鋭剣刺客
裏柳生の刺客、斎藤丈之介は平蜘蛛のように平伏していた。
上手の主君に対する畏怖と、夢見客人に敗れ、使命を遂行できなかった屈辱によって、額にはじっとりと汗が滲んでいる。
「よって、此度の使命……しくじりました」
「…………」
柳生新陰流の剣名を天下に轟かせ、将軍家指南役、さらには大目付の役を拝命し、柳生家を万石取りの大名にのし上げた
「他の者は、皆斬り死にいたしました。生き残ったのは、それがしただ一人。かくなるうえは、この腹掻っ捌いてお詫びしたく――」
言うや否や、丈之介はさっと脇差を取って引き抜いた。白刃が腹部に突き立てられる瞬間――
「たわけっ!!」
激しい叱責とともに、すかさず宗矩の扇子が飛んで丈之介の頬を打った。
「と、殿……?」
「刺客が腹なぞ切ってどうする? 勝手に切腹などされてはむしろ迷惑!」
「しかし、此度の不手際を詫びるには腹を切るより他は」
「うぬは、まだ武士のつもりか?」
冷気さえ漂わせるほどの眼光が、丈之介を射抜いた。とても老境に差しかかった者のものとは思えない。
「…………」
「丈之介、うぬは裏に生きる刺客ぞ。何があっても敵を仕留め、いかなる手段を用いても使命を遂げよ。名より実を取れ、武士道ではなく刺客道に生きよ――そう教えたはずじゃな?」
「申し訳、ございませぬ」
丈之介はただただ恐縮し、顔を上げる事はできなかった。
宗矩は身寄りのない丈之介をここまで育ててくれた父親であり、また剣の師であり、主君でもある。絶対的な存在なのだ。
「……だがな、丈之介――」
ふと、宗矩の声が穏やかなものになる。
丈之介は、思わず頭を挙げた。
宗矩は先ほどとはうってかわり、年老いた父親が息子の行く末を思うような、かすかな寂しささえ感じさせる表情を見せた。
「わしはのう、本当は嬉しいのじゃ」
「殿……」
「おぬしのような使い手が、日の当たらぬところで死んでゆくのは惜しい。柳生が……いや幕府が天下安泰を成した日には、必ずや光の当たるところに出してやる。それまでいかなる苦難があろうとも、じっと耐えてくれい」
「も、勿体ないお言葉にござる!」
丈之介は、素直に感激した。
父母の愛を知らず、ただ刺客となるために育て上げられた丈之介にとって、宗矩だけが優しい言葉をかけてくれる。極寒の世界に灯った唯一の温もりであるのだ。
「しかし、夢見
宗矩は感じ入ったようにしばし思案すると、刀掛に手を伸ばし、一振りを丈之介の目の前に差し出した。
「持ってゆくがよい」
「これは?」
「倅が差しておるのと同じ銘じゃ。確かめてみるか?」
「
丈之介は、震える手で拝領した。作法どおり口に懐紙を食み、一礼してから抜き払う。
刀身二尺九寸、地金はよく鍛えて細かその古太刀は、昨今の打刀が失って久しい凄みを有している業物だった。
その見事さに、丈之介は一瞬にして心を奪われた。
「それならば村正にも遅れを取らず、また斬られることもなかろう。やれるか、丈之介?」
「勿論にござります。必ずや御世継ぎ殺し村正を献上できましょう」
――斬れる。これなら斬れる!
