ゆみりと小説 その5

「お隣いい? ゆみりちゃん」

 予想に反して、なつみは翌日もやってきた。身体をかがめ、ゆみりの顔を覗き込むようにしてくる。その圧に耐えかねて、ゆみりはしぶしぶ顔を上げた。

「……また来たんですか。もうここに用はないでしょうに」

「いやー、それがさ――」

 なつみは頭を掻いて、恥ずかしそうに笑ってみせた。まさか、借りた本を失くしたりなんかしていないだろうか。その時は弁償するほかない。昨日みたいにアシストすることは不可能だ。

 けれど、それはゆみりの杞憂のようだった。なつみは昨日借りた少女イラストの児童小説をきちんと右手に持っていた。

「……どうしたんですか?」

 じれったそうにゆみりは訊いた。言いたいことがあるなら早く言ってほしい。読みかけの小説が、今良い場面なのである。

「早くその手に持ってる本を読んで、宿題を済ませればいいじゃないですか」

「もちろん、そのつもりだよー」

 そう言って、なつみは極めて自然な動作で隣の席に座った。またしてもあっけなくゆみりの聖域は破られてしまった。

「家で読んでるとなんかすぐに飽きてきちゃって……。つくづくあたしって読書向いてないんだね」

「平時の読書に向き不向きはないです。ただ文字追って、文章を読み進めていけばいいのですから。難しく考える必要はないです。読解してやろうなんて考えないで結構ですからね」

「読解なんてそんな派手そうなことこれっぽっちも考えてないよ。そのただ文字を追うだけでもあたしには一苦労。たくさん読んだつもりでもあんまりストーリー進まないしさ」

「話の展開ばかりに執着すると、小説の面白さは半減してしまうように思います。もう少しゆったりとした気持ちを持つとよいです。例えば、主人公の女の子の性格や動作の一つ一つに着目してみるのはどうです? 他人の頭の中を覗けるのは小説の醍醐味の一つです。絵画や音楽には到底真似できません。表紙のイラストのおかげで視覚的なイメージも既に持てていますから、感情移入もしやすいかもしれませんよ」

 ゆみりが小説を読む姿勢に関する持論を述べている間、なつみは放心したようにゆみりの顔を見つめていた。

「あの、聞いてますか?」

 そんななつみを、ゆみりはきっ、と睨んだ。音声化された言葉も、誰かに聞き取ってもらえなければただの雑音だ。ゆみりは自分の声がノイズになり下がってしまうことが少し寂しかった。

 ゆみりの呼びかけで、なつみは我を取り戻したようで、

「大丈夫だよ! ちゃんと聞いてるよ!」と言った。

「……本当ですか?」

「うん。ただ、ゆみりちゃんって本当に物語が好きなんだなぁって思って。本のことになるとすごく饒舌になるよね」

 とっさにゆみりは視線を手元の本に移した。なんだか急になつみを見ているのがこっぱずかしくなったのだ。ぺらぺらと軽口を叩いて、ちょっとみっともなかったかもしれない。

「普段からそうすればいいのに。そしたらもっと可愛く見えるよ!」

「……余計なお世話です」

 うつむいたまま、ゆみりはぼそりとそう言った。

「……照れてる?」

「照れてなんかないです!」

 ムキになって声を荒げると、昨日と同じ司書の男性がこちらをぎろりと睨みつけてきた。

「どうしてあなたは私なんかにかまってくるんです? 本に飽きてしまうなら場所を変えてみる。それは良い考えかもしれませんが、何も私の隣でなくてもいいではないですか」

「あたし、誰かに言われないと勉強しないタイプなんだ」

 なつみは唐突にそんなことを言い出した。

「それが何です?」ゆみりは訊く。

「それで、机に向かってもすぐに寝ちゃうの。誰かの眼がないとね」

「そうですか」

「読書も同じ。だから、ゆみりちゃんの眼を貸して」

 なつみは真っすぐにゆみりの眼を覗いてきた。本心からの言葉なのかどうかは、その黒い瞳からは知りえなかった。

「なんでそうなるんですか。それならあっちでも事足りるじゃないですか」

 ゆみりは椅子と長机が規則正しく並べられた閲覧スペースを指さした。昨日よりも客の数は多かった。各机に一人以上は付いていて、相席状態になっている場所もあった。

「向かい合わせに相席すればいいじゃないですか。ばっちり見張ってもらえますよ」

「分かってないなぁ、ゆみりちゃん――」

 なつみは肩をすくめてみせた。

「――無関係な人の眼じゃ意味ないの。たとえあたしが寝ちゃったって、誰も起こしに来るわけないでしょ」

「私だって無関係です。あなたが寝ても絶対起こしませんから」

 ゆみりは勢いよく、なつみから視線をそらした。

「……起こしてくれないの?」

 縋るような視線をなつみは向ける。ゆみりはそれを一切無視した。

「ふうん、そこまで言うかー」

 なつみは何事かを企むようににやりと笑った。嫌な予感がした。

 なぜこの子は自分を放っておいてくれないのだろう。ゆみりに友達はいないが、従来人づきあいも苦手なのだ。むやみに話しかけられるのは苦痛だった。

 なつみの意図が分からない。向こうだって自分なんかと一緒にいても、退屈なだけだろうに。

「それじゃ、あたしとゲームしよう。ゆみりちゃん」

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