浄火

1

 目を開けると、天井に広がっているのは、自分の家ではない枝の並びだった。

 凄まじい悪夢のせいで背は汗に濡れ、寝台に掛けられている布が貼りついて不快極まりない。脳裏に過るのは、驚いた顔をしたヨスティネの頭が沢山落ちてきて自分を埋め尽くし、エイデルライトがそれを見て笑い続けている光景――思わず呻くと、誰かがはっと息を呑む音が聞こえた。そこに人がいるのなら是非とも上手く動かない身体をひっくり返して汗を拭って欲しいと思って口を開けば、掠れた声しか出てこず、リュークは戸惑った。

 と、誰かが自分に触れて、次の瞬間、悲鳴のような声が鼓膜に刺さった。

「リューク!」

 覆い被さってくるのは、大人のがっしりした身体だ。自分と同じ太陽色の長い髪が何本かはらはらと掛かってくる。少しだけ硬くなったような気がする頬の感触は、それでもよく知ったものだ……それに気付いて、やっと喉の奥から出した声は、酷く枯れていた。

「……とうさま?」

「よかった……エイデルがここに連れてきたのだけれど、何もされなかったかい?」

 そっと抱擁を解いて、父はリュークの頬を優しく撫でる。その手つきはエイデルライトの動作ととてもよく似ていた。

「何もなかった……寧ろ、助けてくれたのかな」

「そうか……それなら、よかったけれど」

 父はそう言って表情を曇らせた。どこか遠くから誰かが号令をかける声が聞こえてきて、沢山の唱和がそれに続いた。数多の羽ばたきの音が近付いてきて、通り過ぎ、どこかへと消えていく。階段を駆け下りる音が、尻から微かに響いてきた。

 そうだ、とリュークは思い出す。錯乱して自我をどこかへやってしまったヨスティネは性別など関係なく屈強な騎士で、起きたばかりで何も武器を持っていなかった自分は一切歯が立たなかったのだ。そこに騎士達が来なければ、遅かれ早かれ命を落としていたかもしれなかったのだ。リュークはフテロミス種がどうなったのかは見ていないが、あの断末魔はオデルのものだったのだろう。そして、女騎士がどういう風に礎になったのかも知らなかった――その首が落ちるところは見てしまったけれど。

 ふと、白翼の聖者が直接来たのはどうしてだろう、と思った。

「……どうして、エイデルさまが家に来たんだろう?」

「それは、礎になったヨスティネのせいだ」

 信頼していたのだがね、と、父は溜め息をつく。その目元に濃い色の隈があることにリュークは気付いた。よく眠れていないのだろうか。

「とうさまとお前がここにいる理由がそれだ……ヨスティネが、かあさまととうさまがお前に送った手紙を持って、樹上政府の会合に乱入し、それを全て読み上げた」

 おかげで私はすぐさま拘束されてここに閉じ込められた、と言って、父は苦笑する。そっと起き上がって辺りを見回すと、大樹サーディアナールの枝が隙間なく絡み合う壁には、リューク一人が何とか通れそうな穴が無理矢理開けられていて、そこに頑丈な木枠が填められていた。入口はたったひとつだけ、寝台もひとつだけ。しかし、木の寝台やリュークの身体に掛けられている布は清潔だったし、清潔な着替えは壁に掛けられているし、シンター紙もハルスメリのインクも筆も机も、湯浴み場も厠も、ちゃんとあった。

「……僕の名前が手紙に書かれていたから、僕もここに来たの?」

「残念ながらそういうことだ、本当にすまない、リューク……私が樹上政府に反旗を翻す為に密書を交わす方法を教え込んだと思われた。そして、樹上と樹下どちらからも追われている者――かあさまのことだね――と情報をやり取りしたことが、結果的にお前の罪になってしまった……お前はただ、かあさまと手紙を送り合いたかっただけだったろうに」

 父はそう言って、下唇を噛んだ。だが、リュークは、ただ父に会えただけでもよかった、と思った。宵空色の瞳がそこで生きて自分を見つめているだけで嬉しいと感じる。それでも、また外に出てエイデルライトと訓練の続きをしたかったし、枝の上を駆け回って、第一の試練と第二の試練をいずれ受けて、サーディアナールの天辺まで行きたかった。そんなことを考えているリュークの目の前で、父は首を振る。

