ゆみりと迷子 その4
定刻を知らせるベルが、館内に静かに響き渡った。一旦読書を中断して、ゆみりは腕時計を見た。ゆみりは携帯電話の類を持っていないのである。時計の針は午後二時を指し示していた
なつみがここを離れてから、既に一時間が経過している。ゆみりは深くため息を吐いた。
恐らく想定通りの事態になったのだ。
なつみたちと少女の母親。互いが互いを探し回り、館内をさまよい続けているのだろう。
――いや、それは少しおかしい。ゆみりは考え直す。子どもの姿が消えて三十分もすれば、母親が館内の職員に事情を話しに行くであろう。一人で探し続けるのは得策だとは思えない。だけど、迷子の放送がかかった記憶は、少なくともゆみりにはない。物語に没頭していたとはいえ、それを聞き逃すようなことはたぶんないはずだ。
あの子は、本当に迷子だったのだろうか。ゆみりが疑念を持ったその時。
「はぁ、……あの、……すいません」
三十代くらいの女性が息を切らせて目の前にやってきた。
彼女の髪は茶色くて長く、ふんわりとウェーブがかかっている。そして、彼女が身に付けたシャツとスカートは深い青色をたたえていた。少女の被っていた帽子の色にそっくりである。
「女の子を、見ませんでしたか? ちょうど、こんな色の帽子をかぶった、小さな子です」
息も絶え絶えに、女性は自分の着ているシャツを示してみせた。
十中八九、あの少女の母親だとゆみりは思った。少女の持つなけなしの情報にも一致する。長い髪に、青い衣服。それに、互いの特徴の伝え方がまるきり同じだ。
こんなことになるなら、なつみを止めておけばよかったとゆみりは再び後悔した。迷ったらその場を動くな、とよく言うが、本当にその通りだと思う。
少女はどこにいるのだろう。こうして母親が所在を訊いてきた時点で、このフロアにいないことは間違いない。
「……一時間くらい前に、ここに来ました。あなたが言うように母親を探しているみたいでした」
「本当ですか。その後あの子はどこに?」
少女の母親と思しき女性が身を乗り出してくる。ゆみりは思わず身をこわばらせた。
「……ですが、その……青い帽子の子が来た時、私のほかにもう一人女の子がいたんです。その子が一緒にお母さん探してあげるって、帽子の子を連れだしてしまったんです」
なつみとの関係をどう説明するか迷った。面倒だから、友達だと言ってしまおうかとも少し思った。けれど、どこかでやはりゆみりは踏ん切りがつかなかった。
彼女も一時間くらい戻ってきていません、とゆみりは伝えた。
心なしか、さらに女性の息遣いが乱れたような気がした。動揺しているのだろう。一時間以上も子どもの姿が見えないうえに、見ず知らずの子とどこかへ行ってしまったというのだ。当然の反応だと思う。なつみに悪気はなかったのだけれど、母親にそれを知る由はない。
けれど、ゆみりは同時に違和感も抱いていた。唐突に現れた青い帽子の少女のことを思い出す。
あの子は、ひどく冷静だった。親とはぐれたというのに、取り乱した様子はほとんど見られなかった。きちんと、会話ができた。
それに比べて、この母親は終始焦りの色が消えない。あの子の母親にしてはいささか頼りないような気がした。
「それじゃ、あの子の居場所はご存じないんですね」
おろおろとしながら、女性はゆみりに確認をとる。ゆみりはうなずいた。
「……ごめんなさい。余計なことをしてしまって」
どうして、自分が謝らなければならないのだろう。ゆみりなら迷子の案内など絶対にやらない。全てはなつみが勝手に始めたことだ。
けれど、ゆみりはゆるゆると首を振った。止めようと思えば、止められたのだ。責任がないわけでもなかった。
「いいえ。……ありがとうございました。係の人に事情を話してみようと思います」
そして、一階に続く階段へ向かおうとする女性を、ゆみりは引き留めた。
「待ってください。アナウンスはかけないであげてください」
きっと、少女はそれを望んでいない。
「どういうことです?」
「迷子案内で呼び出されるのは、子どもながらにすっごく恥ずかしいんです。あの子も、迷子扱いされるのはいやそうでした」
「だけど、そんなことを気にしてる場合じゃないでしょ」
声に焦りの色がにじんでいた。けれど、彼女の言い分ももっともだ。このまま放置していては、さらなる厄介ごとに巻き込まれる可能性もある。
なつみが一緒にいるだろうが、どうもあてになる気がしない。下手をしたら、当の二人すらもはぐれているかもしれない。さすがにそれは見くびりすぎかもしれないが。
でも、ゆみりとしては少女の気持ちも汲んでやりたかった。不当に子ども扱いされることの苦痛を、ゆみりはよく知っていた。
母親は焦燥に駆られて、今にもどこかへ行ってしまいそうだった。
ゆみりは必死に考える。
――何とか少女を呼び出さずに、落ち合える方法はないだろうか。
早く母親と再会させてあげたい。
でも、少女を呼び出すことだけは絶対に避けなければならない――。
そして。
ゆみりの頭に一つの案が浮かんだ。
失敗する可能性はある。だけど、これが最良の一手だとゆみりは強く思った。これならば、不快な思いをする人はきっといないはずである。ゆみりはなつみのエナメルバッグを持ち上げ、肩に担いだ。
「私にいい考えがあります。ついてきてくれませんか?」
「いい考え?」
「はい。きっとあの子に会えると思います」
ゆみりはきっぱりと言い切った。
「もちろん、嫌な思いもさせません」
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