ゆみりとなつみ その14

膝に手を乗せ、かしこまった様子でなつみは座っている。目はまっすぐに正面を見ており、ゆみりに気づいている気配はなかった。

ゆみりは、またしてもその場から動けなくなってしまった。願い通りの展開にもかかわらず、ゆみりはどう声をかけたらいいかわからない。出会えるかどうか。そればかりに意識が集中して、その後のことまで頭が回っていなかったのだ。

向こうから気が付いてくれないだろうか。ゆみりはそう期待してしまった。人付き合いを避け続けてきたゆみりには、自分から話しかける機会なんて数えるほどしかなかった。だから、たとえ相手がなつみでも、自ら姿を現すには勇気が必要だった。

少し待ってみても、なつみが視線をよこしそうな気配はなかった。ゆみりはそろりと一歩前に出る。

なつみと友達になりたいのはゆみりなのだ。ならば、自分から声をかけるしかないではないか。そんなこと、幼稚園児にだってできるはずのことだ。だったら、ゆみりにだって。

体は小さくとも、ゆみりは十二歳である。半年後には中学生になるのだ。幼稚園児ですら当たり前にやってのけるような行為から逃げるわけにはいかないのだ。

ゆっくりとなつみのすぐそばまで近づいて。

「あの……豊崎さん……」

 か細い声で呼びかけた。名字で呼ぶべきか、名前で呼ぶべきかいささか迷った。

思い返してみると、ゆみりはなつみのことを呼んだことなんて一度もなかったのだ。

なつみはびくりとこちらを振り向いた。なんだか嘘くさく見えた。なつみのことだから、実際嘘なのだろう。

本当はずっとゆみりの存在に気が付いていたのではないだろうか。なつみもゆみりと同じく、話しかけられるのを待っていたのかもしれない。でも、それはなんだかなつみらしくない。ゆみりはそう思った。

悪夢の一節がゆみりの脳裏によみがえる。暗い地の底から響くような低い声音。なつみの姿をしたなつみではない誰か。

もしかしたら、目の前に座ってこちらを見つめるなつみも、ゆみりの知っているなつみではないのかもしれない。そんな滑稽な疑念がゆみりの中で首をもたげた。

「ゆみりちゃん……」

 だけど、椅子に座る少女の口から発せられた声は紛れもなくなつみの物だった。少なくとも、ゆみりのよく知ったなつみの声音である。ゆみりはひとまずほっと胸をなでおろす。

だけど、なつみの向ける眼は心なしか怯えているように見えた。初対面の際に思いっきり睨みつけたときでも、こんな表情を見せた記憶はない。なんだかなつみとの間に大きな距離を感じる。

「……どうして、私をそんな目で見るんですか?」

「え?」

 なつみの眼が少し見開いた。けれど、怯えの色はまだ消えていない。

間違いない。なつみはゆみりを怖がっている。この子に嘘は吐けない。

ゆみりは何をしてしまったのだろうか。怒りを示されたり、睨まれるのならわかる。実際、喧嘩をしたあの時、なつみはゆみりに怒っていた。

だけど、怯えられたり、怖がられる覚えはなかった。

無意識に怖い表情になっていると、前になつみから指摘されたことがあった。だけど、今はそんなことないはずだ。たぶん、今は――なつみと同じような顔をしているんじゃないだろうか。

ゆみりも怖くなってきていた。なつみの考えていることが全然わからない。恐怖の中に微かに怒りも感じた。ゆみりが何をしたというのか。早くなつみに問いただしたかった。だけど、そんなことをしてはますますなつみは離れて行ってしまう。そんなことはゆみりも分かっていた。

――だから。

「……いえ、あなたが私をどう見ようとあなたの勝手です。だけど――」

 これだけは言わせてください。

「ごめんなさい。私が――わがままでした」

 なつみの持つ怯えの色がより一層濃くなったような気がした。ゆみりには何が何だかよくわからない。だけど、ちゃんと謝ることができた。ひとまずゆみりはそれだけで満足だった。

 だけど。

「……謝らないでよ。それはあたしの台詞なのに……」

 ゆみりの耳に聞こえてきたのは、なつみの震える声だった。

「謝らなくちゃいけないのはあたしの方なのに……」

 静かに、なつみは泣き出した。そんななつみの反応にゆみりは面食らってしまう。なつみの反応は許すか、許さないかの二択だとゆみりは考えていたからだ。まさか泣かせてしまうとは思ってもみなかった。だけど、なつみがゆみりの何に怯えていたのか、少しわかったような気がした。

「ごめんなさい! あたし、あたしひどいこと言っちゃった。ずっと一人ぼっちだなんて」

 なつみは堰を切ったように泣いた。突然のことにゆみりはたじろいでしまう。思わず辺りを見回した。また図書館の司書に怒られてしまうかもしれない。そんな場違いなことをゆみりは考えていた。

なぜだか、既にゆみりは日常の感覚を取り戻しつつあった。謝ったことで、ゆみりの中では一つの区切りがついたのだろう。ちゃんと謝れれば、以前の日常に帰れる。そんな風に考えていたのかもしれない。

「どうしてあなたが泣くんですか。ちょっと、一旦落ち着いてください」

 ゆみりは必死になつみをなだめた。だけど、なつみはしきりに首を振って、聞く耳を持たなかった。

なつみの声が館内に響き渡る。これはさすがに周囲には迷惑であろう。

「一階に行きませんか? そこでゆっくり話しましょう」

 手を引いてやって、ゆみりは泣きじゃくるなつみをなんとか立たせた。そのまま手をつないで歩き出す。

 こちらを見る司書の姿がちらりと目に入った。また注意されるんだな、とゆみりは覚悟した。だけど、彼はただゆみりたちを目線で追うだけで、何も言ってはこなかった。よく見ると、ひどく怪訝そうな顔をしている。司書の目に映る自分たちをゆみりは想像してみた。

 泣きじゃくる少女に、それを引っ張る別の少女。

――なんだかいじめの現場みたいだった。ゆみりがなつみをいじめているようにも見えなくもない。司書はそれを怪しんでいるのだろうか。

いやいや。ゆみりは冷静にもう一度考え直す。

逆なら理解できる。大きななつみが小さなゆみりをいじめているというのなら。だけど、今泣いているのはなつみであって、その手を引いているのはゆみりである。

小柄なゆみりが長身のなつみを泣かせただなんて誰も考えないだろう。実際力じゃ敵いそうにないとゆみりも思う。腕相撲なんかしたら、あっという間に押し負けてしまいそうだ。ゆみりがなつみをいじめたとは考えにくいだろう。こうしてみると、極めて不可解な状況だった。奇妙なことこの上ない。傍からこの状況を見たら、ゆみりもなんとも解釈しかねるだろう。

そして――ゆみりは合点が行った。あの司書も同じなのだ。ゆみりたちの状況を推し量りかねているのだ。それゆえの表情なのである。

ゆみりたちは司書の奇異な視線を背中に受けつつ、二階を後にした。

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