「このままでは、外に出ることも叶わない」

「……どうやったら、出して貰えるの?」

「普通は、竜の巫女であらせられるファイスリニーエ様が取り仕切る裁判で、樹上政府を動かしている八人のうちの六人から無罪だと判断が下ればいいのだが。樹上政府はファイスリニーエ様と仲の良い者が多いし、私の話も好意的に聞いてくれる者ばかりだが」

 こればかりはわからない、と父は呻くのだ。その中にエイデルライトはいるだろうか、とリュークは思うのだ――〈ゆりかご〉で様々な考え方を子供達に与え、特にリュークに目をかけてくれた彼が味方に付いてくれたのなら、何とかなるかもしれない。しかし、白翼の聖者は非常に強い権力を持ってはいるが、エイデルライトという人は非常に不安定で、頬の傷が疼いた時はどんなことを言うかわからない。万が一狂ったような表情になった時は、また誰かの首を刎ね飛ばしてしまうかもしれないと思うと、恐ろしかった。

「私達はここで裁判を待つことになっている……万が一、私は駄目でも、お前はまだ八歳だ。第一の試練もまだ経験していないから、成人とはみなされない」

「――とうさま」

 反逆罪で死刑だ、火よりも穢れてしまった。エイデルライトの放った言葉が耳の奥から蘇ってきて、リュークは震えた。それを勇気づけるかのように、父はもう一度リュークの身体を優しく抱き締めてから、にやりと笑ってみせるのだ。

「大丈夫だ、可能性がなければ、とうさまだって大暴れするつもりだった。これでも、細い枝の上をひょいひょい走ることが出来たし、剣だって槍だって、自分の腕みたいに動かせたからね……もう十年も前になるけれど、まあそんなに鈍ってはいないだろう」

 それに今は恩寵も得た、と言って、父は朗らかな声を出して笑った。その時だ、小さな窓の隙間から、何かが飛び込んできたのは。

「――まさか」

 父が呟く。それはリュークの胸めがけて飛んできた。描き慣れたと思われる模様は息を呑む程に美しく、優雅に風の気を纏って翠に輝いている。ぺちん、という音を一つ立てて、リュークが差し出した両手の上に落ちたのは、折り畳まれた紙。見慣れた光景だった。

「かあさま」

 ここに来る前に読んでいたものよりは短かった。早く開かなくては、と逸る気持ちをどうにか宥めながら折り目を元に戻すリュークを、父が囁き声で急かす。

「早く、とうさまにも見せなさい」

「ちょっと待ってよ」

 自然と声は小さくなった。父は、辺りを見回し、立ち上がって窓の方へ行って何かを探す素振りを見せ、それから入口の扉を少しだけ動かし、きっちりと施錠してあることを確かめてから戻ってくる。近くには誰もいないようだった。

「開けたよ」

 そう囁くと、父が横に座って、手元を覗き込んでくる。リュークも手紙に視線を落とした。

  ――返事を待つ前に送ってしまった。

  リューク、とうさまには、前の手紙のことを知らせてくれただろうか――

「サーディアナールを燃やさなければいけない、なんて君が言い出したこと、樹上政府の皆が知っているけれどね……おかげで、第一段目の騎士が皆、砂漠の向こうまで君を追いかけることになったのだから、全く」

 そんな呟きが聞こえたものだから、思わずリュークは父の顔をまじまじと見てしまった。

「……そんなことになっていたの、とうさま?」

「心配ないと思うよ、騎獣では誰も到達出来ないだろう。サーディアナールの天辺にいる竜族よりもシシルスはずっと大きくて、特別だからね……それでも、騎士団は行くみたいだけれど」

 父は憂いに満ちた表情でそんなことを言った。

 一回読んだだけだったから、リュークも手紙の内容はうろ覚えだ。しかし、酷く印象的だった事柄なら、幾つも覚えている。サーディアナールを燃やさなければいけない、ということは勿論、クレリアを解放していないということも、魔獣を殺してはいけなかったことも、イェーリュフという種族も、沢山水がある場所を〈海〉と呼ぶことも、今自分がいるところがバルキーズ大陸という名前であって、ずっとずっと広い大地が広がっているらしいことも、世界がサーディアナールより広いことも。

