ゆみりとなつみ その6

。腕時計に目をやる。時計の針は十二時を指しているように見えた。

なつみは間もなくやってくるだろう。ゆみりは当然のようにそう思った。手元の本を開いて、その時を待った。

唐突に声をかけられた。

「お隣いいですか?」

 聞き覚えのない声だった。野太く、武骨な声だった。でも、それは明らかに女性のものであった。

 なつみの席を奪われるわけにはいかない。ゆみりは渾身の力を込めて声の主をにらみつけた。

 ――視線の先には、なつみがいた。ゆみりと目が合うなり、表情が険しくなった。

「お隣、いいですか」

 武骨な声が再び聞こえた。露骨に不機嫌そうな声音だった。その声は紛れもなくなつみの口から発せられていた。そうである以上、これはなつみがしゃべっているのだ。でも、ゆみりの知ってるなつみの声とは似ても似つかなかった。なつみの声は容姿に似合わず、軽やかで子供らしい声だったはずだ。

呆然と見つめるゆみりを、なつみは不快そうな目つきで睨み返す。まるで赤の他人に戻ってしまったかのようである。

「……あなた、誰ですか?」

 ゆみりはやっとのことでそう言った。すらりと伸びた長身。頭頂から垂れる一房の髪。女の姿かたちはどこから見てもなつみそのものだった。

だけど、なつみの声はこんなに醜くない。なにより、なつみがゆみりを知らないはずがないではないか。

この女はなつみの姿をした別人だ。そうに違いない。

「何なの、あんた、その態度は?」

 女がいきなり怒鳴りつけてきた。ここがどこかもお構いなしだ。あまりの剣幕にゆみりは縮み上がった。

「隣に座るくらい別にいいでしょ? なんでそんな露骨に嫌悪されなきゃならないのよ!」

 女はゆみりにつかみかかって、大きく揺さぶってきた。その間も罵詈雑言は止まらない。ゆみりは何が何だか分からなくなって、ひたすらに泣いた。こんな乱暴者がなつみのはずがない。朦朧とする意識でゆみりはそう思った。



 ゆみりは自分の膝の上で目を覚ました。いつの間にか眠ってしまったらしい。殺風景な部屋に無機質な扇風機の音だけが聞こえている。お母さんはまだ帰ってきていなかった。

たった今見てきた光景はただの夢だったのだ。ゆみりはほっとして、自分の頬を伝う涙に気付いた。眠りながら泣いていたらしい。

 思い返してみれば、おかしな状況であった。現実感などまるでなかった。人間の声が一夜であんなにも激変することなどないだろう。知人の皮を被った別人などありえない。それに――なつみとは何度も会っているのだ。あの子がゆみりを忘れてしまうなんて思えなかった。

 夢の世界の住民は、自らが夢にすぎないと知ることはない。ついさっきまでゆみりもあれは現実なのだと思い込んでいたのだ。馬鹿馬鹿しい話である。

 でも、部分的には真実味のある夢であった。なつみが現れるまでの経緯は、あの子と初めて会った日の出来事によく似ていたような気がする。読書に没頭するゆみりになつみが突然声をかけ、それをゆみりが睨み返す。夢の中のなつみはそれに対し怒りを示したが、現実のなつみは――確か、おびえたような記憶がある。そして訳の分からないことを口走ったような気がする。

 ――でも。

 ゆみりは思う。夢の中のなつみの姿こそが、あの子の本心だったのではないだろうか。敵愾心のこもった視線を向けられ、気持ちがいい者などいない。睨まれたなつみはひょうきんにふるまってみせていたけれど、本当は耐え難い怒りに駆られていたのではないだろうか。

 なつみの抱いた負の感情に、ゆみりは気づいていたのかもしれない。だけど、その時のゆみりは一刻も早くなつみを自分から遠ざけたかった。物語に没入するために。――自分の世界に閉じこもるために。だから、無意識に露悪なふるまいをしてしまっていたのかもしれない。最初からなつみはゆみりのことなんか嫌いだったのかもしれない。

 でも。もしそうなら、どうしてなつみは次の日も、また次の日もゆみりの元へやってきたのだろう。なつみの目的は宿題を片付けることである。自宅では集中できないと言っていたが、そんなものは嫌悪する相手の元へ赴く理由にはならない。だったら、なつみはゆみりのふるまいに特に怒りは抱いていなかったのだろうか。

 でも、店でクラスメートたちに取った態度だって、初対面のなつみに見せたものと同質であった。初めに怒りを覚えなかったのなら、あの時だけ感情を荒げるのも妙な気がする。

 なつみの真意が分からなかった。ゆみりは鞄から覗く物語に目を遣った。小説であれば、人物の気持ちなどは大概文章に記されているというのに。現実となるとちっともくみ取ることができなかった。

 ――いつか本当に一人ぼっちになっちゃうよ。

 なつみは、そう言っていた。痛い言葉だった。でも、今だってゆみりは一人ぼっちだ。実際、ゆみりはそう言い返した。

 発言が真意とも限らない。文面通りに受け取れば、人づきあいの下手なゆみりへの忠告のようにも捉えられるかもしれない。でも、感情に任せて適当なことを口走っただけかもしれなかった。

 なつみはあの短時間でクラスメートたちと心を通わせてしまったのかもしれない。無愛想なゆみりとさえ付き合えたなつみのことだ。それも十分に可能な気がしてきてしまう。なつみはあの子たちの肩を持っているのかもしれない。ゆみりを敵視したのかもしれない。

 ――なつみの言葉は嘘かもしれない。

 ゆみりはそう思って、はっと気が付いた。

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