ゆみりと小説 その3

「あ、この写真可愛いっ」

 後ろを歩いていた少女が、小さく弾んだ声を上げた。ゆみりが振り返ると、少女はある本の表紙を凝視していた。

「何してるんですか? 早く行きますよ」

 ゆみりは不機嫌そうに催促する。早いとこ適当な本を紹介して、この不愉快な少女とお別れしたかった。なにしろ、この少女は同い年でありながら、ゆみりを中学年扱いしたのだ。先ほどの少女の言動をゆみりはまだ根に持っていた。

 怒りに任せて、頼みも突っぱねてしまおうかとも思った。けれど、一度請け負った手前、それもなんだか気が引ける。それに、どれだけ無情に突っぱねても、たぶんこの子は引き下がらないだろう。

「ちょっと待ってよ。ゆみりちゃん――」

 男性司書の眼光から逃れてすぐ、少女から名前を訊かれていた。何事もなかったかのような振る舞いであった。機嫌が悪いことくらいわかるはずなのに。あまりにしつこかったので、しぶしぶゆみりは名前を伝えた。すると、少女はすぐさま自分を下の名前で呼び出したのだった。ちなみに少女の名は豊崎なつみというらしかった。頼んでもいないのに勝手にそう名乗ったのである。

「ほらっ、この鳥、すっごく可愛いよ!」

 なつみはじっと見つめていた本を手に取って、ゆみりに見せてきた。表紙には二匹の小鳥が木の枝で戯れている写真が納められていた。野鳥図鑑である。小鳥の羽毛は白く、たんぽぽの綿毛みたいだった。

 なつみの本を探すため、二人は児童図書コーナーに向かうところだった。その途中に自然科学系の書物が集められた区画があったのだ。

「動物はあまり興味がないです。考えてることがわからないからつまらないです」

 ゆみりはそっけなくなつみに背を向けた。なつみはぶつぶつ言いながら野鳥図鑑を元の場所に戻した。

 ゆみりだって小鳥は可愛いと思っている。でも、ただのそれだけだ。どんなに可愛くとも、ものの数秒眺めればお終いである。

 動物は言葉を持たないから、思考が判然としない。行動を観察してみれば、何らかの意味が見出せそうな気がする。でも、それはゆみりが勝手にそう感じているにすぎない。結局ゆみりには何もわからないのだ。だから、ゆみりは動物に興味がない。嫌いなのではなく関心がないのである。

 ましてや動物の写真などは動くことすらもない。ならば、一目見れば済む話だ。もちろん、それは別段他人に知らせるようなものでもない。なつみの気持ちが、ゆみりにはよくわからなかった。

「あ、でもさ――」

 なつみがゆみりの肩をトントンと叩いた。

「まだ何かあるんですか?」

ゆみりは不機嫌そうに首だけで後ろを向いた。なつみの黒々とした瞳と視線が交わる。間近で顔を見ると、なんとなくなつみは犬に似ているような気がする。後頭部で揺れる一房の髪も餌をねだる犬のしっぽに見えなくもない。

「図鑑で感想文って書いちゃダメなのかなぁ?」

 口調こそ自信なさげだったが、これぞ妙案といった気持ちが顔に表れていた。ゆみりは微かに眉をひそめる。

「断言はできないですけど、避けた方が無難だと思います」

「えー、何でさ? これならあたしにもすぐ読めそうなのに」

「図鑑はテーマこそ一貫していますが、項目ごとのつながりが薄いです。ですから、短編集を読んで、全ての作品に対する感想を一発で書き記す感覚に近くなると思います。そんなのって、むしろ難しくないですか?」

 なつみは軽く握った左手を口元に当てた。

「むぅ、確かに。ゆみりちゃんの言うとおりかも」

「それに、学校の読書時間では、図鑑や辞書は禁止されていませんか?」

「……どうだったかな?」

 今度はなつみが首をかしげる番だった。

「あ、でも辞書はだめだった気がする。この前広辞苑読んでた男の子が先生に注意されて一悶着あったもの。辞書を読むことだって国語の勉強だからいいだろ。学校は勉強する場所なんだから。それがその子の言い分だったんだけどね」

 あんな分厚いものを学校に持ち込む小学生がいるなんて。わざわざ手提げに入れて持ち運んでいるのだろうか。ランドセルにもぎりぎり入れられそうだが、その時点で教科書とノートは置いていくしかないだろう。

さすがのゆみりもそこまで巨大な本を携帯したことはなかった。せいぜい千ページほどの文庫本くらいだ。横幅が増えても縦幅が変わらないから、その形状は本というよりサイコロみたいだった。

その異質な形状ゆえ、教室で読んでいると否応にも誰かの目に留まるのだ。すると、その誰かさんは興味本位でいきなり声をかけてくる。普段は一切口もきかないというのに。

渋々ながらも、ゆみりはその相手をした。けれど、話題になるのは書籍が厚いというそのことばかり。小説の中身について言及する者は誰もいなかった。ただひたすらにつまらない会話だった。

つまらないだけならまだしも、不愉快になることすらあった。小学校の段階でそこまで分厚い書籍を愛読する児童はそうそういない。だから、たびたび奇異な視線を送られることもあった。自分の行動が逐一見張られているみたいで不快だった。放っておいてほしかった。気の合わぬ友人ならいない方がましだとゆみりは思っている。

「……あなたは、その広辞苑の男の子のことをどう思いましたか?」

 思わず口に出していた。何となく自分の姿と重なったからかもしれなかった。ゆみりの声は静かな館内にはっきりと響いた。

「――へ? 別に何とも。あたしには関係なかったしね」

 思いのほか、なつみの答えはあっけらかんとしていた。ちょっと意外だった。周囲への関心は人一倍ありそうに見えたからだ。

「あ、でも、そのおかげで一時間目がちょっと遅れたんだよね。それは嬉しかったよ」

 ケラケラ笑って、なつみはそう付け加えた。

「そう、ですか」

 ぼそりと呟いて、ゆみりは再び歩き出した。唐突な話の切り方だと思った。けれど、なつみがそれ以上質問してくることはなかった。

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