ゆみりとなつみ その8

 一度変えたものは元に戻らない。物語にはそう記されていた。その一文はゆみりの心に深く突き刺さった。

 なつみと喧嘩をしてから、ゆみりは毎日隣町の図書館へ通っていた。だけど、一日としてなつみに再開できる日はなかった。

 楽しいはずがなかった。以前はいつだって、ゆみりはここへ来ることを心待ちにしていたような気がするのに。

 なつみと出会う前であれば、魅力的な物語との邂逅を純粋に待ちわびていた。味気ない現実を抜け出し、情緒あふれる物語の世界で日々を過ごす。そこではたくさんの友人に囲まれつつも意のままにふるまえた。創作世界において、ゆみりは女王様だった。誰にも邪魔されない至福の時間だった。

 なつみと出会った後は、少し、いやかなり日々の様相が変わった気がする。物語と接する時間が減り、現実にいることが多くなった。なつみがすぐ現実に引き戻してくるからだ。

 鬱陶しかった。なぜこの見知らぬ少女はやたらに自分と関わろうとするのだろう。早くいなくなってほしい、と最初は思っていた気がする。

 ――でも。

 

 ゆみりは隣の座席に目をやった。相変わらず空席のままだ。

 実際にいなくなってみると、寂しかった。たぶん、喧嘩をしてしまうずっと前から、ゆみりはなつみに心を許していたのだろう。自分では全然気が付けなかったが。

 結局ゆみりは自分の世界に逃げ込んだ。開いたままの小説が机の上に置いてある。ここに来るだけで精いっぱいだった。これ以上現実と向き合うことはできなかった。

 だけど、その小説もゆみりを受け入れてくれなかった。思ったようにその世界へ飛び込むことができない。文が書き連ねられた紙面を境にはじかれてしまっているような。そんな感覚だった。

 それでも無理に読み進めた。何もしていないと、気持ちがどんどん沈み込んでしまうからだ。

 以前と何一つ変わりないのに。ゆみりは思う。独りで読む本はこんなにも退屈でつらいものだったろうか。こんな状況は日常の一コマに過ぎなかったはずなのに。何度自分に言い聞かせても、ゆみりは以前の自分に戻ることはできなかった。

 ぼんやりとした意識で読み進めた本の筋書きは次のようなものであった。夏休みに入ってから、ずっとゆみりが読み進めていた小説。魔法使いと少女の物語である。

 幸福に満ちた生活を送っていた少女だったが、次第にその雲行きが怪しくなって来た。

以前のように食に困ることはなくなったし、世間が自分たちを見る目も大きく変化したように感じられる。これらは魔法によってもたらされた良い変化だ。だけど、変わる必要のないものまでも変化してしまったように少女は感じていた。

少女の周りからはあらゆる困難が消え、家族は富を得て裕福になった。ここまではよかったのである。だけど、人間の欲はとどまるところを知らなかった。人間は一度その味を占めてしまうと、歯止めが利かなくなってしまうのだ。

お金の使い方や将来の方針などを巡って、少女の両親はたびたび衝突するようになった。二人は欲深い人間になってしまったのである。

少女はこれまで両親がけんかをしているところなんてついぞ見たことがなかった。少女の知る二人はいつでも互いを気遣い、協力して生活をやりくりしていた。だけど、裕福になったことで協力する必要がなくなってしまったのだろう。互いに譲り合い、我慢する理由がなくなってしまったのだ。ありていに述べれば、両親はわがままになったのである。

両親に起きた心境の変化は魔法による直接の影響ではない。あくまで魔法のかかる対象は少女だけであった。だが、一度生じた変化は連鎖するものである。少女が華麗な変身を遂げると、周囲の人たちの見る目が変わった。暮らし向きも好転した。そして、少女に対する両親の接し方も変わり、最終的には彼らの心までもが変化してしまった。

すでに少女は今の生活に嫌気がさしていた。貧乏でひもじくても、以前の生活のほうがよほど良いものだと考えるようになっていた。少女は魔法による変身をなかったことにしたいと願うようになった。だが、そのたびにあの魔法使いの言葉が脳裏によみがえった。魔法をかける直前に告げられた忠告が。

――一度変えたものは元に戻らない。

ゆみりも同じだった。なつみに出会うことでゆみりの考え方は少なからず変化した気がする。そうでなければ、こんな沈みこんだ気持ちになることもないはずだ。一度変えたものは元に戻らない。なつみに出会う前のゆみりに戻ることはすでに不可能なのだ。

――こんなことなら出会わないほうがよかったかもしれない。

そんな考えが心をよぎって、ゆみり自身が一番びっくりした。そしてすぐにそんな自分が嫌になった。出会いをなかったことにしたいなんて思っていない。少女とゆみりは違う。ゆみりは邪な思考を浄化するように必死で自分に言い聞かせる。だけど、過去の行いを悔いる少女の姿はやはりゆみりの鏡像のようだった。

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