ゆみりと迷子 その8

「待ち合わせ、ですか?」

 エントランスフロアの片隅で、ゆみりは怪訝な声を出した。目の前に座る少女の母は弱弱しくうなずいた。

「ひよりとは十二時半に待ち合せる約束でした。仕事は午前中で終わる予定だったのです。ですが、打ち合わせが思いのほか延長してしまって。仕事が済むと急いでここに向かったんですが、到着したときには既に二時を回っていました」

 ひよりの母の話を聞き、ゆみりは少女の言い回しに得心がいった。別に、ひよりは母親とはぐれてしまったわけではなかったのである。既に到着しているはずの母親を探していたのだ。

 それで、お母さんが迷子になりました、か。ひよりの発言は迷子扱いを嫌うが故ではなかったのだ。あの子も紛らわしい言い方をしたものである。そうと知れば、あの場にとどめることもできたのに。

「ひよりさんに連絡はできなかったんですか?」

「はい……。携帯はまだ持たせていないんです」

 ひよりの母は消え入るような声でそう言った。

 無責任なものである。連絡が取れないならば、もっと確実に間に合う時刻を指定すべきだ。仕事の終了予定時刻の三十分後だなんて、遅刻する可能性は十分にある。

 ゆみりが険のある声でそう攻め立てると、おっしゃる通りですね、と弱弱しい反応を見せ、ひよりの母はうなだれた。

「……でも、なるべくたくさん時間を作ってあげたかったんですよ」

「そうだとしても――」

 ゆみりの反論を遮って、ひよりの母は先を続ける。

「私は主に児童小説を描く作家として生活しています」

 突然の告白だった。ゆみりの眉根にしわが寄る。当然目の前の女が作家だとは思ってもみなかった。

 ゆみりは小説が大好きである。寝ても覚めても、小説のことばかり考えている。

けれど、物語の創造主たる作者には、ゆみりはほとんど関心を払わなかった。興味がないのではない。目を向けたくないのだ。むしろ意識的に視界の外へ追いやっている節がある。

 ゆみりにとって、物語は独立した世界である。それは自発的に進展していくものだった。ゆみりは、物語の世界に一切の介入者も挟みたくなかった。現実と同様、小説にも神はいないことにしたいのである。だから、創作者の存在はゆみりには不都合なのだ。

現実に暮らす人間が空想の別世界を描く。実際はその通りである。でも、それを認めるとゆみりに自由をもたらすあの世界が、息苦しい現実世界とリンクするような気がした。

作り手無くして小説は生まれない。そんなことはわかっている。それでもゆみりは不都合な現実から目を背けたかった。――目の前の女の話もできれば聞きたくなかった。

「仕事内容を大まかに分ければ、執筆作業と、担当の編集者さんとの打ち合わせの二つです」

「そうですか」

 ゆみりは適当な相槌を打つ。

「打ち合わせは大概一日かかるので、その日はほとんどひよりにかまってやれません」

「でも、打ち合わせだって毎日あるわけではないでしょう?」

「もちろんです。ですが、それ以外の日はほとんどの時間を執筆に充てなければなりません。……締め切りを破ると、たくさんの方に迷惑が掛かってしまいますから」

 小説家の女は悲しげな笑みを見せ、もっと手際よく書ければいいんですけどねと言った。

 作家もいろいろ大変なようだ。小説の裏にそんな労苦がにじんでいるだなんて、ゆみりは考えたくもない。

 ――でも、と小説家は顔を上げる。

「今日だけは違ったんですよ。仕事が一段落ついて、打ち合わせも午前中だけ。……だったら、普段かまってやれない分、できるだけ長くひよりと過ごしてあげたい」

 母の顔は、真剣だった。向かいにいるのは、児童小説家である前にひよりの母であった。ゆみりはひよりの母をじっと見つめた。

 自分の母のことを思い出す。ゆみりたちとひよりたちでは境遇は全然違うのだろう。でも両者は、お母さんが子どもにかまえないという点では同じだった。

 ゆみりの母も朝から晩まで働き詰めである。だからこそ、寂しさを紛らわすため、ゆみりはいつもこの図書館にやって来るのだ。

 そんなゆみりを、お母さんはどう思っているのだろう。土曜日でも、お昼ご飯だけ用意して、会社に行ってしまうお母さんは。

 ゆみりのお母さんは几帳面な性格だった。特に時間には厳しい。だから、ひよりの母のような大雑把な行動はとらないだろう。ひよりの母を無責任だと感じたのはきっとお母さんの影響だ。

 ――だけど。

 ほんのちょっぴり、ゆみりはひよりが羨ましかった。

お母さんだって、ゆみりに関心がないのではない。それは十分にわかっているつもりだ。でも、無理なスケジュールを立ててまで時間を作ろうとしたひよりの母は、不器用だけど優しい。ゆみりにはそう感じられた。

「……そうですか。きっと、ひよりさんも楽しみにしていたでしょうね」

 できるだけ柔らかに、ゆみりは言った。無責任な母親を責める気力はもうなかった。

 ゆみりは二階へ続く階段に視線を遣った。なつみの姿はまだ見えない。ちゃんと放送はなつみの耳に届いただろうか。なにより、あの二人がはぐれてしまっていることはないだろうか。ゆみりは少なからず不安だった。

 その時。

 階上の方から、子どもの泣き声が聞こえた。時々、それをなだめる少女の声が入り混じる。泣きじゃくるひよりの手を引いて、なつみが踊り場に姿を現した。

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