丈之介は確信した。目の輝きが格段に違う。
殺戮機械としてふたたび機能を取り戻した丈之介に、宗矩は満足そうに頷く。
「任せたぞ、丈之介」
「はっ――」
丈之介は典太を納刀すると、一礼して退出した。
それに合わせて、奥の襖がすっと開く。
「さすがは親父殿、相変わらず人の使い方が上手い」
その声には、何やら皮肉めいた響きがあった。
手甲脚絆と、そのまま長旅に出立できそうな旅装に隻眼――宗矩の長男、
柳生宗矩の長男であるが、この時期将軍家光の勘気を賜り、蟄居となって十一年間を兵法の研鑽に明け暮れたと自伝に残している。
この歴史の表舞台から姿を消している間、諸国を遍歴して武者修行や探索を行なっていたという伝説、講談の類は枚挙に
「十兵衛、どう思う?」
「夢見客人か。まだそんな面白い男がおったとはな」
十兵衛は笑った。
狼が笑えばかくありなんといった、凄みのある笑いだった。
「轟天流とは聞かぬ流儀だが、刀を断ち斬り大木を切り倒すという無双の剛剣なれば、新当流にある一の太刀か
「ほう」
最後に出された流名に、宗矩は反応した。
一刀流といえば、もう一つの将軍家指南役、小野派一刀流がある。一刀流流祖
十兵衛は一次期、小野忠明に師事したことがあり、その剣風は身をもって知っている。
そして、一刀流瓶割り太刀――。
伊藤一刀斉が若き頃、大瓶の中に逃げ込んだ盗賊を瓶ごと切った刀――福岡一文字――を、これに由来して瓶割り太刀と呼んだ。この瓶割り太刀は、一刀斉の後継者を巡る小野忠明(当時
これは刀ではなく、瓶に入った人間を一刀両断にする業が継承されたと見るべきだろう。
一刀流は、相手が防御しようと構わず上段から人体の正中線を叩き斬ることを旨とする流派。その精神が、瓶割り太刀として受け継がれるのである。
「なるほど。おぬしは轟天流とやらを一刀流の系統と見るか」
「うむ。それに一刀流には『多敵の構え』がある。俺も、小野次郎殿が稽古の場でおよそ二十人を叩き伏せるのを見た。夢見客人が一刀流の流系に連なるならば、裏の者五人を瞬く間に斬って捨てたのも頷ける」
「確かに、丈之介の話から推測するに、夢見某の構えは一刀流正眼とも思える」
「ただ、湖月――これがわからん。あの丈之介が、間合いを読み違えるとは」
丈之介は刺客である。確実に相手を仕留めるために、一段と深く間合いを取る癖が染みついている。
にもかかわらず、必殺の間合いを外したことが十兵衛には解せない。
「誘いに乗って迂闊に手を出せば、幻を掴まされ斬り死にする。湖面に映った月に魅せられ、掬い取ろうとすれば溺れ死ぬ……。湖月とはよく言ったものよ。十兵衛、破れるか?」
「さて、仕合ってみぬことにはな。そんなことを聞く以上、俺の出番があるのだな?」
「丈之介は、結局のところ言われたままに標的を消すことしかできぬ刺客。所詮は大義を見ることはできぬ。土井大炊頭あたりが我らの動向に感づいておるような節があるゆえ、おぬしに上手く立ち回ってもらいたいのだ」
筆頭老中
宇都宮城釣天井事件によって
結論から言えば、宗矩の危惧は的中していた。
夢見客人と斎藤丈之介との死闘を密かに覗っていた伊賀者忍者集団――糸巻随軒に皆殺しにされるが――をご記憶だろう。
まさしく彼らこそ、土井大炊頭が裏柳生の動向を探るために放った密偵である。
剣術指南役から大名、大目付まで登り詰めた柳生の動向にも目を光らせているのは当然といえば当然である。
同じ幕臣同士であろうとも、権力の座を巡って、虚々実々、鵺どもの知恵比べがおこなわれているのだ。
「なるほど。結局、丈之介は囮というわけか」
十兵衛の声には、侮蔑の響きがあった。
それが剣を忘れ、飽くなき権力闘争のために人を将棋の駒のように使い捨てにする父に向けたものなのか、そんなこともわからず盲目的に父に従う丈之介に向けたものなのか、もしくはその両者に向けたものなのか……残された隻眼から真意を覗うことはできない。
「――ところで十兵衛。お主と丈之介、本気で仕合えばどちらが勝つ?」
それはまったく、宗矩の好奇心による問いにであったろう。彼もまた古今無双の達人と言われる兵法家だ、轟天流なる剣の技に興味を示す。
突然の父の問いに、十兵衛はふと思案して答えた。
「そうさな……上様御観覧の御前仕合ならば、まず俺が勝つ。野仕合でも紙一重で俺だろう。しかし、丈之介が俺の命を本気で狙ってきたら、正直わからん」
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