本から始まる夏休み

茅田真尋

ゆみりと小説 その1

 物語は一つの世界である。だから、書物を手にするとき、人は世界を丸ごと一つ手中に収めていると言ってもよい。そこでは、現実世界のあらゆる楔から解き放たれ、読者は仮初ながらも自由を与えられる。

 物語の筋書きはとうの昔に規定されているのだから、小説の世界なんて不自由なことに変わりがないと結論づける者もいるかもしれない。だけど、そう考えられるのは一部の強い人間だけだ。

 自転車を走らせて、門脇ゆみりはそんなことを考えていた。

 強者と弱者では、自由の捉え方がそもそも違うのだ。

 強者にとっての自由とは意思の遂行である。理想に到達できる権利のことだ。

 だけど、弱者にとっての自由とは解放である。目の前の現実から悪い要素が取り除かれること。つまり、マイナスをゼロに戻せれば満足なのだ。むしろ、弱者は理想を追求する気力なんて持ち合わせていない。

 だから、理想に到達する権利なんて弱者には荷が重い。理想を思い描くのは案外難しいのだ。だから、不都合でない程度に束縛されているほうが弱者は気楽である。小説がもたらす自由は弱者の自由なのである。

 だから、自らを平凡だと自認するゆみりは、今日も物語の世界へ遊びに行く。現実の枷から逃れ、空想世界の檻へ飛び込むのだ。

 遠くに大きな煉瓦造りの建物が見えてきた。あれがゆみりの目的地だ。

 赤い煉瓦の壁は所々蔓草が這っており、一見すると廃墟に見えなくもない。だけど、それはれっきとした図書館なのだった。

 夏休みになると、ゆみりは毎日隣町から自転車を飛ばしてここへやって来る。それは小学校六年間を通じて廃れなかったゆみりの日課だった。

 わざわざ隣町まで出向くのには理由がある。それはゆみりの住む街に図書館が全くないだとか、あの赤煉瓦の図書館がお気に入りだとか、そういったことではない。

 ゆみりは同じ小学校に通う児童に出くわしたくないのだ。

 ゆみりは人間嫌いである。なぜなのか、はっきりとは自分も分かっていない。単に虫が好かないのである。休み時間になると沸き起こる姦しい歓声も、妙に馴れ馴れしい粘度の高い笑顔もゆみりには煩わしい。

 たぶん、読書の妨げになるからだとゆみりは思っている。喧しい笑い声には集中力を削がれるし、つまらない話題を向けてくる輩にいたっては、物語の流れを分断してしまう。

 自分のペースを乱されるのが、ゆみりは一番嫌いだった。要するにわがままなのである。その性格は今や、口調にも表れるようになってしまっていた。だが、それでもゆみりは構わないと思っていた。

 ゆみりに友達はいないのだ。赤の他人にどう思われようと知ったことではない。

 でも、ゆみりだって友達が要らないとは思っていない。物語を紐解けば、仲間のありがたみくらいは何となく理解できる。だけど、友達になりたいと思えるような子は、六年間を通じて一人も見つからなかった。虚構と違って、現実はそう思い通りにはならない。

 ――結局、自分は生来の人間嫌いなのだ。そうゆみりは結論づけている。

 建物の裏手の駐輪場に自転車を止め、ゆみりは正面玄関へ向かった。建物の景観に似合わず、入口は自動ドアになっている。それも透明のガラス張りだ。

 建物自体は古いそうだが、中は何度も改装しているそうだった。だから、外装と内装では、醸し出す雰囲気に大きな隔たりがあるのだ。

 一階は所謂エントランスホールであり、図書館は二階からであった。入口付近に設けられた階段を上って、ゆみりは足早に二階へ向かう。

 途中の踊り場から、一階の多目的スペースが見下ろせた。透明なガラスが張り巡らされた長方形の空間である。椅子やテーブルがいくつか置いてあって、ちょっとした休憩所みたいになっている。無論、ゆみりは使ったことがない。一人で赴いたところで、やることもないからだ。

