ゆみりとゲーム その1
ファンタジー小説には往々にして幽霊がつき物である。これまでにゆみりが読破したファンタジー作品には大抵その姿を現しているような気がする。
だが、一口に幽霊と言っても、物語における役割は様々だ。ほんの脇役であったり、ストーリーの鍵を握る役回りを担いもする。主人公との関係性も様々であり、敵対する者があれば、友好的な関係を結ぶ幽霊も存在する。
まさしくつかみどころがない。
けれど、幽霊の特徴を強いて一つあげるなら、憑依能力ではないかとゆみりは考える。
嫉妬や恨み、恋慕など理由は様々だが、何らかのきっかけで死んだ生き物の霊魂が生者に憑りつくのである。
執着の程度は作品によりけりだが、大概の場合幽霊は執念深い。逃げても逃げても追いかけられ、祓っても祓ってもなかなか取り除けるものではない。
憑依されたら最後、もう諦めるしかないのかもしれなかった。
ゆみりはそれこそ幽霊のように、恨めし気な目を隣の席に向けた。視線の先では髪の毛を一つに束ねた快活そうな少女が、イラストの施された児童小説を気難しそうな顔をして読み進めていた。
初日とは異なり、なつみは手ぶらではなかった。黒いエナメルの、肩掛けかばんが足元に置いてあった。
なつみはその翌日も当然のようにやってきて、ゆみりの隣に腰を落ち着けたのだった。ここをどく気はさらさらないようであった。
この子も一種の幽霊なんじゃないだろうか、とゆみりは思う。離れようとしても近づいてくるし、昨日はお祓いにまんまと失敗してしまった。
ゆみりにはなつみを拒絶するだけの気力はもうなかった。抵抗することに疲れてしまったのである。
だから、断じて心を許したわけではない。ゆみりは自分自身に向けてそう宣言し、振り払うようにして視線を手元の小説に戻した。
物語の世界では、魔法使いの提示する条件に葛藤する少女の心情が描かれていた。確かに少女は現状の生活に辟易していた。家は貧しく、一日の食事すらままならなかった。家業を手伝うにも少女は生まれつき体が弱く、足手まといにしかならなかった。使い物にならない自分の身体が憎らしかった。
だから、肉体的にも精神的にも社会的にも変身をとげることが不可欠だと少女は信じている。それなのに、いつまでも彼女は踏ん切りがつかないのだった。
「ねぇねぇ、ゆみりちゃん、ちょっといい?」
――そして、今日も面倒ごとがやってきた。ゆみりは憮然とした表情をなつみに向ける。なつみは苦笑いを浮かべて、読みかけの児童小説に書かれたある一節を指さしていた。
「これ、何て読むの?」
なつみの指す先には「黄蓮」とあった。
「おうれん、ですよ。花の名前です」
おうれん、となつみがその言葉を不思議そうに口に出した。
「私も図鑑でしか見たことないですが、確か白い小さな花だったような気がします」
「白いの?」
「ええ、確か。可笑しいですか?」
「だって、この『黄』って文字、これ黄色のことでしょ?」
ゆみりはわざとらしいくらいに大きく目を見開いた。
「よく知ってましたね」
「そのくらいはさすがにわかるよ! あたしたち同い年なんだよ」
「そういえばそうでしたね」
金切り声を上げて、なつみが抗議する。ゆみりはそれを無視して先を続けた。
「確か根っこが黄色いんです」
「根っこが黄色いの?」
なつみがオウム返ししてくる。好奇心旺盛な幼児みたいだった。やはり、同い年には感じられない。
「それで、大抵根っこは水分を効率的に確保するため放射状に広がりますから。すると、黄色い根が何本を『連なる』ことになるんです。『蓮』という字が使われるのはここからの派生でしょうね」
したり顔で説明を終え、ゆみりは内心ほっとしていた。夏休みが始まってすぐの時期に、野草図鑑に目を通していたのだった。小説を愛好するゆみりは普段なら図鑑など気にも留めないが、この時ばかりは自由研究で使う参考図書を探しに来ていたのである。
黄連の語源など知らずとも問題はないのだろうが、少し見栄を張ってみたかった。どのような知識がいつ役に立つかはわからないものである。
「なぁるほど。それで黄蓮かぁ」
「あれ、思ったより理解が速いですね。『連なる』の説明も必要かと思いました」
「それはちょうど、夏休み前の漢字テストにあったから……」
「記憶に新しかったんですね」
自分も同じだ、とゆみりは思う。
「だから、一週間もしたら忘れてるかもね」
そう言ってなつみはペロリと舌を出した。ゆみりはきつい目つきで睨みつけた。
「ひっ、何でそんな怖い顔するの?」
「……なんだか馬鹿にされたような気がしまして」
「今のは照れ隠しだよ! 馬鹿にしたんじゃないよ!」
