一石自在
客人と瞳鬼は、甲州街道は大月宿の旅籠を夜明け前に立ち、追分け(分かれ道)の目印から富士の道へと進む。この道をずっと辿り、富士山麓の青木ヶ原樹海へと辿り着いた。
ちょうど日は昇ったところで、まだ朝靄が一帯に立ち込めている。
通常の富士詣ならば御師の先導に導かれ、登山道の吉田口から浅間神社にも向かうだろうが、ふたりは鬱蒼と茂る樹海の中にある富岳風穴を目指すことになる。
もう人目があるようなところではない。瞳鬼は、旅装から動きやすい忍び装束に着替えている。
樹海は、鳥の声が鋭く響く他は、何の気配しない静けさが包んでいる。
進んでいくたび、朝露に湿った土の匂い、葉の青い匂いが濃くなっていく。
客人は、一度空を見上げると迷いもせずに奥へと足を向けた。
「おい、大丈夫なのか? 富士の森は迷うと聞くぞ」
「心配いらん、案内がおる」
「……案内?」
瞳鬼は、客人が見上げた空に視線を移す。
その常人離れした視力を持つ左目が、その上空を旋回している一羽の鷹を捉えた。
「公家殿の式神だ、千鶴姫の居所まで連れて行ってくれよう」
「あの鷹がか。道中で何度か見たが」
「とはいえ、そう簡単には行かぬであろう。おぬしの目が頼りだ」
「いいだろう、借りは返す」
あえてやむなしという態度を取って、瞳鬼はその左目で樹海を見通した。
樹海は、富士山から流れ出た溶岩の上に樹木が密集する原生林地帯である。
風穴は、その中にあるという。
もし、逆卍党が拠点としているならば、見張りが潜んでいてもおかしくはない。
左目を大きく見開き、その先行きを探った。
「どうだ?」
「……十間先に鳴子の糸が張ってある」
鳴子とは、侵入者を知らせる道具だ。
糸に引っかかると、その振動でがらがらと音を鳴らす仕組みのものだ。
木々の葉が朝露を含んでいる中で、瞳鬼がわずかなきらめきがあるのに気がついたのだ。
「やはり、賊はこの先のようだな」
侵入者を察知する罠があるなら、やはり何者かが潜んでいることを物語っている。
その客人の判断に、瞳鬼は頷いて同意した。
「先に走って、鳴子を外しておく。夢見客人、お前は後からついてこい」
「承知した」
瞳鬼は、言うとまだ靄のかかった樹海内を先行した。
薄らいだ木漏れ陽が、光の柱となって並ぶ。
積もった葉や枯れ枝を踏んで音を立てぬよう、慎重に歩く。
感づいたとおり、細い絹糸がちょうど足元にかかるように張り巡らせてある。
なるべく振動を与えぬように糸を切れば、これを作動しないようにするのは難しくない。
「……終わったぞ、急げ」
糸を切り終わると、控える客人に合図を送る。
無言で頷き、後に続いてくる客人の足取りは、瞳鬼も感心するほどであった。
客人はかなりの使い手である、足運びが優れているのは当然といえば当然といえよう。
そのうえに忍びの足運びも心得ているようで、幼い頃は山野を駆け回ったとの出自を裏付けているようだった。
「風穴は近いはずだ。見張りはないのか」
「今のところは。気配がまるでない……」
さらに、瞳鬼が周囲の気配を読む。
その視力によって遠くを視ることを得意とするが、隠れ潜んだ気配を探すのは別の感覚を必要とする。
聴覚、嗅覚、あるいは触覚によって空気の流れを感じるという具合だ。
忍びによっては、心臓が脈打つ鼓動を聞き分けるともいう。
「未熟――」
忽然と、しゃがれた声が上から降ってくるように響いた。
瞳鬼、客人も咄嗟に見上げる。
頭上の枝に、老人が杖を抱いて結跏趺坐して瞑目していたのだ。
まるで雪のように白い蓬髪と髭を伸びるに任せた、仙人のような姿をしている。
それがかっと目を見開くと、ふわりと座ったまま落ちてくる。まるで重さがないかのようであった。
「な、何者!? あ――」
「瞳鬼、いかがした? む――」
気づいた途端、瞳鬼が膝をついた。
駆け寄ろうとした客人も、その異変によって足が止まった。