「続きを読んでみよう、リューク」

 父に促されて、リュークは手紙に再び目を落とす。

  ――私が今どこにいるかというと、砂漠の手前まで戻ってきている。

  シシルスもアリエンも一緒だ。というのも、アリエンがシシルスと離れたがらなかったし、

  シシルス自体が、イェーリュフの立てた計画から外せなかったからだ。

  そう、クレイオスという名のイェーリュフが笛のようなものを吹いて、

  魔獣を呼んで、軍勢をあっという間に創り出した。私は数え切れなかった。

  私は、シシルスが、目の赤い鹿や豹に向かって挨拶をしたのを見た。

  あと、石碑に書いていた内容も、クレイオスから教えて貰った。

  私は驚いた……あそこに書いてあったのは、子守歌と伝説だ。

  リュークも、とうさまや、かあさまが、寝る前に話したり歌ったりしたのを、

  何度も聞いたことがあると思う。下に全てを書こう――

「帰ってきているの、かあさま」

「……その伝説が、何かに繋がっているというのか?」

 思わず声を上げた横で、低い囁き声が聞こえた。唇に掌を当てて静かに、という仕草をした父は、リュークが眠る時に語り、〈ゆりかご〉で何度も教え、全ての人の生活の一部となっている樹上と樹下に受け継がれている伝説を、最初から、声を出さずに諳んじ始めた。

  ――水と土が番いて生まれた始まりの地 竜の楽園

  数多の骸と営みの果てに 歌を覚えた者は理想郷へと変えた

  麗しき天蓋と蒼を貫く塔を抱きし白亜の城

  失われし大陸の恵みを蒐集せんとする堅牢な要塞――

「とうさま、待って」

 父がその続きを言おうとしたのを、リュークは思わず止めた。母に抱かれながら聴いた記憶があるのだ、この伝説に旋律がついているのを。思い出の中で歌声が蘇る――魚めいた容貌をした頭の両側には、耳の代わりに孔と鰭。肌の色は美しい青で胸は豊かに膨らみ、腕には鰭が生え、切れ長の目は金色だ。脚はなく魚の尾が水中ではためき、長い髪は太く揺蕩い、首の両側には鰓が四本ずつ、傷のように走っている――そこに重なる幻はネティレの声。

「セザンナ……歌姫、エルフィマーレン族淡水氏……陸と出会いし海の一族……」

「どうしたんだい、リューク?」

 リュークは震えた。父の優しい手が心配そうに触れてくるのを振り払って、立ち上がる。口からは勝手に伝説の続きが飛び出ていた。

  ――竜を食らいた英雄の名に集いた 受け継がれし全ての記憶よ

  刹那の恩寵を紡いだ先 見果てぬ夢を抱いて

  新たな友とゆけ いざ飛翔せよ 蒼穹の向こうへ

  クレリアと分かち合ひた己が名を そなたが去りし時まで預けん

  かの願いを抱いて生まれし数多の命を抱くはサーディアナール

  古の名の継承者たる追憶の都よ いのちのゆりかごたる大樹となりて

  滅びの跡に芽吹きし大樹に託した子らに遺す 愛の祝詞を

  陸と出会いし海の一族の導きを受けて

  迎えん 今 結願の時――

「リューク、見てごらん、かあさまからの手紙を」

 父の声がして振り返れば、爛々と光る宵空色の双眸が、自分の顔ではなく、自分の手に持った紙に視線を注いでいた。リュークはそれを掲げる。下に全てを書こう、という言葉の後に少しだけ空白があって、そこからは何故か子守歌が始まっている。リュークは父と共に小声でその先を読み上げていった。悲しいことに途中で時間が無くなったのだろうか、それは掠れた文字を残して、途中からちぎれていた。

  ――クレリアの囁きが木の葉の奏でる歌となって

  数多の祝福をあなたに与えてくださいます

  挫けそうなあなたの傍に私はいます そして共に隣人と手を繋ぎましょう

  さあ 美しい世界を歌いましょう 祈りましょう

  あなたは世界 世界はあなた

  私は世界 世界は私

  炎の精霊王ヴァグールの御名において我らが叡智の道を切り拓き給えや――


 樹上でも樹下でも〈烈火の魔女〉と呼ばれていた者が〈生きて還りし者〉となって戻ってきた、という噂が二人の元に届いたのは、ちぎれた手紙が届いてから五ヶ月も後だった。

 父が、石碑の文章の続きは紙が破れてしまっていて読めなかったからもう一度送ってくれ、という返事を書き、リュークはその紙を折って、またあの複雑な符を描いた。それは、二人が伝説を諳んじた日の夜更けに小さな窓から何事もなく飛び立っていったが、母からの返答は未だにないままだ。もしかしたら砂漠を渡る途中でどうにかなってしまったのか、と気が気ではなかったが、〈生きて還りし者〉の噂が、二人の気持ちを高揚させた。

「リェイ――アリエンもいるのか」

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