まった者どもすべてベールゼブブにでも捧げてくれよう!」
愕然とする十字架公方に、榊世槃は嘲笑の凱歌を高らかに上げた。
口にしたのは、新約聖書にもその名が登場する
「おのれ、おのれ、榊世槃……!」
「直に、切支丹潜伏の密告を受けて八王子の千人同心と
「ぐ、ぬううう……」
憎々しげに唸る十字架公坊が、腰から刀を抜き放う。
キリスト教の教義では、弾圧に対して無抵抗のまま殉教することが試練であるとされる。
権力に立ち向かい、蜂起することは望まれていない。
十字架公坊は、抜いた刀で斬りかかる。
しかし、それよりも速く、世槃の護拳つきの刀がその胸を貫いていた――。
鍔鳴りすらさせないその技量は、相当なものであることを示している。
「喜ぶがいい。望みが叶おうとするその寸前で絶たれ、暗黒に落ちるときにこそ人は心から祈り、神を見よう」
その世槃の言葉通り、十字架公坊は、ただ一言「神よ……」と祈って果てた。
悪魔の笑みを湛える世槃は、刀を抜くと千鶴に向いた。
流れる血と、聖なるものを穢す喜びに酔いしれていた。
「千鶴姫――!!」
魔を祓うかのような声が響いた。
――待っていた、あなたを。
夢見客人の、その美しき姿を。
絶望の深淵から凛然と悪と戦う、大天使ミカエルのごときその相貌を。
「来たか、夢見客人――」
榊世槃は、青と緑の瞳におのれの敵となる剣客の姿を映すのであった。
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