 階段を上り切ると、道はT字に分岐している。図書館全体は二棟に分離されているのだ。ゆみりはいつも左の棟へ進む。そこは、ゆみりの好きな小説の類が大量に配架されたエリアであった。

 館内に入ると、当然ながら無数の書架が縦横無尽に並んでいる。ゆみりは適当な本を引き出し、お気に入りの閲覧席へ向かった。

 壁伝いに歩くと、一か所だけ壁が奥に引っ込んだ場所がある。ちょうど漢字の『凹』の窪みのような構図だ。そこに、一人がけのソファが二脚配置されている。それぞれの席には簡易な机が取り付けられていて、本を置くためものだとゆみりは理解している。ここがゆみり一推しの閲覧席だった。

 館内の閲覧席は他にもある。だけど、大概のものは一つの長机を複数人で使用する形式だった。ゆみりは人が嫌いである。相席などもってのほかなのだ。

 だけど、この空間なら一組の椅子と机を丸々独占できるのだった。隣席が空いているのは気にならなくもないが、見ず知らずの他人と至近距離で隣り合わせになろうとする者はいないだろう。そのくらい手狭な空間なのだ。ゆみりにとっては、まさしく聖域と呼ぶにふさわしい場所だった。

 先ほど持ってきた小説を机に置き、ゆみりは席に着いた。首から下げたポーチを外し腿の上に置く。

 そして、ゆみりは机の上の本をゆっくりと開いた。

 意識は急速に物語の中へ没入していく。次第にゆみりは身体の存在さえも忘れ去って行った。

 ゆみりは自身の身体に若干のコンプレックスを抱いている。ゆみりは非常に小柄な少女なのであった。小学六年生にして身長は百四十センチを下回っている。

 どういうわけか、ゆみりの身長は思うように伸びてはくれなかった。もちろん、小学校入学当初に比べれば、数十センチは伸びている。だけど、周りの児童と比較すると、明らかに頭一つ分小さい。背の順は六年間を通していつも先頭であった。

 だけど、物語の世界であれば、ゆみりは決してちびなどではない。そもそも身体がないのだ。存在するのは意識だけである。

 さらに孤独を感じることもない。物語の世界には多種多様な人間が生きている。少しは好感を持てる人物にも出会えるのだった。

 まさしく今、ゆみりは自由を謳歌していた。


「――あのー、お隣良いでしょうか?」


 だが、突然頭上から降ってきた声に、ゆみりの意識は忽ち現実に引き戻された。聞き覚えのない声だった。

 ゆみりの胸に沸々と怒りがわく。読書の邪魔をされたからだ。

 引きつりそうになる頬を何とかほぐして、ゆみりは声の主へ目線を遣った。

 ばっちり相手と目が合った。黒く大きな眼をした少女である。だが、少女と言っても、ゆみりとは比べ物にならないほどに背が高い。だから、きっと中学生だろう。ゆみりはそう勝手に予想した。

 長い黒髪を後頭部で一本に束ね、浅黒く日焼けした肌が健康的な印象を与える。Tシャツにハーフパンツといういかにも夏らしいいでたちをしており、髪を短く切ってしまえば、すらりとした長身も相まって、男の子に見えなくもなさそうだった。

 視線の先で、長身の少女がひっ、と微かに息を呑んだ。慌ててゆみりは視線を外した。よほど不機嫌そうな目をしていたのかもしれない。そのままゆみりは周囲の座席を見渡した。

