江戸燃える日

 場面は、神田明神の門前町にある甘酒屋に移る。

 暇人長屋からしばらく歩いて男坂を登った先の店で、中に上がると座敷もある。暇人の面々がたむろするにはちょうどよい。

 糀から醸した甘酒と、口直しの久方味噌も味わえ、江戸総鎮守の名物として町人たちに親しまれている。

 座敷に上がって上がって思い思いに座るのは、夢見客人、公家を称する陰陽師の晴満、大男の津神天次郎、草双紙書きの無縁亭想庵、お縫と千鶴だ。

 瞳鬼は、店の外で見張っているようだ。

 お縫と千鶴は、温かい甘酒をさっそく口にする。ほっとするような甘さが広がって落ち着く。

 その間に、客人と暇人が話を進めていた。


「……天門とな?」

「ご存知か、公家殿」

「当然、陰陽歴道おんみょうれきどう方位のことなれば、麿の本業じゃ」


 客人が伊達藩上屋敷での顛末を話すと、晴満が答えた。

 天門とは、晴満が使う陰陽道の分野であるという。

 江戸に流れてきてからは、占いや御札、暦を売るのを生業としている。


「なら、さっそく教えてもらえねえか? 陰陽道の方違えとなると、俺にはよくわからん」


 さっそく天次郎が訊ねた。


「うむ、まずは方位の守護についてでおじゃるな。この神田明神も、江戸総鎮守にして江戸城のうしとらの鬼門の守護神にせんと遷されたものにおじゃる。反対側のひつじさるの裏鬼門には、日枝ひえだ神社が置かれる――」


 晴満は、懐紙に矢立の筆でさらさらと方位を書く。

 北東、艮の方位は鬼門と呼ばれ、古来から鬼が出入りする方角とされる。

 京の内裏も四神四境を祭り、鬼門封じに比叡山を置いた。

 その反対側、南西の乾は、鬼門から入った鬼の通り道を通って邪気が溜まる方位として裏鬼門という。

 江戸の鬼門と裏鬼門に、寛永寺と増上寺が置かれたのは先に解説したとおり。


「しかし、古来より怨霊魑魅魍魎の類いが出入りするとして忌まれ、祀られるのはいぬいの天門でおじゃる」


 乾の方角は、すなわち北西。

 鬼門を忌むものとしたのは、平安時代に現れた比較的新しい信仰だが、陰陽道が日本に伝わる以前の古代中国で凶の方位とされたのは天門であった。実のところ、風水には鬼門思想はない。儒学者の新井白石あらい はくせきは、風水の書『黄帝宅経こうていたくけい』から鬼門に関わる記述の矛盾を指摘し、統一された思想はないと明らかにしたうえで批判している。


「京でも、乾の方角には方位の吉凶を司る大将軍八神だいしょうぐんはちじん神社、平野ひらの神社、また北野天満宮きたのてんまんぐうが置き、鎮護しているのでおじゃる」

「乾の乾の方角に、何があるってんだ?」

「大ありだ。乾こそ、この江戸に災厄が巻き起こる方位である」


 出し抜けに想庵が言った。


「では、いかなる災いが起こるのでござるか、想庵殿?」

「おっと、しばし――」


 これを聞こうと皆の視線が集まる。

 ここで甘酒を啜って久方味噌を舐めるのは、想庵という人物らしくもあった。


「……ふむ、やはりここの甘酒は格別。味噌も実に絶妙」

「もったいぶってねえで、とっとと話しちゃもらえねえか」

「では言うが……火事だよ」

「火事?」

「乾から吹く風は、火元があれば江戸を火の海にする大火となる。慶長の頃の大火事も風は乾……天門から吹いた」


 火事と喧嘩は江戸の華という。木造建築がひしめき合う江戸は、火事の町である。

 慶長六年の閏十一月、江戸は大火に見舞われた。現代に記録に残されていないが、江戸全域が消失したとされる。

 この後の時代、江戸最大の大火といわれる明暦の大火――俗にいう振り袖火事は、北西の風によって広がった。八百屋お七の付け火で知られる天和の大火もまた北西風によって被害が拡大した。

 さらに時代は下るが、アメリカ軍はたびたび江戸で起こる大火と関東大震災の火災を徹底して研究し、北西風を利用した焼夷弾による爆撃を行って焼き尽くした。


「榊世槃は、乾の風に乗せて江戸を焼く、と」

「左様、かの諸葛孔明も、長江の赤壁で魏の曹操の水軍を連環の計にて封じ、祈祷で東南の風を吹かせて火計で打ち破った。江戸は、北に富士の山を望み、北西から強く風が吹く地なのだ」

