ゆみりと迷子 その7

書架の通路を抜け、閲覧席のある空間に出た。

誰もいなかった。

でも、ここではいつもと変わらぬ光景なのかもしれない。古代の異国の書物を読み解ける人なんてそうそういないのだから。

けれど、ひよりのお母さんが待っているんじゃないかと、ひそかになつみは期待していた。

このフロアは最上階である。ここにいなければ、何処かですれ違いになってしまったということだ。

「お母さん……。どこ、行っちゃったんだろう……?」

 ひよりがぽつりと漏らす。心なしか声は震えていた。

館内は探しつくした。母親の不在を否応なしに認めざるを得なくなり、動揺しているのだろう。今まで気丈にふるまっていた分、反動も大きいのかもしれない。

なつみはしゃがみこんで、ひよりの目線に合わせた。その眼には、うっすらと涙がたまっていた。

「……お母さん、何かあったのかなぁ……」

 ひよりの眼から涙が落ちる。なつみは少し驚いた。ひよりの発言は母の身を案ずるものだったからだ。本当に不安なのはひより自身だろうに。でも、それを人前で口に出さないでおけるのは大人だと思う。他人を優先できるなんて。もしなつみが同じ立場に置かれたら、そこに気を回せるだろうか。

――たぶん、無理だ。

 なつみはズボンのポケットからハンカチを取り出して、頬を伝う涙を拭いてやった。

「大丈夫……。お母さんだって、きっとひよりちゃんのこと探してる。だから、きっとこの図書館のどこかにいるんだよ。それだったら――」

 お母さんが危ない目に遭うことはないよ、と言おうとして。

 ひよりは首を横に何度も振った。その拍子に青い帽子が脱げて床に落ちた。

「違うんです。もしかしたらお母さんはここに来てないかもしれないんです」

 お母さんがここに来ていない。

 この図書館で、ひよりは母親とはぐれたのではなかったか。母親が来ていないのならそもそもはぐれられるはずがない。

「ひよりちゃん。それは――」

 突如、ひよりは声を上げて泣き出した。泣き声は静謐な館内にわんわんと響き渡った。現状を確認する中で、感極まってしまったのだろう。

 床に落ちた帽子を拾い、なつみはひよりの頭にかぶせてやった。事情を訊くのは後回しがよさそうである。

 なつみは迷っていた。一刻も早く母親を見つけ出すことが先決だとは思う。でも、そのためには迷子案内のアナウンスが一番だとなつみは考える。先ほどの言動を考慮すると、母親がここにいない可能性もありそうだったが、なつみにできるのはそのくらいしかない。

 ――でも。

 迷子扱いしないであげて。ゆみりの言葉が脳裏をよぎる。

でも、迷子として呼ばれる恥ずかしさが、なつみにはよくわからない。そそっかしい性格が災いして、幼少時からしょっちゅう迷子になっていたからだ。迷子扱いされることに、なつみはほとんど抵抗がないのである。

他人の気持ちなど分かるはずもない。他人の気持ちを読み取る、なんて言うけれど、それこそ小説の世界に限った話だと思う。現実を生きる人間の心情は文字で記されたりなんかしない。記されないならば、読み取れるわけもない。学校の先生がよく言うように、他人を思い遣る、くらいが精一杯だ。

他人の気持ちはわからないが、他人の境遇に自分を重ね合わせるくらいならできる。そうすれば、自分の感覚を基準に相手の心情を推し量ることはできるかもしれない。

けれど、恐らくなつみの推量は的外れだ。なつみの尺度を基準とするなら、迷子は別段恥ずかしいことにはならないのだから。

だから、今は思い遣ることすらもなつみには難しかった。

ひよりは泣きつづけている。すでに顔は真っ赤だ。

迷っている暇はなさそうだった。

「ごめんね、ひよりちゃん」

 泣きじゃくるひよりの手を握って、なつみは歩き出す。よろよろとひよりがついてくる。

 かわいそうだけど、職員の元へ連れていくほかない。それで、ひよりがどんな気持ちになるのか、もちろんなつみにはわからなかった。でも、迷っていたってどうせ答えは出ないのだ。――それに。このまま立ち尽くしていても、結局ひよりはかわいそうなままではないか。

 なつみが自分なりの覚悟を決めたとき。

 軽やかなメロディーが頭上から流れた。館内放送の合図である。続いて、穏やかな女性の声でアナウンスが始まった。

『――待ち合わせのご案内です。小学六年生の、豊崎なつみさん、豊崎なつみさん。一階、エントランスフロアにてお連れ様がお待ちです』

 今、自分が呼ばれたような気がした。呆然となつみは天井を見上げた。館内放送は念のために、二回再生されるはずである。

 再びメロディーが流れ、女性の声が入る。

『――待ち合わせのご案内です。小学六年生の、豊崎なつみさん、豊崎なつみさん。一階、エントランスフロアにてお連れ様がお待ちです』

 やはり、館内放送はなつみの名を告げていた。

「……結局、迷子はあたしかい」

 なつみは力なくひとり呟いた。放送を頼んだのはきっとゆみりだ。タイムオーバーということだろう。ちょっとだけ、悲しかった。

 ゆみりは戻ってこないなつみを心配してくれているのかもしれない。それはそれで少し、嬉しい気がする。でも、公共放送で名を呼ばれるのは――恥ずかしかった。迷子ではなく待ち人として、放送させたのはゆみりなりの配慮なのかもしれないが。

初めてゆみりやひよりの気持ちが分かったような気がする。確かにこれは恥ずかしい。以前はどうとも思わなかったのに。やっとお母さんに会える、とか楽観的なことを考えていたような気がするのに。

――やっぱり、あたしも少しは大人になってるのかな、となつみは思った。

「一階、行ってみようか」

 なつみは泣きじゃくるひよりの手を引いて再び歩き出した。

 呼ばれたなら、行ったほうがいい。なつみはそう思った。ゆみりの元へ戻っても、ひよりのお母さんには会えないだろう。事態は何も解決しない。でも、ゆみりに心配をかけたままでいるのも申し訳なかった。

なつみは大きなため息をついて、ひよりと共に階段を下りて行った。

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