月下の慟哭

 斎藤丈之介にとって、おのれという存在は矛盾の塊である。

 柳生新陰流兵法は、活人剣を標榜ひょうぼうする。

 剣術とは、悪人を斬り、人を活かす術と説く。

 まさに刺客とは、そのためにいる。

 表沙汰にできぬ悪を人知れず消す。

 また、剣の理合でも千変万化に変化して後の先を取ってかかってくる相手への切り返しをもって活人剣かつじんけんとし、相手に何もさせずに斬るのは、殺人刀せつにんとうとする。

 しかし、刺客の剣は先手必勝だ。

 表向きは天下の剣、将軍家指南役という華々しい正の剣でありながら、その実態は殺人刀として裏の刺客剣を頼る。

 この矛盾こそ、丈之介の矜持を満足させるものであったのだ。

 だからこそ、安々と破った夢見客人という剣客を許すことができない。

 なんとしても斬る、その一心で早朝から水垢離をして精神を透徹させた。


「轟天流……その師は伊東一刀斎だな?」

「さてな。補陀落渡海ふだらくとかいの果てに伊豆大島に流れつき、そこで出会った我が師は、鬼夜叉といった――」

「やはり」


 補陀落渡海とは、船に乗って沖に流れる捨身を言う。この時代には水葬の一種となった。

 しかし、何ゆえ客人がそのような経験をしたのかは、ここでは問わない。

 ただ、伊豆大島の鬼夜叉といえば一刀流の流祖である剣聖伊東一刀斎景久を指す。

 伊豆大島の生まれで、その幼名を弥五郎、別名を鬼夜叉と言った。

 一刀斎は謎の多い人物である。

 生没年には諸説あり、この時代も生きているという資料もあれば、さらに後の時代までいたという資料もある。

 一刀流という流名を自身が名乗ったこともない。

 その一刀斎から直伝された技が、轟天流であろう。

 剣を極めるにふさわしい寸分の歪みもない体を持つ夢見客人に、鬼夜叉こと伊藤一刀斎は歓喜したに違いない。編み出した技のすべてを授けることができると。

 ならばこそ、斬る理由も増した。

 将軍家指南役のもう一派は、小野派一刀流。

 この系統にある夢見客人の轟天流を破れば、柳生新陰流の剣名も上がり、その剣名を上げたのが刺客の自分とあれば、なおさら大きく誇れよう。


「この三池典太の錆としてくれよう――」


 丈之介は絶対の自信を込めて言い放った。

 客人は、その表情も構えも変える様子はない。


 ――それでいい、今から破ってくれるのだから。


 無残に刀を斬られ、あしらわれた丈之介は轟天流を破るために心血を注ぎ、間合いを捉えたのに、届かないという不可思議な構えの秘密を解いた。

 鎮守の森に何日も入り浸り、地に這いつくばって残された客人の足跡を探ったのだ。

 足運びは完璧な間隔で、精密そのもの。その歩法から丈之介は自身が間合いを外した理由を得た。

 湖月に構えながら、わずかに下がって間合いを開き、胴を薙ぎにいく前にさらに飛び退いていた。

 それが湖月の正体である。

 胴をがら空きに見せれば、必ず胴を薙いでくる。

 丈之介は、胴を薙いだのではなく胴を薙ぐように誘われていた。

 来るとわかっていれば、躱す拍子もあらかじめ決めておける。

 しかし、下がっては今度は相手を斬ることができない、そういう技なのだ。

 湖月とは、元々敵を斬るための技ではない。守りのために咄嗟に出された刀を斬る技――。

 つまりは、ただの虚仮威こけおどだ。

 無論、胴を開けて刃を誘う並ならぬ技量と、それに裏打ちされた絶対の自信がなければできるものではない。

 あらかじめ刀を断つことを目的した技とは驚嘆するものの、丈之介に恐れる必要はなかった。

 夢見客人は、望んで人を斬らぬという。

 超絶した剣技と天禀に恵まれながら、なんとも甘いものだと丈之介は思う。

 必ず斬る、その必殺の気迫を持たぬからこそ、こうして命を狙われ、何かを失う。

 先に飛び退いて間合いを外すというのなら、一歩ばかり余計に踏み出せばいいだけのこと。

 活人剣よりも殺人刀がまさる、この場において証明するのにふさわしい。


「ゆくぞ――」


 夜天の月はわずかに細く、乾からの風によって暗雲がかかる。

 水月の構えから大きく踏み出し、その胴を真横に薙いだ。


「ちぇえええええいっ!!」


 湖月の技のために、客人は後方に下がって一刀を振り下ろす。

 だが、その前に丈之介の刃が届く――。

 そのはずであったのだ。


「なっ……!?」


 下がらない。

 夢見客人は、そのまま踏み出した丈之介に鮮烈なる一刀を振り下ろしていた。


「轟天流、真月しんげつ――」


 水面みなもに映った月ではなく、真なる月。

 湖月は虚の技にして、この真月こそが実の技であったのだ。

 虚の月に間合いを惑わされた者を、今度は実の月が待ち受ける。

 下がって刀のみを断つのが湖月、不動の姿勢で迎え撃つのが真月、轟天流虚と実の技であった。

 静かに技の名を告げた客人が血振りすると、丈之介は肩口から血を噴いて倒れ、天を仰いだ。

 今度は、鎖帷子ごとその身を断たれている。

 紙一重で致命傷を避けたといえるが、刃の切っ先は肩と胸の筋に達している。立ち上がって剣を振るうこともできず、この傷では剣士としての再起はない。


「お、おのれぇぇぇ、轟天流……」

「所詮、拙者は湖面に浮かぶ月。命を賭して取るほどのものではなかったのだ」

「愚弄するか! こ、殺せ……!」

「言ったはずだ。望んで人を斬ったこともなく、おぬしを斬りたいとは思わぬ、とな。拙者が甘いのは、重々承知しておろう」


 冷たく、されど悲しく客人は言う。

 斎藤丈之介は、破れた。

 命を失うかどうかは、彼の生命力次第ではある。

 だが、肩口から大胸筋を断たれては、たとえ生きながらえようとも剣を振るうことはできない。

 なんという屈辱か。

 その身に敗北を刻まれ、刺客としても剣士としても死にながら生きながらえる。


「……殺せ、殺せぇぇぇぇぇぇっ!!」


 哀願するように殺せと叫ぶ丈之介に、客人は背を向ける。

 決着はついたと、振り返りもしない。

 視線は、すでに榊世槃に向けられていた。

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