 昼時の図書館は、夏休みながら閑散としていた。所々に設置された長机には、ほとんど人の姿は見られない。他人の隣へ来る必要などはないことは明らかだった。

 改めて、相手に視線を戻すと、黒髪の少女はそのままの姿勢で直立していた。

 率直に言ってしまえば迷惑だった。読書は一人で静かに行うものである。少なくともゆみりはそう思っていた。

 だけど、面と向かって相手を拒絶する勇気も、ゆみりにはなかった。他の席に回れだなんて言えるわけもない。人間嫌いのゆみりは同時に小心者でもあるのだ。

「……どうぞ、座ってください」

 結局は折れるしかなかった。かくして、ゆみりの聖域はあっさり破られてしまった。

「あ、ありがとう!」

 おびえたように立ちすくんでいた少女は、にかりと笑って隣に腰を下ろした。

 大した変わりようである。小心者のようでいて、彼女の方は案外肝が太いのかもしれない。声をかけただけで敵意を向ける人間になんて、普通は近づきたくもないだろうに。

 だが、隣の少女の性格など、ゆみりにはどうでもいいことだった。すぐさま彼女を意識の外に追いやって、手元の本に目線を集中させた。

 そこでは主人公の女の子が、物語の鍵を握る魔法使いに邂逅した場面が展開されていた。

 強い既視感がある。物語の序盤で、主人公とキーパーソンを巡り合わせてストーリーを進行させる構造は多くの作品で見受けられる。西洋の物語ではシンデレラ、国内の作品では、かぐや姫や浦島太郎なんかが、その例に当たるかもしれない。こういった形式の物語を、ゆみりは遭遇型とひそかに呼んでいる。

 ゆみりは、幾度も遭遇型の物語に出会っている。だから、どれもこれも似たり寄ったりだ、などといささかわがままな感想が、たびたび脳裏をよぎることもあった。

 だが、それでもゆみりには、遭遇型の物語を好んで選択している節もあった。その理由は判然としなかったが、おそらく一種の安心感が得られるからだろうと、ゆみりは推測している。

 先の展開が読めない小説は好奇心を刺激し、日常では味わえないスリルを提供してくれるが、同時に不安に付きまとわれることにもなる。その点、読み慣れた形式の物語であれば、ある程度先の展開が予測できる。

 先が読めてしまったらつまらないという意見もあるだろう。けれど、作品を読み進める中で、自分の予想がジグソーパズルのピースみたいにぴたりとあてはまる瞬間はなんとも心地がよかった。

 だから、この作品もゆみりは存分に楽しめるはずだった。

 けれど、どうにも集中が続かない。意識が空想の世界へ浸透していかない。チリチリとした感覚をほおに感じて、身体の存在が否応なく意識されてしまう。

「……あの、なんなんですか?」

 隣の席に目を遣ると、先ほどの少女がじっとりとゆみりの顔を覗き込むようにしていた。よく見ると、少女は全くの手ぶらだった。

「あ、えっと、ごめんね」

 しどろもどろに少女は口を開いた。

「私に何か御用ですか?」

 ゆみりは重ねて問いかけた。丁寧な口調はもちろん当てつけだ。言いたいことがあるならはっきり言ってほしかった。それに図書館に来たのなら、人の顔なんて見てないで、本を読めばいいと思う。ここには一生かかっても読み切れないほどに、たくさんの書物があるのだから。

「じ、実はあたくし、出版社勤務の編集者でして。えーっと、読書愛好家の方からおすすめの本について取材しておりまして――」

「嘘ですよね」

 ゆみりはにべもなく言った。ひっ、と息を呑んで少女の口が固まる。

 あたふたとした態度でバレバレだ。それに、ゆみりよりは年上なのだろうが、それでもやはり子供である。少女である。編集者であるわけがない。

 相手にはっきり聞こえるように、ゆみりはため息をついてみせた。早く本の続きを読みたかった。くだらない嘘に付き合っている暇はないのだ。

 二人の間にしばしの沈黙が下りたのち、再び少女が恐る恐る口を開いた。

「あ、あのさ、本を、一緒に選んでくれないかな?」

 そう言って、少女は顔の前で手を合わせた。ゆみりは最初何を言われたのか分からなかった。

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