ゆみりと迷子 その5

 遠い国のことはよく知らない。興味を抱いたこともほとんどない。おそらく、意識にのぼること自体ほとんどないのだ。

テレビなんかをぼうっと眺めていれば、遠い国の風景や、そこに暮らす人々を目にすることはできる。自分を取り巻く日常とは大きく違った印象を受けるけれど、同じ世界の出来事なんだと頭では理解できる。テレビの中は決して小説の世界などではない。

けれど、理解と実感はまるで違う。正直に白状すれば、遠い外国などフィクションとそう変わりがないように思える。どんな場所でも画面を隔てれば、自分とは一切関わりのない異世界のように感じられた。

画面越しであれば、この場所も異世界に早変わりなのかな、となつみは思う。

――でも。

少なくともこのフロアは、テレビなんかなくても十分に異質だった。

最上階の五階。

 ひよりと連れ立って歩きながら、なつみは脇を過ぎてゆく書架に視線を遣る。

整然と並んだ書物には、見たこともない奇怪な文字がつらつらと書き連ねられている。

遠い異国の書物だった。

大きさはさまざまで、文庫本程度のものもあれば、初めてゆみりと出会ったときに開いた野鳥図鑑に匹敵するほど大きなものもあった。

そして、そのほとんどが金属細工で装飾されていた。赤地の表紙に金の筋が走ったものなどは、豪華な王冠か何かのようになつみには見えた。

下の階にも外国の本が少し置いてあったが、そちらには装飾など付いていなかった。

もっと安っぽかった。紙製の表紙に赤や青といった原色を多用したイラストが描かれていたり、写真をそのまま表紙に使っているものもあった。ちょっぴり漫画本みたいだとなつみは思っていた。

「きれいですね。ここにある本は」

 歩きながら、ひよりがつぶやいた。どうやら同じ感想を持ったらしかった。

「下にあった本とはオーラが違うよね。なんかすごいことが書いてありそう」

 なつみは少し声を弾ませてから、肩をそっと落とした。

「でも、あたしたち絶対読めそうにないよね……」

 しぼみきったなつみの様子を見て、ひよりはくすくすと笑った。

「仕方がないですよ。外国の言葉ですし。それに――」

 きっとこれらはずっと昔に書かれた本です、とひよりは言った。

「どうして、そんなことわかるの? 読めないのに」

「これもお母さんから聞いた話ですけどね。西洋や中東の国々では、丁寧に手作業で本を作り、美しく飾る伝統があるのだそうです」

 途端になつみは憮然とした顔つきになる。

「……ごめん。西洋とか中東ってどこの国のことなの?」

 なつみは心の中でため息を吐いた。こういう時に勉強嫌いが災いするのだ。三つも四つも年下の少女に地理の知識を尋ねるなんて情けなくなってしまう。

「……そうですねぇ。西洋っていうのはイギリスとかフランスなんかがある地域ですよ」

 けれどひよりは嫌な顔一つせず、なつみの質問に応え始める。それはそれで気を遣われてしまったようでちょっと恥ずかしい。はっきり馬鹿にされた方がましかもしれない。

そして、ひよりは唐突に立ち止まった。

「どうしたの?」

 なつみはひよりを振り返る。通路に立ち尽くしたひよりは、口許に手を当てて何かを真剣に考え込んでいるみたいだった。

「……いえ、言われてみると、わたしも中東がどのあたりを指すのか分からなくて」

 西洋の意味が分かっているだけでも十分だと思う。なつみなんか六年になっても知らなかったのだし。

 ――ごめんなさい、と唐突にひよりはぽつりと言った。

 どうしてそこで謝るのだろう。なつみにはよくわからない。無知は褒められたことではないけれど、責められるようなことでもないのだから。

それとも、答えられなければなつみに怒られるとでも思ったのだろうか。そうだったら、ちょっと悲しい。何かを知らないだけで𠮟られるなら、なつみなどには心の休まる暇がないではないか。

 微かに俯いたひよりはなんだかとてもいじましく感じられた。なつみはひよりの気持ちをほぐすように微笑んで、小さな頭に手を置いた。

「謝ることなんてないよ。あたしからすれば、西洋の意味が分かるだけでもすごいと思う。教えてくれてありがとう、ひよりちゃん」

 帽子の隙間から、ひよりの眼がおずおずと覗く。ちょっと困惑しているように見えた。どうしてこんなことで褒められるんだろうとでも言いたげだ。それは知識不足のなつみが単に卑屈になっているだけなのかもしれないが。

 けれど、ひよりもすぐににっこり笑って、どういたしましてと言った。それは年相応の無邪気な笑顔で、なつみは初めてこの子は年下なんだと実感できた気がした。

 そして。

 あたしもちょっとくらいは勉強しようかな、とほんの少しだけ内省した。

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