3-7 初仕事とコーヒーとおかえりの声

 一週間後。かなめは初仕事のために、豪邸の外にやって来ていた。


「……俺じゃなくても、学者でも雇えばよくない? なんで春野はるの先輩に依頼したし」


 思わずボヤく。それもそのはず。神楽坂邸はあまりに広く、壁も高く。大名屋敷を思わせる風格があり。要を入りにくくさせていた。

 とはいえ。入らなければ仕事にならない。収入が得られない。収入がなければ、いくら叔母の援助があろうが。いつかは破滅する。夢に浸ってはいられない。


「おーい、ボーッとするな。早く入って来んか」

「ひえええっ!?」


 門前で圧倒されている要を襲う、不意討ちの声。一瞬取り乱すが。


「……監視カメラか」


 その際に見えたものから、仕掛けに気付いた。そして声の主はてるだった。アウェイ過ぎる状況において、その声は救いだった。


「そうだ。世の中泥棒や不届き者は多いからな。こうして自衛させてもらっている。無理に破れば警備会社もやって来るぞ」

「なるほど。じゃ、入ります」

「あいよ」


 マイク越しのやり取りを終え、要は正門へ一歩を踏み出し。最初の授業の幕が開いた。



 約二時間半後。西日だった外の風景は、とっくに暗くなっていた。


「おつかれさん」

「参ったな。大介だいすけ君の頭が良くて、俺の出る幕がない」


 授業時間を終えた要は、輝の誘いで広いリビングに通されていた。広いテーブルには割ったら怒られそうなティーカップが置かれ、その横にはシュガーポット。しかも十分な量。ソファはふかふかで、身体を預けたら抜けられる気がしない。金持ちの風格が、そこかしこから滲み出ていた。


「んな事はないぞ。アイツは集中力が弱いからな。監視役が必要だった。アドバイザー的なのがな」


 なるほどね。遠くから聞こえた輝の返答に、要は軽くうなずいた。あまりゆっくりはしていられない。そろそろ家では、しずくが夕食を作っている頃だろう。今日は、チキンソテーだとか言っていただろうか。


「……なあ、要」

「ん?」


 気付けば輝が、対面のソファに座っていた。装いは先日と同じく、白のブラウスにロングスカート。しかしコーヒーを飲む仕草は昔のままで。


「あちっ」


 うっかり舌を焼かれてつぶやく癖も、そのままだった。


「馬子にも衣装」

「体裁が悪いと言われちまった。母さんの再婚相手にな」


 短い会話。だが、意志は通じた。幼馴染の、独特の呼吸。だが、甘えてはならない。雫に告げた言葉の意味を、要は心に留めている。


「……雫とか言ったか? あの女は」

「従姉妹。転がり込まれた」


 会話の口火は、輝が切った。コーヒーをちびちび啜りつつ、要を視線で絡め取ろうとしていて。


「連れて来た意味は」

「先に言っといた方が親切だろ? ……って、春野さんに言われた」


 まあな。そう返って来て。沈黙。輝の言いたいことが、要には読めずにいて。


「……女か?」


 ほとんど聞こえないような声が。要の耳に届いた。


「答える義務がないと思うが」


 コーヒーを一口飲んでから、返事をする。実際義務はない。なにより今の要には、雫の立場の。説明がつけられなかった。


 同居人も従姉妹も、違う気がする。でも、恋人ではない。だけど、大事な人。雫の立場はぼんやりとしていた。


「機嫌は損ねさせるなよ。こっちも困りかねん」


 顔を隠すように、輝はコーヒーをあおって。そのまま立ってしまう。後ろを向いたまま。


「カップはそこに置いとけ。それと……。ビジネスライクに行こうか」

「ああ、そうする」


 その言葉の意味を、正しく捉え切れたのか、最後まで要には分からなかった。ただ、残りのコーヒーは。妙に苦く感じていた。



 アパートの階段をゆっくりと上り、自室の扉を開く。


「雫、ただいま!」

「おかえり、要兄ようにい!」


 すっかり慣れてしまった歓迎の声に、要の目は自然と細くなった。


 第三話・完

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