ゆみりと小説 その4
カラフルな椅子に、窓を通して陽光がさんさんと降り注いでいる。図書館なりに、子どもたちへ配慮した結果なのだろう。児童図書コーナーには二組の親子連れがいるだけで、他に来館者の姿は見えなかった。
コーナーに到着すると、いきなりなつみが駆けだしてある本棚の前に向かった。ゆみりも早歩きで追いつき、走っちゃだめですよ、となつみの背中に向けて言った。ごめん、ごめんと前を向いたまま答え、なつみは一冊の絵本を手に取った。
それは横長の長方形をしており、表紙の中央には、二本足で立った、白い猫のようなキャラクターが描かれていた。
「これ、小さいころ好きだったんだ。なんか懐かしい」
「なんだ、ちゃんと本、読んだことあるんじゃないですか」
さっきは、ろくに本を読んだことがないと言っていたはずだ。なつみは顔の前で手を振ってそれを否定した。
「お母さんに読んでもらってただけだから。自分では全然読んでないもの」
「……読み聞かされたものだって、立派な読書だと思いますよ」
人の声を通すと、物語は別の様相を呈し始める。文学と演劇の差のようなものだ。だから、そこに語り部の巧い下手は関係がない。文字で記された筋書きを音声に変換することに意味があるのだ。
ゆみりがそれを知ったのは、一年生の時だった。ゆみりの小学校では、毎週水曜日の朝にボランティアによる絵本の読み聞かせが催されていた。他人の口を通じて物語が進行していくのはとても新鮮だった。
ゆみりは母親に読み聞かせをしてもらった記憶がない。ひとえにそれは貧乏が原因であった。幼いころに父親は他界し、ゆみりには母親しかいない。独り身で家計を支えるのは難しく、母はいつも働きづめだった。帰宅するのは幼いゆみりが就寝した後だった。読み聞かせをしてもらう時間なんて取れなかった。
さらにそれに加え、ゆみりの家には本と呼べる類のものが一切なかった。ましてや小説なんかを購入する余裕はゆみりの家にはなかったのである。
それゆえ、幼稚園のころからゆみりは図書館に入り浸るようになった。周りの子と遊ぶより、本を読んでいるときのほうがよっぽど気が落ち着いた。物語の登場人物たちこそがゆみりの友達だったのだ。
「そうやって言われると、なんかうれしいなぁ」
えへへ、となつみは笑った。
「じゃあ、これで感想文書いちゃおっかな」
なつみは、そそくさと近くにあるカウンターに足を向けた。ゆみりは袖を引いて、それを止めた。
「待ってください。それは絵本じゃないですか。やめた方がいいです」
ゆみりの忠告を聞いて、なつみが憮然とした表情になる。
「今、立派な読書だって言ってくれたじゃない!」
「それとこれとは話が違います!」
歓談中だった親子連れがびくりとこちらを向いた。またも大きな声を出してしまった。どうもこの読書嫌いの少女とともにいると、普段の調子が狂う。一人であれば、発声することもないのに。
「冗談だよ、冗談。あたしだってそのくらいのことはわかってるよ」
「……冗談には見えませんでしたけど。あなたならやりかねないように思います」
「ひどいなぁ。君に本探しを依頼した時点でわかってくれてもいいじゃない」
なつみの言うとおりだった。この子は読書が苦手でも読めて、かつ年齢を考慮しても恥ずかしくない作品を見つけたい、とゆみりに告げてきたのであった。冷静に考えれば、絵本などを選択するはずないではないか。ゆみりは少し荒く鼻から息を吐いた。
泣き笑いのような表情を浮かべて、なつみは白猫の絵本を元に戻し、別の本棚へと向かう。ゆみりはのろのろとそれについて行った。
なつみはすたすたと歩きながら、横目遣いで書架に並ぶ本の背表紙を眺めていく。背の高いなつみの足取りは速く、小柄なゆみりはもう少しで駆けだしてしまいそうになった。
あっという間に児童書コーナーを一周してしまった。その間、なつみが足を止めることは一度もなかった。コーナーの入口に戻ってきたところで、初めてなつみは立ち止まり、せっせと後を追ってきたゆみりを振り返った。
「全然、見つからないねぇ」
まるで一仕事終えてきたみたいな口調だった。参った、とでも言わんばかりである。
「当たり前ですよ。そんないい加減な見方してたら」
微かに上がった息を整えて、ゆみりは言った。むっと口を引き結んで、なつみはゆみりの視線の高さに合わせた。