「それが煉獄の業火か……」

「世槃とやらは乾のどこかに火をかけるつもりか。そいつがわかりゃあ、こっちも手の打ちようがある。先回りをして叩きゃあいい」

「政宗卿は、拙者にこの眼帯と鍔を形見として託した。天門の秘事として」


 伊達政宗と眼帯と、丸一文字透かしの鍔。

 これにいかなる謎が秘められているのか。


「独眼竜の謎掛けか。こいつに秘事があるって言われてもな」


 天次郎はこれを手に取った。

 黒のビロード布でできたもので、手触りも高級だ。

 しかし、そこではたと気づく。


「品はよさそうだが、縁に穴が空いておるのか? かの伊達男にしちゃ、なんとも粗末な」

「穴……?」

「……あっ、待ってください!」


 そこで、千鶴が気づいた。

 眼帯が差し込む陽の光を浴びて、影の中に光の点をいくつか浮かび上がらせている。

 それがちょうど晴満が描いた江戸の四神相応の図に映り込んだ。


「公家殿、これは……」

「江戸の寺社仏閣の位置でおじゃるな。寸法を合わせて地図に直そうぞ」


 その位置を、書き加えていく。

 寛永寺に増上寺、筑土八幡宮も重なった。


「これだけでは、なんともでおじゃるな……」

「この鍔が意味を為すのではないか」


 客人が言うと、晴満が手に取る。

 飾り気もなく、手がかりになりそうなものが刻まれていないかと探りを入れる。

 念の為に裏返すと――。


「見やれ、玄武の刻印でおじゃる」

「じゃ、こっちを真北にして上に置くってわけか」


 玄武は北の聖獣、富士山を指す。

 これを北にして置くと、一文字は北東から南西の鬼門と裏鬼門を結んだ。


「天門を指すわけじゃねえぜ? 目眩ましか」

「そうであろう。しかし、これを逆さ卍字に回さば――」


 と、客人は地図上の鍔を右に回転させた。

 鍔の一文字透かしは、北西から一直線の結んだ。


「……江戸天門の守り、伝通院でおじゃる」

「将軍家の菩提寺じゃねえか」


 江戸城北西、小石川の無量山伝通院寿経寺むりょうざんでんづういんじゅけいじは、上野の寛永寺、芝の増上寺に並ぶ徳川将軍家の菩提寺である。家康の生母於大おだいの方――落飾してその院号の由来となった伝通院の他、徳川所縁の者の多くが葬られている。

 本堂は寺領六百石を誇るにふさわしい大伽藍だいがらんである。

 そこから火の手が上がれば、天門北西から吹く風に乗って江戸城にも回る。

 独眼竜伊達政宗は、徳川への反抗の火計を眼帯と鍔に秘していたのだ。『東奥老子夜話』には、政宗は幕府と天下をかけて争うことを想定し、図上の演習をしたとある。奥羽で迎え撃ち、疲弊した幕府軍を江戸へと追撃をかけるという作戦を立てたことが記されている。

 伊達政宗は浄土の西に合掌したまま往生したとされる。

 しかし、その逝去の瞬間に立ち会ったものはいない。

 西ではなく、北西を向いておのれの企てを示したのではなかったか?

 もしくはこれに気づいた家中の誰かが幕府への叛意を隠蔽すべく改竄を行った可能性は?

 その真相を知るのは、夢見客人ほか暇人たちのみである。


「あやつは、榊世槃は安息日サバトが明けるまで姫を預けると言った。想庵殿、わかるか」

「切支丹の教えで働くことを禁じる日だ。七日に一度巡ってくる。切支丹の教えに背く魔女が集い、悪魔と乱行すると聞き及んでいる」


 キリスト教において安息日は日曜とされる。

 これに厳密なものはないが、ユダヤ教では日没で区切る土曜として戒律を定めらている。これを厳格に守るのは、十戒の定めでもある。

 そうした意識もあって、魔女集会のサバトは土曜の夜に行われると考えられていた。


「そいつは、一体いつ巡ってくる」

「ふむ、本朝のこよみは月齢によって決めるが、切支丹は日輪の周期を暦とする。しばし待て、吾輩が今より算出してしんぜよう……」


 想庵は、太陽暦と太陰暦の差異を割り出して安息日を割り出した。

 そしてまた、深刻な顔となって唸る。


「わかったのか、想庵殿?」

「ああ、わかった。次の安息日は五月二十六日……二日後である」


 寛永十三年五月二十六日は、グレゴリオ暦にすると六月二十八日の土曜日となる。

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