5-3 服選びとアルバイトと静かな別れ
「
「
んー。
「要兄、ちょっとこれとこれ、両方着てみて?」
雫が差し出したのは黒と茶色、それぞれのジャケット。要には正直、どっちも同じように見えるのだが。
「まあまあ。そう言わずに」
ためらう要の手を引いて。雫はジャケットを着せてきて。言われるままにされてしまうが。
「うん。茶色の方が似合う。要兄、かっこいい!」
満足気な雫の顔と、本心からの褒め言葉が。じんわりと要の心にしみた。
「行ってらっしゃい! お土産よろしく!」
「期待できないなあ、それは。先輩には、聞くだけ聞いてみる」
雫の見送りを受けて階段を下れば、そこには春野の外車が待ち受けていて。
「ありゃ、お待たせしました!」
「いや、待ってはいないな。こっちが早かっただけだ」
中から姿を見せたのは、こちらもややフォーマルな姿の春野。もっとも、スカートではない。いわゆるビジネスパンツのスタイルだ。髪はきっちりまとめている。
「今日はラフじゃないんですね」
要が口を挟むと、春野は少々困り顔で。
「ああ。相手が少々頑固なタイプでな。普段なら願い下げのとこだが、ちょっと難しいのだ」
ああ、それでかと。要は今回の件に納得した。確かに女性のみだと、下に見る傾向の人間はいる。特に年上ならば、なおさらだ。
「大島なら背は高く、ゴツくはないが人当たりも良いタイプだ。そこで、白羽の矢を立てた」
「はい」
「うむ、行くか。余裕は持たせているが、万が一があってはシャレにならないからな」
住宅地に配慮してドアを閉め、決して飛ばすような真似もしない。立派な外車が、少々宝の持ち腐れに見えなくもない。しかしそれも春野なりの配慮だと、要は経験から知っていた。
用をつつがなく終えて、午後二時。要は静かな和食店でぐったりしていた。これまた郊外に建つ、安くもないが高すぎない店。半個室の、掘りごたつの座敷で。ジャケットを脱ぎ、壁に背を預けている。内装の数々にまで、目を配る余裕はなかった。
「上手く行って良かったですけど、心臓に悪すぎますよ先輩……」
「済まん。正直に全てを言っても、信用も納得も得られんと思ってな」
心底申し訳なさそうに、春野は頭を下げる。
「だからと言って、せめて会う方の『あ』の字ぐらいは教えてください。肝が冷えました」
「今後は善処する……が、もうあの方々と会う機会はないと思う。私以外は」
なるほど。要は安心した。最初の関門は、どうやら突破できたらしい。春野はまとめ髪を解き、軽く縛っていた。
「お役に立てて、光栄です」
「礼はこちらから言わねばならん。給金、または相応のものは後日出す。ありがとう」
互いに頭を下げる。要がかつて焦がれた人は、決して気まずそうにしない。いつでもきっぱりと。ハッキリと。親しげに接してくる。だからこそ、やりやすい。
どういたしまして。要が言葉を返した頃合いで、二人の注文がやって来る。
「まあなんだ、食べよう」
「ですね」
軽く笑って、二人は遅い昼食に取り掛かった。
それじゃ、この辺りでいいな? ええ、お疲れ様でした。
とある駅前で、要は春野の車から降りた。預けていた手荷物を回収し、ネクタイは外す。今日はもう一つ、仕事があるのだ。
「
「はい」
短く返事をして、駅構内へ歩き出す。二駅ほど電車に乗れば、もうすぐなのだ。ジャケットは着たまま、大股で歩みを進める。その足取りに、迷いはなく。遠くでエグゾーストノートが、少しだけ響いていた。
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