ゆみりと迷子 その3

 隣を行く少女がふと足を止めた。手をつないでいたなつみは自然と引き留められる形になる。

後ろを振り返り、少女の目線の先を追うと、そこには一冊の本が陳列されていた。表紙には、淡い色調でどこかの学校の教室が描かれている。配架場所から考えるに、この本も児童小説の一種なのだろうが、なつみにはとても難しそうに見えた。国語の教科書なんかに載っていそうだ。

 そんな作品に、自分より明らかに年下の少女が関心を寄せている。なつみは少しだけいたたまれない気持ちになった。

「難しそうな本、好きなんだね。ひよりちゃん」

 本を見つめて固まる少女に、なつみが声をかける。少女の名前は佐倉ひよりというらしかった。ゆみりと別れてすぐに、自己紹介をしたのである。友達付き合いの基本はまず互いの名を知ることからだとなつみは思っている。

母親とはぐれていても、通りすがりの書架の本に興味が向くあたり、ひよりは気持ちに余裕があるのだろう。母親が迷子になった、なんて立場を逆転させた物言いをするだけはある。

「あたしじゃ、途中で挫折しちゃいそうだよ」

 茶目っ気を交えたなつみの台詞に、ひよりはかすかにくすりと笑った。

「わたしだってきっと読み通せないと思います。だってほら、中学生向けらしいですよ」

 ひよりは書架の上のほうを指差した。図書館司書お手製の案内板のようなものが置いてある。そこには、夏休みの読書感想文に最適(中学生向け)と確かにあった。

 読書感想文。

嫌なもの思い出しちゃったな、となつみは思う。すでに本は半分以上読んだとはいえ、まだまだ先は長い。

ゆみりと一緒に選んだあの小説がつまらないというわけではない。むしろ、学級文庫や図書室に置かれている作品に比べれば、大分読みやすくて、面白いと思う。

けれど、なつみはもともと読書自体があまり好きではないのだ。本を読んでいる時間があるなら、友達と外で遊んだり、ゲームをしていたほうが楽しい。

読書は孤独だ。作品中にはたくさんの人物が登場するが、所詮は作り物に過ぎない。直接会話をしたり、触れ合ったりすることは叶わないのだ。だから、結局小説を読んでいるときというのは、一人ぼっちなんだとなつみは思う。

なつみは人と触れ合うのが好きだ。友達とたくさん喋って、笑いあって、時にはけんかして。そういう時間がなつみにとっては一番楽しかった。自分の言動に、相手が思ってもみない反応を示してくるのも面白い。予定調和の世界である小説とはそこが違うのだ。

「でも中学生の本に興味示すなんて、ひよりちゃんって大人なんだねぇ」

 中学生の本に関心を持ったら大人。自分で言っておきながら、なんだか変な気がしてきた。

 ひよりはゆっくり首を振った。

「違うんです。実はこの本、お母さんが書いたもので」

「お母さん、本書くの?」

 はい、とひよりはうなずいて、なつみに向きなおった。

「子どもの本を書いています。でも、わたしより少し大きな子に向けた作品が多くって」

 ひよりの表情はいささか悲しげだ。

「ひよりちゃんくらいの子でも読めるようなものは書いてないの?」

「子どもの本って言っても、種類はいろいろみたいですから。一年生の子が読む絵本だって、六年生の人が読む小説だって、どちらも子どもの本だって、一まとめにすることはできるでしょう?」

 それに、とひよりは再び書架の上の案内板を指し示す。

「大人の世界じゃ、中学生ですら子どもみたいですから。わたしはちょっとびっくりです」

 なつみも来年には中学生になる。でも、自分はまだまだ全然子どもだとなつみは思っている。だから、中学生が子どもとみなされていてもあまり不思議には感じなかった。むしろ、あと数か月で自分が大人になってしまうと考えるほうがよっぽど奇妙な感覚である。

「だから、子どもと言っても色々なんでしょうね。子どもの本を書くには、それを読む子どもたちの年に合わせて、上手に文章を書いてあげなくちゃならないのだ、とお母さんは言っていました。それはそうですよね。一年生の子のために書かれたはずの本が漢字だらけだったら、誰も手に取ってくれません」

 ゆみりならどうだろう。ふとなつみは思った。たとえ一年生であっても、あの子なら漢字だらけの本に果敢に挑んでいきそうな気がする。しかめっ面をして、小難しい本と格闘するちっちゃなゆみりの姿を想像して、なつみは思わず苦笑した。