「いい加減とは何さ。これでもあたしだって一生懸命探してたんだよ?」
「だったら、もっとゆっくり歩くはずですよ。本当は探す気がないように後ろからは見えました」
「そんなことないよ!」
なつみは胸の前で両のこぶしを握った。
「背表紙に書いてある題名見て、面白そうだったら手に取ろうと思ってたの。……でも、結局どれにも興味わかなかったなぁ」
はぁ、とため息をついて、なつみはだらりと脱力した。
「……題名だけで面白さを感じられる作品なんて、そうは巡り合えないですよ」
そうは言っても、作品の魅力を実感できるのはいつの時点なのだろう。題名を目にした時でなければ、表紙を確認した時だろうか。それもなんだか違う気がする。
あらすじを読んで魅力を感じ、実際読み始めてみると期待はずれな結果であることもある。反対に適当に手にした作品が予想外に良かったりもする。ならば、読み進めている最中ということになるのだろうか。けれど、読後に印象が良くも悪くも変わることもたまにある。
結局答えは見つかりそうになかった。
だから、ゆみりは言葉の先をこう続けた。
「この先自分が信じてあげられそうな作品を選んでみてください」
きっと物語の魅力は観測と表裏一体なのだ。読み始める以前の時間においては、作品の価値は無に等しい。けれど、一度読者の視線を浴びれば、無尽蔵にその魅力を放出し始める。
やってみるまで分からないのだ。なら、直感的に期待を寄せた作品が最もその人にふさわしいだろう。
「信じてあげる、か」
なつみは改めてコーナーに首を巡らせ、ある一点で止まった。
「ゆみりちゃん、信じる、って何をどう信じても構わないの?」
ゆみりがなつみの視線の先に目を向けると、一冊の児童小説が表紙を外に向けた状態で配架されていた。
表紙の上半分にはタイトルが記され、下半分には大きな瞳をした、茶髪の少女のイラストが描かれていた。一見すると、それは漫画本のようであるが、きちんと活字の形式をとった小説であるとゆみりは知っている。
ある種の子供にとって、文字で記された物語は近づきがたい領域なのだそうだ。その気持ちをゆみりはほとんどくみ取れないが、事実、そのようである。なつみのような少女がその証拠だ。
けれど、どのような子どもにも平等に読書を勧めたがる大人たちも存在する。彼らが読書嫌いの子供を本の世界におびき寄せるために取った策が、漫画本まがいのポップな表紙絵である。
苦肉の策なんだろう、と思う。子供の読書推進派の人間がああいう絵を好むとは思えない。やたらに読書を勧めるからには、文章の中身に何らかの価値を見出しているのだろう。彼らにとって重要なのは、装丁などと言った外面でなく、内包された世界なのである。
ゆみりも漫画じみた表紙の小説は好きでなかった。けれど、その理由は大人たちとは決定的に異なっていた。
漫画じみた絵自体は、ゆみりには好印象だった。書物の本質は中身の文章であることは認めるが、装丁に凝ってみたところでそれを損なうことは断じてない。それなら、物語の主人公を可愛らしくキャラクタライズした姿を、表紙に描いてみるのも一興だと思う。
けれど、児童小説の表紙に描かれた少女キャラクターには、一種の圧力のようなものを感じてしまう。これら一般の書物を出版するのもまた、大人たちなのだ。
読書嫌いの子供たちと、読書を推進する大人たち。この両者は鶏と卵の関係であるように思う。下手に強制するから、みな逃げていくのだ。本など無理に読むものではない。
ゆみりはそう考えていた。だけど――。
「あの女の子のキャラクターの本ならあたしにも読み続けられそうな気がする。これだってある意味、信じるってことだよね」
小走りしながら、ちらりとゆみりを振り向いてなつみが言った。
こうして、自分ではろくに本も選べない少女が、自ら書物に足を向けている。
これを、大人の策略にかかったとみるか、新しい世界を切り開いたとみるのか。ゆみりにはわからなかった。恐らく、答えはなつみ自身が作り出すことだ。
作品の価値が観測と同時に生じるものであるなら、読者が得る意義もまた、その時に初めて実態を持つのだろうからだ。
なつみは少女絵の児童小説を手にして、ゆみりのところへ戻ってきた。目線をゆみりに合わせ、にっこりとした。満面の笑みだった。
「ありがとう、ゆみりちゃん。おかげであたしにも本、見つかったよ」
