ゆみりとなつみ その10

 机には一通の便箋。白い紙面に黒い罫線が横に何本も走っている。ただそれだけの無味乾燥としたデザインだった。

ペンを片手に、ゆみりはその便箋とかれこれ数時間は睨み合っていた。

 大きく息を吐きだし、ゆみりは一旦ペンを置いた。背もたれに体を預け、力を抜く。

 なつみと友達になりたい。ゆみりははっきりとそう感じた。そしてゆみりは考えた。ならば、今までの受動的な自分から根本的に脱却しなければならない。

 毎日欠かさずゆみりはこの図書館に通っている。その目的はなつみとの再会である。だが、結局ゆみりはただ待っているだけだった。普段と同じ席に陣取り、ひょっこりとなつみが戻ってくることを期待して漫然と過ごすのみ。ゆみりにはほとんど変化した箇所がない。強いて言えば、読書量の減少くらいである。

 だが、自ら行動を起こそうにも、ゆみりにできることは皆無なように思われた。ゆみりはなつみの連絡先を知らない。住所も分からない。

通っている小学校くらいなら何とか当たりをつけられそうだったが、そんなものは役に立たない。いきなり電話をかけたところで、門前払いされるのがオチだろう。学校がなつみの情報を教えてくれるはずもない。情報が手に入ったら入ったで、それは大問題である。

街を自転車で駆けずり回ってみようかとも思った。何かの拍子にばったり出会えるかもしれない。

でも、冷静になればあまりに無謀な策であることは明らかだった。八月も下旬に入り、一時の猛暑は鳴りを潜めている。とはいえ、残暑は厳しいものだった。そんな気候の中で、一日中走り続けていたら、体力のないゆみりなどはあっという間にへばってしまうだろう。一日だけならまだしも、残りの夏休みの間、ずっと続けられる自信はなかった。

だから、しばらくの間は結局以前と変わらぬ日々を過ごす羽目になった。そして、やはりなつみに再び出会えることはなかった。

手紙を書く。そう思いたったのは昨日の夜のことだった。

置き手紙を残すのである。住所を把握していない時点で、手紙は選択肢から除外されていた。だが、置き手紙であれば住所は不要である。会ってちゃんと謝りたいと手紙に記し、いつも二人で使っていた席に置いておくのだ。

それも突き詰めれば受動的な行為であるとゆみりはわかっていた。手紙など書いたってなつみがここに来ていなければ意味がない。結局、ゆみりはただなつみを待っているだけである。

だけど、ゆみりには一つだけ気がかりがあったのだ。ゆみりと会うことを、なつみが躊躇している可能性である。

悪いのはゆみりの方であろう。少なくともゆみりはそう思っている。だけど、あの場で先に起こり出したのはなつみの方であった。言い方は悪いが、喧嘩の直接の原因を直接作ったのはあの子なのである。だからゆみりとの再会に、なつみは一種の気まずさを感じているのではないだろうか。実はなつみもここに来ていて、何処かからゆみりのことを見ている。だけど、姿を現すには抵抗がある。そういうことなんじゃないだろうか。

それもゆみりの希望的観測にすぎない。本当は既になつみはゆみりなどには愛想をつかしているのかもしれない。

だけど、もしゆみりの期待が正しければ。置き手紙は最善の連絡手段となるかもしれない。

もちろん、ちゃんとなつみに手紙が届くかはわからない。ゆみりが目を離したすきに、誰かがごみと勘違いして捨ててしまうかもしれない。手紙を最初に手にする者がなつみだという確証はないのだ。

だけど、ゆみりにできるのはそのくらいしかなさそうだった。

それに、何もしないで残りの日々を過ごすのもゆみりは厭だった。既に夏休みは三日を残すのみとなっていた。このまま夏休みが終わってしまったら、二度となつみには会えない。そんな脅迫じみた考えもたびたびゆみりの脳裏をよぎった。

再び大きく息を吐いて、ゆみりは気合を入れなおした。ペンを手に取り、まっさらな便箋と対峙する。

どうにも言葉が出てこないのだ。伝えるべき事柄は十分に把握しているはずだった。しかし、実際に文章にしたためようとすると、すぐに筆が止まってしまう。

文通と会話には微妙な差異がある。

会話であれば、顔の表情や身体の動きなどで、言外に含む意図も汲み取ってもらえる可能性がある。文通であれば、書かれた文章を額面通りに受け取るほかない。身体の伝えうる情報が遮断されてしまうのだ。ゆえに一度に伝わる情報量に大きな隔たりがあると言えるだろう。だから、手紙をしたためる際には、こうも躊躇するのかもしれない。

だけど、筆がスムーズに進まない主な理由は別の点にある、とゆみりは考える。

清らかなほどにまっさらな便箋を、ゆみりはじっと見つめ直した。ゆみりはそこに落とし込むべき文章を必死に考え込む。

文通では思考する猶予が与えられるのだ。自分の意図が明確に伝わるように適切な言葉を選び出さなければならない。

さらに、言葉にはニュアンスというものがある。辞書には記されていないもう一つの意味だ。それがゆみりにはよくわからない。ゆみりが幼児言葉に嘲りをうっすらと感じ取ってしまうのも、ニュアンスの一例なのかもしれない。だから、ゆみりだって言葉を字義通りにしか受け取れないということもないのだ。だけど、受信者から発信者の立場へ移動してみると、途端にそれはわからなくなった。

