ゆみりと小説 その6
唐突な申し出に、ゆみりは思わず首を傾げた。
「ゲーム? しませんよ、そんなこと。私は早くこれの続きが読みたいんですから」
ゆみりは厚いハードカバーの小説を、なつみの鼻先に突きつけた。昨日も読んでいた少女と魔法使いの物語である。
けれど、なつみはひるんでくれなかった。本が陰になって、なつみの表情は把握できなかったが、多分笑っているんだろう、とゆみりは思った。昨日見せたような満面の笑みで。
「大丈夫。読みながらでもできるよ。邪魔もしない」
本の向こうでなつみが言った。心なしか声が弾んでいる気がした。対照的にゆみりの気持ちは下降していた。
それに、となつみが付け加える。
「ゆみりちゃんが勝ったら、何でも言うこと聞いてあげるよ――」
ゆみりはそっと本を下ろした。なつみの顔は嘘を吐いているようには見えなかった。どうやら本気のようである。
それなら。これ以上自分にかかわらないように命令することもできる。そんな目論見が一瞬ゆみりの脳裏をよぎった。だけど――。
「――そのかわり、負けたらあたしのお願いちゃんと聞いてね」
言葉の続きを聞いて、一気にゆみりの気概はそがれてしまった。
「……狡いです。どうせあなたが有利になるように画策しているのでしょう?」
「そんなせこいことしないよ! もう、ゆみりちゃんはせっかちだな。まだルールも説明してないのに」
「それじゃ、手短にお願いします」
ふてくされたようにゆみりは言った。自分がせっかちなのではなく、なつみが勿体つけているだけだと思った。非難される筋合いはない。
「今からあたしがここで昨日借りた本を読むから、その途中で寝てしまったあたしをゆみりちゃんが起こしたらあたしの勝ち。ほったらかしにできたらゆみりちゃんの勝ち。どう? わかりやすいでしょ」
「……つまり一切あなたに構わなければ、勝ちは保証されているということですね」
「そのとおり!」
それなら簡単だ。誰が好き好んで他人と関わり合おうとなんてするだろう。ゆみりが負けるはずがない。
――今日一日の我慢だ。さっさと勝利して、この子を遠ざけてしまえばいいのだ。勝ちは決まったも同然だ。どうしてなつみはこんなゲームを持ちかけてきたのか。ゆみりには全く理解できなかった。
「……いいですよ。受けて立ちます。……約束、ちゃんと守ってくれるんですよね?」
「あたしに二言はないよ!」
「その言葉信じますよ。……それじゃ、あなたは精々、宿題頑張ってください。私は続きを読んでますから」
そう言うなり、ゆみりはすぐさま本を開き物語の世界へ飛び込んだ。現状のしがらみを抜けて、解放の自由を謳歌するのだ。
物語は、主人公の少女が理想の自分に変身できるように、魔女に頼み込む場面から再開していた。けれど、魔女はすぐに首を縦には降らなかった。それには一つ代償があるというのだ。
現状の自分を捨て去ること。それが条件だった。
もちろん、一度変えたものは元に戻らない。
だが、これは至極まっとうな代価かもしれなかった。自己が単一の物であるならば、理想像への変身は現在の自己像との決別である。だから、この条件は魔女が提起したというより、自然の摂理だとも言えた。
けれど、主人公の少女はためらいを覚える。確かに現在の境遇にも、自身の素質にも、自身の性格にも、何一つ満足していない。だけど、そのすべてをいっぺんに捨て去るにはいささか勇気が足りなかった。願いを叶えた先にある自分は本当に自分だと断言できるのか。少女は一抹の不安を覚えた。
少女の不安を察したのか、魔女は新しい提案をした。
魔女は二日間の猶予をくれるというのだった。だけど、二日なんて少女には極めて短い期間であった。もう少し待ってくれないか、と少女は懇願するが、旅の身である魔女はあまり長く一所に滞在する気はないという。
そこで、少女は一旦、貧しい自分の家に帰り、自分の生活を見つめ直すことにしたのだった。
理想の自分になるには今の自分を捨て去らなければならない。もし少女の立場なら、どう行動するだろうかとゆみりは少し考えてみる。
物語の少女は現状の自分を捨てることに抵抗を覚えていたが、ゆみりは対照的な考えを持っていた。
小説の世界に身を浸すゆみりは、現実の自分を消失させる感覚を常に持っている。実存のしがらみを焼き払い、理想通りになれるなら一石二鳥だとさえ思えた。一度変えたものは元に戻らないそうだが、それでも別にかまわないとゆみりは思う。ゆみりは――。
「ぐ~……」
突然の雑音にゆみりの意識は現実に引き戻された。隣席をねめつけると、本を枕にしてなつみがいびきをかいていた。憎らしいほどに幸せそうな寝顔である。
「ぐ~……」
頭の下敷きとなった本にゆみりは手を伸ばした。達磨落としの要領で引き抜いてやろうと思ったのだ。こんな間近で高いびきをかかれては、物語の世界に集中できない。
――誰も起こしに来るわけないでしょ。
先ほどのなつみの台詞がよみがえる。よく言ったものだ。これだけ喧しくいびきを掻けば、誰だって起こしに来るだろう。
本に手を掛けて、思いっきり引き抜いてやろうとしたとき再び、なつみの言葉が脳裏をよぎった。
――起こしてくれないの?
ゆみりは我に返って手を引っ込めた。二人はゲームの最中。起こしてはいけないのだった。その瞬間、ゆみりの負けが確定する。
「ぐ~……」
手出しのできない悔しさに歯噛みするゆみりを馬鹿にするように、なつみはいびきをかき続けている。迷惑なことこの上ないが、起こせない以上放置するしかなかった。
ゆみりは長机の方に視線を遣った。相手をどかせないなら、自分をどかせばいい。この場所から身を引けばよいのだ。
ただし向こうの席へ行けば、全く面識のない他人と向かい合わせになる。ゆみりは相席が嫌いだ。
迷った挙句、ゆみりはその場にとどまることにした。少なくともなつみは初対面ではない。不本意とはいえ、昨日は共に行動もしている。赤の他人よりはまだましに思えた。
ただし、本の世界に集中できないことに変わりはなかったから、別の作品でこの時間をやり過ごすことにした。少女と魔女の物語はゆみりの好みであったため、じっくりと味わいたかったのだ。
ゆみりは読みかけの本を机に置いて席を立った。半年くらい前に一度読んだ短編集をもう一度見てみようかと思う。既読の本であれば中身を知る分、あまり気を張る必要はない。さして集中力もいらないだろう。
お目当ての短編集はすぐに見つかった。黄色い背表紙の文庫本を手に取って、ゆみりは席に戻る。
なつみは未だに夢の中だった。寝相が悪いのか、机からずり落ちそうになっている。ゆみりはなつみを起こさぬように、そろそろと席に座った。
本を開く前に、ゆみりはもう一度隣のなつみを見た。だらしなく腕が下がり、今にも地面にくずおれてしまいそうだった。
勝手に倒れた場合は自業自得のはずだ。それで目覚めてもゆみりの知ったことではない。ただの自滅である。ゆみりは淡々と本を開く。これで勝ちのはずだ。
突如、なつみの身体が視界の端から消えた。ずり落ちたのだ。
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