真っすぐに注がれるなつみの視線から、思わずゆみりは目をそらした。こんな風にじっと見つめられた経験は、ゆみりの記憶にない。
小説の世界に没入すれば、人物の思考や生き様は文字通り手に取るように把握できる。けれど、そこに自分の身体は介在しえない。物語の登場人物と口をきいたり、見つめ合ったりすることなどはあり得ないのだ。
だから、今自分に向けられている笑顔は極めて異質なものに感じられる。けれど、それはあまり居心地の悪い物でもないような気がした。多分そこに感謝の意が含まれているからだろう、とゆみりは思う。ありがたがられて不愉快に感じる必要もないだろう。
「……私は関係ないですよ。それはあなた自身が見つけ出した作品なんですから」
けれど、次に発した台詞はなんだかすねたような口ぶりになってしまった。ゆみりは心の中で首をかしげた。やはりこの少女とともにいると普段の調子が狂う。いつもなら、もっとストレートに自分の気持ちを表現できる自信があるのに。
「そんな謙遜しないの。ゆみりちゃんが認めなくても、あたしの中ではもうそういうことになってるから」
ゆみりの肩を軽くぽんっ、と叩いてなつみは一階へ下る階段の方に向かって歩き出した。その姿をゆみりは目で追った。
「改めて今日はありがとう。ごめんね、読書の邪魔しちゃって。でもすっごく助かったよ」
そう言うと、なつみはまたさっきと同じように笑ってみせた。黒々としたなつみの瞳にはっきりとゆみりの姿が映り込んでいた。
なつみが図書館を後にしたのち、ゆみりは再び自らの聖域に帰還していた。これで心置きなく本を読めるはずだ。
読みかけになっていた少女と魔女の小説を開こうとして、ゆみりはふとその手を休めた。
なつみのことがなんとなく思い返されたのだ。
――失礼な子だった。
唐突に読書の邪魔をしてきて、初対面の相手をちんまり呼ばわりときたもんだ。出会って数分の人間に下の名で呼ばれることにも抵抗感があった。
結局クラスメイトの児童と同じなような気がした。
たまたま同い年で、たまたま近所に居住していたというだけの理由で、子供は狭苦しい教室に押し込められる。けれど、それは仕方がないとゆみりも割り切っている。児童一人一人に部屋をあてがっていたら、土地がどんなにあっても足りなくなるだろう。
けれど、たったそれだけの関係しかない同室の児童なんかを「友達」と言う言葉で指し示すことに、ゆみりは一種の嫌悪感を抱いていた。
班の「友達」
クラスの「友達」
学校の「友達」
同じ空間を共有しさえすれば、それは友達なのだろうか。それなら、偶然エレベータで乗り合わせただけの人もお友達?
くすくすと自嘲にも似た笑いを漏らして、ゆみりは首を横に振る。
学校内で最初に「友達」という言葉を使いだすのは教員である。入学して間もない一年生を前に、「皆さん、クラスの『友達』と仲良くしましょうね」などとさも当然のように言い放つ。
大人が子供を管理するのは、ある程度仕方のないことだと思う。けれど、付き合う人間を選ぶ権利くらいは残しておいてほしい、とゆみりは願う。
そして、教員の言葉を真に受けた児童たちは誰彼構わず口をきくようになる。それもゆみりは嫌だった。面識のない人に馴れ馴れしく接されるのは少し悔しくて、少し怖い。
六年にもなれば、半分くらいの児童は「友達」と言っても一概でないことにちゃんと気が付ける。そういう子達はもう自分自身の決めた友達としかほとんど話をしなくなる。
だが、もう半分は未だに「友達」感覚が抜けきっていない。相手の事情も考えず好き勝手なことばかり言う。
ゆみりは自分が少し歪んでいるのだと自認している。けれど、性格なんて変えようと思って変えられるものでもなかった。偏屈なゆみりに本当の意味での友達はいない。だから、学校で誰かと話す機会があっても、その相手は礼儀知らずのおこちゃまばかりだ。
なつみは、そのおこちゃまと同類な気がした。
でも、あくまで「気がした」、だけであった。なぜだか、そうだと断言することがゆみりにはできなかった。
だが、いずれにしろもう会うことはないだろう。あの子は無事に読むべき本を見つけられたのだ。普段は本になんて触れてもいないみたいだったから、こんな場所にもう用はないだろう。
ゆみりはそう思っていた。
だけど――。
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