言葉の持つニュアンスの存在が輪をかけてゆみりを悩ませた。そして、思考猶予はますます延長される。

会話であれば、発言を考える余裕などない。次の台詞まで待ったなしである。相手の言動に合わせ当意即妙に返答しなければならないのだ。

しかし、文通ではそんな必要はない。むしろ、考えなしの軽はずみな言動こそ慎まなければならないだろう。余計なことを勢いに任せて言ってしまうことはあっても、勢いに任せて書いてしまうのは許されないのである。つまり、文通は会話以上に失言が許されないのだ。だから、手紙は難しいのである。

やっとのことで、ゆみりは最初の一文を書き出した。ぎこちないながらも文章が生成されていく。だけど、句点を打つとすぐにゆみりはそれを消した。まっさらな便箋が少しだけ黒ずんだ。

灰色の紙面を数分見つめて、再びゆみりは筆を走らせる。そして、またすぐに消した。

ゆみりは幾度となく文を書きなおし、いつしか真っ白だった便箋は真っ黒になった。こんな汚いものを渡すことはできない。

ゆみりは黒い便箋をくしゃくしゃに丸め、手近にあったゴミ箱に放った。そして、膝の上のポーチから新しい紙を取り出した。

だけど、相変わらずゆみりの筆は進まなかった。

何度も書き直す中で紙が痛んでいたのだろう。幾度目かの書き直しの際、消しゴムの摩擦に耐えかねて便箋が破れてしまった。

それを再びゴミ箱に放って、ゆみりはまた新しい便箋を取り出す。残りはあと二枚だった。あまり失敗ばかりしていると、便箋のほうが尽きてしまいそうである。

もう一度ペンを置き、ゆみりは気持ちを落ち着かせた。急いても仕方がないと頭ではわかっている。だが、ひとたび文章が思い浮かぶと、書き表すことで概形をとどめておきたくなるのだ。片鱗だけでもつかまねば、寸分後には散り散りになってしまうような気がするのである。

しかし、脳内に垣間見えた文章と、実際に紙に記される文章ではかなり異なる印象を受ける。なんとも不思議なものだとゆみりは思う。使用する語句は全く同じなのに、脳内から紙面へ輸送した時点でその新鮮味はあっさりと失われてしまうのである。

ゆみりが自発的に文章を練ることは全くなかった。文章は読まれて初めて価値が生まれるものだからだ。友達のいないゆみりに読み手はいないのだ。

だから、読みには慣れたゆみりでも文章を書く機会はあまりない。国語の時間に無理矢理作文をするくらいである。――あとは、お礼状くらいだろうか。ゆみりの小学校では、外部から人を招いて講演会を催すことがたびたびあった。学校側の開催意図は、早いうちから児童らが広い視野を持てるようにするため、だったような気がする。そんなもの、ゆみりは一度として真面目に聞いたことはない。先生の目を盗んで小説に没頭するのが常だった。

 そして講演会が終わると、学校は児童たちにお礼状を書かせるのだ。もちろん、講演者に対するお礼の手紙である。ろくすっぽ話を聞いていないゆみりは、いつも適当なことを書いて提出していた。読み手の立場なんか考えたこともなかった。

 そういう意味では、手紙を書くのは初めてということになるのだろう。読み手を考慮し、正確な文を紡がねばならない。

 相変わらず、良い書き出しは決まらなかった。憎たらしいくらいに真っ白な便箋がゆみりの前に立ちはだかっている。

 だけど、それとは対照にゆみりの気持ちは穏やかになっていた。自分でもよくわからなかった。手紙が完成しなければ、なつみに気持ちを伝えることはできないというのに。

ただ、ひょっとしたら手紙を書くというこの状況がなんとも喜ばしいのかもしれなかった。だって、手紙を書けるということは読み手がいるということである。ゆみりは、一人ぼっちではないということでもある。――そう実感できたのかもしれなかった。

ゆみりはもう一度ペンを握った。

――今度はうまく書けそうな気がした。

 ゆみりが手紙を書き終えるころには、既に陽は沈みかけていた。少し離れた場所にある窓から、斜陽が差し込んでいる。館内が赤く照らされる。なつみと何度も見てきた夕日の赤だった。

 ゆみりは書き終えた手紙を封筒に入れた。花柄の折り紙で作った手製の封筒である。市販のものを使おうかとも思ったが、それもなんだか味気ない気がしたのだ。

 花柄の封筒をしばらくじっと見つめてから、ゆみりはそれを机に置いて席を立った。夏休みは今日を除くと、あと二日である。明日中には、手紙がなつみの手に届く必要があった。こんな杜撰なやり方でうまくいくとも思えなかったけれど、ゆみりは必死に成功を願った。

 翌日、いつもの席を見に行くと、花柄の便箋は残っていなかった。

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