「心の臓と息を止めて潜んだ程度で、気配を読めぬとは」
その白髪の老人は、瞳鬼を見下ろして言う。
だが、顔すら上げることは事は
「か、身体が……」
瞳鬼は、膝だけではなく、さらに両手をついて踏ん張っている。
そうしなければ、押し潰されてしまうのだ。
「お初にお目にかかる。わしは逆卍党四天王のうち多聞天を預かっておる。人は、一石仙人と呼ぶ」
仙人といえば、五穀を断って不老不死の境地に至り、仙術を操るという常人を超越したである。
まさに、眼前の老人は不可思議な力を持っていた。
「では、これは翁の仙術か……!」
客人が問うた。動機と同じく、身体が思うように動かない、重い――。
まるで四肢に石の重りを乗せられたかのようであった。
「いかにも――」
老人、一石仙人は重々しく口を開いた。
「わしは天然自然の中でその理を学び、陰と陽の気脈の流れを悟るに至った。ものの重さを自在に操る術を体得したのじゃ」
物と物が引き合うのは、引力があるからだ。
地球上では、物質物体は地面に落ちる。その中心に引き寄せられる。この作用を重力という。
万有引力の概念は、この時代よりもう少しのちにアイザック・ニュートンが提唱する。
この一石仙人なる老人は。、その力の存在の真理に至り、操ることができるという。
あまりに荒唐無稽なことゆえに信じようもないが、現に瞳鬼と夢見客人はその言葉を裏付けるように身体が重くなったと感じ、身動きを封じられているのだ。
「まずは、おぬしらに二〇貫を乗せてみたが、まだまだかな?」
一貫は三.七五キロとされる。二〇貫ならば七六キロ。
それがのしかかってくるとなると、動けなくなるのも無理はない。
「ま、待て……!」
「いいや、待たぬ。ほれ、おぬしにはもう二〇貫乗せて進ぜよう」
「うわっ――!?」
瞳鬼に向かって杖を向けると、さらに身体が沈む。
一石仙人の言葉が真実だとすれば、瞳鬼には実に四〇貫(一一二.五キロ)の重さがかかっていることになる。
「それほどの術が使える仙人が、何故ゆえ逆卍党に組する?」
「何故と問うか。俗世などどうでもよいとも思ったが、徳川の世とは無為自然に反するからよ。人に身分を定めて枷にはめ、雁字搦めの窮屈極まりない世となろう」
「泰平の世を覆し、徳川に逆らうというか」
「左様、斯様な横暴には路傍の一石ですら刃向かう道理があろう」
徳川幕府の身分制度については、ここで解説するまでもないであろう。
秩序を重んじる朱子学が儒学の正統とされて幕藩体制を強固にするために採用され、武家諸法度の寛永令では、これに基づいて心がけ以外にも、細く装束についての取り決めまであった。
百姓もまた、年貢の取り立てのために身分の固定化が進んでいくことになる。
「そのために、盗賊となって姫ひとりを連れ去ったとは呆れたものだ……」
朱鞘を杖として、客人はなんとか立ち上がる。
肩の辺りに重さを感じたまま、二尺三寸のお世継ぎ殺し村正を抜き払った。
が、その途端である―――。
意思に反して構えた刀の重みが増し、切っ先が震えて下がっていく。
「刃の先に、一〇貫乗せたわ」
「むっ、くっ……!?」
「高きから低きに落ちる流れが、木っ端や葉を巻き込むのはやむなしよ」
一石仙人は、そのように言い切った。
千鶴を窮地から救わんとする夢見客人にとって、到底許せる物言いではない。
だが、これでは剣を封じられたも同然である。
日本刀は、斬る動作に効率よく力が乗るように切っ先から下がったところが重心となるよう整えてある。
それを崩されれば、まともに構えることもできなくなってしまう。
「さて、夢見客人よ。わしを斬れるかな」
重さを操るという驚嘆すべき仙術に、どう相対するか――。
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