その後もなつみは読み方の分からない漢字をゆみりに質問してきた。お陰で、ゆみりは幾度となく現実の世界に引き戻される羽目となった。
「……妙ですね。児童小説なんですから、そう読みにくくはないはずなのですが」
「……ごめんね。あたし、馬鹿だからさ……」
なつみはがっくりとうなだれた。心なしか束ねた後ろ髪も張りがないような気がした。
「そんなことが言いたいのではありません」
なつみはひょいと顔を上げ、小首をかしげた。
「……児童書であれば、おそらく漢字にルビが振られていると思うのですが」
「ルビって?」
「読み仮名のことですよ。ついていませんか?」
「あ、最初の方はたくさんついてたよ」
そう言って、なつみは冒頭の部分を見せてきた。なつみの言う通り、文中で使用された漢字には逐一ルビが振られていた。
「でも、ちょっと読み進めると全然出てこなくなるよ」
そこでなつみは何かに気が付いたように手をぽんっと叩いた。
「ゲームみたいに、小説も進むに連れて難しくなるのかな?」
「そんなわけないじゃないですか」
ゆみりがにべもなく指摘する。なつみはがっくり肩を落とした。
「毎回ルビを振ってくれる親切な製本もありますが、初出の漢字にしかルビを振らない本もあるんです。これは後者のタイプですね」
ほら、とゆみりは紙面のある一点を指した。そこには「黄連」とあった。
「ちゃんとルビが振られてるじゃないですか」
あちゃー、となつみはかすれた声を上げる。
「ごめんねぇ。手を煩わせちゃって」
「全くです。今からは一つ一つ押さえるようにしてくださいね」
ゔぇ、となつみが絶望したような声を出す。
「覚えるの? これ全部?」
「当たり前です。メモを取ったってかまわないのですから」
ルビが不親切な場合、ゆみりはいつもメモ用紙代わりの手帳を用意している。ルビ付きの漢字が出てきたらその都度記録するのである。読むのを中断する必要はあるが、これをやっておくと後が楽だった。物語のクライマックスに、国語辞典を引くようではたまったものではない。
「それでもつらいよー。ちょっと休憩!」
なつみは本を机に投げ出し、背もたれに深く寄り掛かった。天井を見上げて大きく息を吐く。
「やっぱり、読書って大変だねぇ」
「そうですか?」
あきれたようにゆみりは言う。
ゆみりになつみの気持ちは分からなかった。こんなに落ち着ける時間も他にないと思うのだが。
物語を読んでいると、意識はその作品世界に取り込まれる。けれど、身体は現実に置き去りのままだ。だから、感覚としてはテレビや映画を見ているのに近かった。
だけど、小説には映画にはない魅力がある。それは描かれる情景を自分の主観に基づいて再構築できることである。
映画であれば、提示されたシーンをそのまま受け入れるしかない。たとえ、配役や舞台音楽が気に食わなくても変更は許されない。
もちろん小説の場合も、文章は作家が編み出すのであり、読者に勝手な自由は許されない。だけど、映画に比べればその制約はずいぶんと緩い。その間隙に読者の主観や理想を挟み込む余地が生まれる。その点で小説は優しいものだ。
それを思えば、漢字の読み方を記録することなど些末なことだとゆみりは思う。読書が大変だというなつみの考えが、ゆみりにはとても不思議に感じられた。
「……休憩はいいですけど、ちゃんと読み進めてくださいね」
後悔するのはあなたですよ、と付け加えた。なつみの黒目がにゅうーっと開いた。
「心配してくれるの?」
座ったまま、にやにや笑いを向けてくる。
「忠告をしたまでです。あなたが叱られようと、私の知ったことではありません」
大丈夫、となつみはグーサインをゆみりに突きつけた。
「明日もここに来るから」
「結局人任せですか」
なつみは自嘲するようにケラケラと笑った。あてにしてるよ、となつみは言う。
どうしてあてになんてできるのだろう。ゆみりになつみの読書を促す義務はない。明日からこっそり場所を変えることもできるのに。
ゆみりは他人をあまり信用しない性質だから、なおさらなつみの感覚が分からなかった。
なつみは屈託なく笑っている。その笑顔は演技には見えなかった。第一、この少女は嘘が下手なのだ。
私にも誰かを当てにする瞬間は訪れるのだろうか。唐突にゆみりの脳裏にはそんな疑問が立ち上がって、忽ち姿を消した。
――ねぇ。
なつみがゆみりに呼びかける。遠慮がちな声音だった。最初に会った時のことを少し思い出す。
「休憩ついでにさ、一緒にゲームしない?」
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