ゆみりと迷子 その2

 お母さんが迷子。変な言い回しである。大人が迷子になるはずがないだろう。だけど、ゆみりには少女の言葉の意味が少しわかるような気がした。

恐らく、この子は自分が迷子だと認めたくないのだ。気持ちは分かる気がする。なんだか恥ずかしいのだ。迷子という言葉の響き自体が。

「お母さんが、迷子?」

 困惑したように、なつみが少女の台詞をそのまま返した。なつみには少女の意図が伝わらなかったようだ。

「ああ、それって――」

 聞かずとも、続く言葉は予想できた。ゆみりは素早くなつみの袖を強く引っ張った。のどまで出かけた台詞を飲み込んで、なつみはゆみりを見る。そんななつみの耳元に、ゆみりは顔を近づけた。

「この子が迷子だってことです。でも、黙っておいてあげてください」

 なつみは一瞬訳が分からないといった顔をした。迷子の状況にあまり抵抗がないのかもしれない。けれど、すぐにうなずいて調子を合わせてくれた。

「ねえ、お母さんは今日どんな洋服を着てるの?」

 話題をずらし、なつみは母親の容姿について尋ねた。少女は口許に手を当て考え込む。必死に思い出そうとしているのだろう。

「……青いお洋服、だったはずです。ちょうどこんな色の」

 そう言って少女は、かぶっている帽子を指さした。

 それだけでわかるはずもなかった。なつみも同感のようだった。

「うーん、他に目印はないかな?」

 目印だなんて、建物か何かみたいで変な言い方だとゆみりは思った。でも、これはなつみなりの配慮なのだろう。特徴、なんて言葉を使うよりかはわかりやすい気もする。

「……ごめんなさい。あんまり覚えていないんです。あ、でも髪の毛は茶色くて長いです」

 そう言って、少女はやんわりとはにかんだ。

 席に戻り、今度はなつみがゆみりの耳元に顔を近づけた。

「この子の言うことじゃ、よく分かんないよ。そんなにばかなのかなぁ、あたしって」

 そんな質問をすることの方がばかだと思う。わからなくて当然だ。髪の長い女性などいくらでもいる。少女の情報ではほとんど母親の特徴はつかめなかった。

 だけど、仕方のないことのようにも思う。誰だって他人の服装など細かく覚えているものではない。ならば、母親の服装もはっきりとは思い出せないものかもしれない。母親とは言っても、他人は他人である。

しかし、それにしたって少女の記憶はあまりに希薄すぎるとゆみりは思った。一緒にいたなら、もう少し母親に意識が向いていてもいいはずだ。

 でも、この少女なら、そう不思議なことでもないのかもしれなかった。親とはぐれたというのにあまり困った様子には見えない。このくらいの歳の子なら、泣き出してもおかしくはないだろうに。しっかりしているのだろう。だったら、そこまで親に意識を向ける必要もないのかもしれない。

「……やっぱりばかなんだ。……そうだよね」

 悲痛な声でなつみがつぶやく。少女に気を取られて、ゆみりは返答をすっかり忘れていた。

「……フォローして欲しかったなぁ」

 ねだられてするフォローに意味があるだろうか。今更何を言おうと、あけすけな慰みにしかならなそうなので、結局ゆみりはなつみを無視することにした。視界の隅でなつみががっくりとうなだれる。

「……たぶんあなたのお母さんには見覚えありませんね。他をあたってください」

 ゆみりは少女に向けてそう言った。

 これだけの情報では言ってやれることはない。図書館の係員に言えば、迷子案内くらいは流してくれるだろうが、それをこの子が望んでいるようにも思えなかった。

ならば、自力で早く母親を発見できるようにするのが一番である。――正直なところ、早く少女をやり過ごして、小説の世界に帰りたい気持ちもなくはなかった。

「そうですか……。お話聞いてくれてありがとうございました」

 少女はぺこりとお辞儀した。言葉遣いと言い、見かけのわりに礼儀正しい子だとゆみりは思った。少女は体の向きを変え、とぼとぼと歩きだす。

 少女がいなくなると、ゆみりはすぐにまた本を開いた。少女のことが気にかからないわけではなかったが、ゆみりにしてやれることはない。それに、話が終わった時点で、あの子とはもう無関係である。

 そう思っていたのだが。

 突然、なつみが席を立った。先ほどのダメージからは回復したらしい。小走りで少女を追いかけて、その背中に声をかける。

「待って! あたしが一緒にお母さん探してあげるよ」

 少女は足を止め、後ろを振り返った。突然の申し出にきょとんとしていたが、その表情は心なしかほっとしているように見えた。不安でない迷子はそういないだろう。

 少女はちらりとゆみりを見た。遠慮をしているのだ。だけど、なつみが案内をしようと、別にかまわなかった。久しぶりに一人の読書を満喫するのみだからだ。それに――。

 なつみは明日もどうせ来るのだろうし。

 ゆみりはそう思った。

だから、ゆみりはゆっくりとうなずいて、了承の合図とした。

「それじゃあ、ゆみりちゃん。行ってくるね」

 なつみが少女の手を取って歩きだす。ゆみりはそんな二人を無言のまま見送った。

 定刻を告げるチャイムが鳴った。家を出たときには既に正午を過ぎていたから、きっとこのチャイムは一時を告げているのだろう。

 二人が書架の陰に消えた。ゆみりは再び小説に目線を戻そうとして、なつみのバッグが視界に入った。隣の席に置きっぱなしになっている。

すぐに戻ってくるつもりなのだろう。不用心極まりないが、どうせ夕方までゆみりも家に帰らないのだ。特に不都合はなかった。

けれど、すぐに帰ってこられるかどうかは怪しいものだった。

この建物は全五階建てである。一階には先日ゲームをした共用空間が設けられている。そして、ゆみりのいる二階から最上階の五階までが全てが図書館になっている。

あの女の子がどこで母親とはぐれたのかはわからない。もしも、それが二階であり、母親もこのフロアで子供を探し続けているのなら、二人は間もなく再会できるだろう。二階はそう広くはない。

だが、母親か子供のどちらかが、既に別の階へ移動しているとなると、途端に捜索は困難を極めることになる。一階から五階まで、全てのフロアを回る羽目にすらなるかもしれない。

やはり止めるべきだっただろうか、とゆみりはちょっぴり後悔した。けれど、あの場でなつみを引き留めるのは、さすがにゆみりも気が引けた。なつみに再度声をかけられた少女はやっぱり少し嬉しそうだった。力になってくれる人が見つかってほっとしたのだろう。持ち上げといて、落とすような真似はゆみりもしたくはなかった。

館内は、静かだった。普段からここは人影がまばらだが、いつにもまして来館者が少ないような気がした。誰かさんが横から話しかけてくるようなこともない。なつみと出会う前に戻ったような心地だ。

図書館は本来、このような場所であるべきだとゆみりは思う。今日はいつもより物語に集中できそうだ。

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