魔宴の響き
暗中退路
末廣神社からの空井戸を降りると、その地下は洞穴のように掘り進められていた。
この一帯、元々は干拓した湿地帯である。
そこに道を通すには、木枠をはめて石壁造りとして泥濘を食い止めばならない。
かなり大規模な普請が行われたはずだが、裏の道に通じた夢見客人もこの吉原地下道については聞き及んだことはなかった。
江戸という町は大半が埋立地であり、井戸を掘っても地下水は出ない。
神田上水などの上水道から引き込んだ水を、地下の水路を通して取水する。
そのため、江戸にはいたるところに地下道が張り巡らせてあった。その中で使われなかったものは、
その中を、燭台で照らす無縁亭想庵を先頭に、一行は進む。
「夢さん。美鈴姐さん、どうなっちまうんだよう……」
涙混じりのお縫の声である。
あのような化物に噛みつかれ、血を欲するようになった美鈴のことを思うと気が気ではない。
凛として美しい美鈴は、お縫にとっては憧れであり、面倒見のよい姉として慕っていた。
「案ずるな、想庵先生が救う手立てに心当たりがあるという。まずは長屋に戻ることだ」
気を失った美鈴は、猿ぐつわを噛ませて客人が背負っている。
背負っている最中、目を覚まして噛みつかれてはたまらないが、今はまだその気配はない。
「……う、うん。でも千鶴ちゃんもさらわれちまって」
「忍びの恰好をしておるのに、めそめそと小うるさいやつじゃ」
「な、なんだい、あんたは! 美鈴姐さんは、あたしらの仲間なんだよ」
「だからどうした。五情に惑わされぬが忍びの心得であろう」
五情とは、すなわち喜怒哀楽の情を指す。
伊賀の忍びは、その五情を揺さぶり食性名財風流の五欲の理を利用する術を習うが、捨てることも要求される。
「ふんだ、あんた主持ちだろ? あたしは、好きに生きるために術を仕込まれたんだ」
「好きに生きる? それが忍びといえるか」
お縫と瞳鬼が、狭い通路の中で口喧嘩を始めている。
ふたりとも、客人の後ろにいる。
「ふたりとも、今は静かにな」
美鈴を背負ったまま、客人は首だけ向いて釘を差した。
静かな言葉だが、お縫も瞳鬼も客人にそう言われては従うほかない。
その心を煩わせることだけは、したくないのはふたりとも変わらない。
「そもそも、こいつ何者なんだい? ついてきちまっているけど……」
「こいつなどではない、伊賀の瞳鬼じゃ」
「伊賀者? 余計に怪しいじゃないのさ」
「瞳鬼は拙者の恩人でな。お縫坊も仲良くしてやってくれ」
「夢さんって、いっつもどっかから知らない女を連れてくるよね……」
「お縫坊、何か言ったか?」
「なんでもないよ」
渋々という形で、お縫は瞳鬼の道連れを認めた。
一方の瞳鬼も、お縫に突っかかってしまう気持ちを収める。
四つは年下に見える小娘相手にむきになって小言めいたことを言う理由、自分でもわかっていた。
主を持たず、忍びの掟にも縛られず、気ままに生きて夢見客人の側にいるお縫が羨ましかったのだ。
そういう生き方など、考えたことさえなかった。
「ついたようであるな」
想庵が燭台で照らすと、先は水路につながっており、そこに舟が何艘か浮かべてある。
客人、想庵、お縫に瞳鬼、いまだ気を失っている美鈴を合わせ、五人いる。
そう多くは乗れぬから、二艘に分かれて乗ることになる。
客人が美鈴を降ろし、舟に乗せたとであった。
どさり――。
何かが倒れる音に、振り向く。
石壁が崩れたかと思われたが、そうではない。
想庵が燭台を向けると、倒れたのは石の塊かに見えた。
しかし、徐々に色が変わり、人の形をしていたのがわかる。
裸身の人であったのだ。
「そやつ、肌の色を変えて潜んでおったぞ。
声に続いて、影からははぐれ医者の早良刃洲が現われる。
倒れた者の
骨に覆われていない延髄の急所であり、ここが断裂すると小脳から生命維持に必要な器官への伝達が行き渡らず、絶命する。
「逆卍党の忍びか」
「であろうな。命を貰い受ける前のことは知らぬが。これで一両分だ、夢さん」
「かたじけない。だが、今度は美鈴殿を助けたい。生き血を啜る鬼に噛まれ、その毒が回っておるらしいのだが」
「さて、今まで左様な症例は診たこともない。それに、私なんぞ今は救う命よりも奪う命が多くなった
自嘲する刃洲である。
藩医という地位にありながら故あって暇人長屋に流れ、今は頼み料を受け取って相手を始末する闇稼業をしている。客人も承知していることであった。
「想庵先生曰く、救う術があるということだ。今度は、医者としての腕を貸していただきたい」
「千鶴姫の傷無しの血といい、鬼の毒といい、近頃は奇怪な症状を見ることが増えた。して、姫君は?」
「……不覚を取って賊にさらわれてしまった。まずは美鈴殿を診ていただきたい」
「そうか。いいだろう、長屋に戻ってからだ」
刃洲が加わり、二艘の船にそれぞれ三人が乗り、漕ぎ出していく。
狭い水路を抜けると、親父橋の下に出た。
よもや、遊里通いの客が行き交う橋の足下に抜け道があるとは思うまい。
夜更けの騒乱から逃れ、長屋へと向かうのであった。
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