「お母さんは大きな子どもに向けた本を書く作家です。そんな人が、わたしや、わたしよりも幼い子どもに向けた本を書くのは、とても大変なことなのだそうです」

「でもさ、大きい子に向けた本を書けるなら、それより小さな子のための本だって書けるんじゃないの? ……大は小をも兼ねるって言うよ!」

 先日、ゆみりから教わった慣用句であった。ここらで少し年長者らしいところを見せたかったのである。おそらくひよりは意味を知らないだろう。質問が来たら、丁寧に教えてあげようとなつみは思う。

「わたしも同じことを思いました。大は小をも兼ねる。その通りだと思います」

 ひよりは朗らかな笑みを浮かべた。途端になつみはこっぱずかしくなってしまった。少女は慣用句の意味などとうに知っていたのだ。したり顔で言い放った自分が惨めだった。

 こんな時に使える言葉もゆみりは教えてくれたような気がする。確か――穴があれば入りたい、だったと思う。

「けれど、子どもには子どもの言葉があるように、大人にも大人の言葉があります。そして一度大人になると、子どもの感覚を思い出せなくなるんだそうです。だから、本来、一定の年齢層に向けた本を仕上げるだけでも、大人には大変なお仕事なんだそうです。中学生にも小学生にも楽しく読んでもらえる、そんな物語を紡げる人がいるとしたら」

 それは神さまです、とひよりは言って、再び母親の本に視線を向けた。

「神さま、か」

 少し、大げさな気がした。

子どもの言葉と大人の言葉は違う。本当にそうだろうか、となつみは思う。

だったら、どうして子どもと大人が楽しく会話できるのだろう。同年代の友達とのおしゃべりも好きだが、両親や学校の先生と話すこともなつみは好きである。

でも子どもが楽しめる言葉を、大人が紡げないのならば、その対話はもっと退屈なものになるはずだ。

けれど、なつみはそれを口に出しはしなかった。大人と子どもの言葉に垣根がないとしたら、お母さんの作品と向き合えないひよりが可哀想だと思ったからだ。

「……お母さんが、神さまだったら良かった?」

 書架をじっと見つめる少女に、なつみは問いかける。

 けれど、返ってきたのはいいえ、というはっきりとした声だった。

「だって、わたしが大きくなるのはこれからですもの」

 ひよりは母親の作品を手に取った。

「いつかわたしだって中学生になるんですから。この本だって今よりずっと身近な存在になってくれるはずです。その時が来るまで、待てばいいんですよ」

 ――それより、と少女は続ける。

「お母さんの言うことが本当なら、子どもの時しか楽しめない物語がたっくさんあるってことですよね。だったら大人になってしまう前に、そういった作品を読んでおきたいです。お母さんの作品はその後です」

 ひよりはほのかに笑って、手にした作品を本棚に戻した。

「……行きましょうか。ごめんなさい、引き留めてしまって」

 謝るようなことでもないと思う。親の作品が置いてあれば、なつみもたぶん足を止めるんじゃないだろうか。

 なつみの家では、父親も母親も兄もみな、あまり本に興味がない。幼いころは絵本を読み聞かせてもらった記憶もあるけれど、それも幼稚園くらいまでの話だ。

 小学生にもなると、読み聞かせはやらなくなった。その後は特に本を買い与えられることもなかったし、親が読書を勧めてくることもなかった。幼稚園のころと違って、自分なりの好みが現れることを考慮してくれたのかもしれない。そして、なつみ自身も本をねだるようなことはしなかった。

 もし本がもっと身近な存在であったら、読書に対する印象も少し変わっていたのかなとなつみは少し思った。

 なつみはひよりの手を取る。

「謝らなくていいよ。早く見つけよう、迷子のお母さん」

 ひよりと一緒に、なつみは書架と書架の間の通路を丁寧に一本一本見て回った。けれど、来館者は一人も見当たらなかった。閲覧席にすらも誰もいなかった。

気が付けば、フロアの隅に来ていた。目の前には三階へと続く階段がある。

「ひよりちゃん。上、探してみよっか」

「えっ、でも、お母さんは二階にいるはずですよ?」

 少し怯えた顔でひよりは言う。きっとはぐれたのは二階なのだろう。だけど、現時点ではここの来館者は三人だけである。なつみとひより。そしてゆみりだ。

「お母さん、ひよりちゃんが別の階に行ったって勘違いしてるのかも」

「そうかなぁ……」

 ひよりは少し俯いて、思案しているみたいだった。

「あ、でもお母さん少しぼーっとしてるところがあるから、もしかしたら……」

 独り言のようにひよりは言った。けれど、なつみはそれを聞き逃さなかった。

「一応行ってみようよ。案外すぐに会えちゃうかもよ」

 ひよりはまだ迷いがあるようだったが、結局なつみの提案に賛成した。二人は三階へと続く階段を上り始めた。


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