5

「幸せ? それがどうした? その前に私達は樹上政府を統べる地位にある。樹上の民が安心して暮らす為には、災いの種は芽吹く前に可能な限り潰しておかねばなるまい。何も知らない樹下の民である君にだってわかるだろう」

 青年は、今度こそはっきりと、声に軽蔑を滲ませた。

「私は滅びから人々を守らなければいけない、これを知っているだろう」

 笑みを消したその唇が諳んじるのは伝説。リェイもそれをよく知っていた。幼い頃、誰かと出逢う度、祭祀がある度に幾度となく聞かされるから、人々は誰でも覚えている――

  ――水と土が番いて生まれた始まりの地 竜の楽園

  数多の骸と営みの果てに 歌を覚えた者は理想郷へと変えた

  麗しき天蓋と蒼を貫く塔を抱きし白亜の城

  失われし大陸の恵みを蒐集せんとする堅牢な要塞

  竜を食らいた英雄の名に集いた 受け継がれし全ての記憶よ

  刹那の恩寵を紡いだ先 見果てぬ夢を抱いて

  新たな友とゆけ いざ飛翔せよ 蒼穹の向こうへ

  かの願いを抱いて生まれし数多の命を抱くはサーディアナール

  古の名の継承者たる追憶の都よ いのちのゆりかごたる大樹となりて

  滅びの跡に芽吹きし恩寵に託した子らに遺す 愛の祝詞を――

「私達は精霊王クレリアの慈悲により生かされている。土の化身たる大樹を守らずして、滅びを回避することは不可能だ……今回は私の負けだが、そこの命を狩るのは私だ。君の命も戴くかもしれない。その時の為に、我が名を伝えておこう……エイデルライト、白翼の聖者だ、そこの石碑にでも刻み付けて、覚えておくといい」

 そう言うが早いか、白く美しい翼は力強く羽ばたき、エイデルライトと名乗った青年はあっという間にシシルスから離れ、転じて上昇していく。あんなに目立つ白い翼は、大樹サーディアナールの枝に紛れて翠の中に見えなくなった。

 騒ぎを聞きつけた者達が走ってくる音が聞こえる。けれど、リェイの耳の中ではまだ伝説が鳴り響いていたし、妙な胸騒ぎを覚えるのだ。ごめんね、と、独りでに言葉が口をついて出ていく、無意識に唱えるのは灰となった者への懺悔。

 それと同時に、今しがた耳にした名前をどこかで聞いたことがある、と思った。


 夫からの手紙をリェイが受け取ったのは、その日、自分に与えられた施術院の部屋に戻った時だった。どうやら行き違いになっていたらしい。手渡してくれたドーサに今日の顛末を聞かせれば、彼女はいつも明るい面差しを曇らせて、労わるようにそっと抱き締めてくれた。

「休んでちょうだい、あなたのお花ちゃんは私が見ているから」

「ありがとう……アリエンは、今は?」

「寝台でよく眠っているわ、安心して」

 リェイは頷いたが、娘の顔を拝みたかったので、手紙を手にしたまま寝室へと足を運ぶ。よく眠っているアリエンの顔はふっくらと柔らかくて、起こさないようにそうっと触れると、弾力のある肌が指を押し返してきた。頭を撫でれば、自分と同じ色をした髪がかなり増えているのがわかる。小さな小さな掌に指を一本だけ当てれば、赤子らしくとても強い力で、きゅっ、と握ってきた。

 リュークの時はヴィオに、今は施術院のドーサに。支えてくれる人がいるからこそ、こうやって穏やかな心で己の子供と触れ合えるのが有難い。リェイは目を閉じた。

 暫くして開封した手紙には、急いたのだろう、少し右上がりのヴィオを思わせる文字が走っていた。

  ――樹上に凱旋する前提のシシルス討伐隊が樹上で結成された。

  樹上で、樹下に降りた者を処刑させない為に努力し、

  ファイスリニーエ様の許可も取り付けたが、それを逆手に取られ、これを止められなかった。

  私の力が及ばないばかりに君に申し訳ない気持ちで一杯だ、十分に注意して、

  退治人の護衛を沢山つけて欲しい――

 苦悩が滲む文面に、リェイの心も苦しくなる。

「私の心配はいいけれど、自分は大丈夫なのかな、ヴィオ……リュークも」

 顔を上げて窓の外を見る。昼の光を浴びた翠は美しく、燦々と環に降り注いでいる。都市の外側に見える家々の平らな屋上には綱が張り渡されていて、薄手のローブやチュニック、胴着が気持ちよさそうに揺れていた。今日は綺麗に晴れているから洗濯物はよく乾くだろう。手紙の続きを読む為に視線を再び落とすと、こんな文字が目に飛び込んでくる。

  ――討伐隊長はエイデルライトだ、気を付けて欲しい――

 エイデルライト。

 リェイは思わず、あっ、と声を出していた。白い翼を背に抱いた美しい金髪の青年はそのように名乗らなかったか。エイデルライト、という名前を口の中で転がすように呟けば、そこから一気に記憶が蘇ってくる。昏い宵空色の双眸、あいつだ、と紡いだ、成人となる十五の歳を迎えていても大人になりきる前の幼さを残したかんばせ、そこに宿る、憎しみの表情。うまく動かなくなってしまった右脚。その時自身が抱いた確かな怒りと悲しみは、腹の底にうず高く積もった色とりどりの思い出をあっという間に溶かして紅一色に染め上げ、吹き上がった。

「あいつ、エイデルライト」

 思わず漏れた声は思ったよりも大きかったらしい。すやすやと眠っていたアリエンが何か声を上げたかと思えば、穏やかだった表情がふにゃりと崩れて、火がついたように泣き始めた。慌ててそっと抱き上げ、揺すって、リェイは幼い娘をあやした。

「ごめんね、怖かったね、アリエン」

 陽が翳る。窓から差し込んでくる光が薄まり、部屋の隅が僅かに闇を帯びた。


「まずは直接言いそびれていた祝いをちゃんと言っておこう。汝、麗しき花弁の名を抱きて、この世に生まれ出でし者アリエンに、大樹と火の加護が共にあらんことを。しかし、赤ん坊っていうのはいつ見ても可愛いなあ……調子はどうだ、リェイ」

 ハヴィルが訪ねてきたのは、リェイとシシルスが襲撃を受けた数日後だった。樹下政府を組織している沢山の組合の代表が集う会合に、リェイが退治人組合長の代理人として出席したのは昨日だ。ゲリックが一枚の細長い紙にまとめて寄越した大樹周辺の各地の町における魔獣の数や被害状況についてを皮切りに、樹上の騎士達の襲撃や、シシルスの取り扱い――取り扱いという言葉の使い方は正しくないとリェイは思うのだ――について報告、議論を行った。疲れてはいたが、良い刺激を貰ったので、リェイの気持ちは少し上向きになっていた。抱き上げたアリエンもご機嫌だ。

「アリエン、この人はハヴィルだ、宜しくしてやってくれ。この子にとってもあなたにとっても、はじめまして、だな。私達は元気だ、そっちはどうだ、ハヴィル?」

「魔獣が増えていて大忙しだ、お前みたいに罠を張るのが手っ取り早くて楽なんだが、退治人の連中は頑なに楽をしようとしない――よしよし、いい子だな。ハヴィルお兄さんですよ、アリエン――お前、ゲリックさんから代理人に任ぜられたって、本当か?」

「本当だ。早速、昨日の会合に出てきた……報告事項が多かったけれど、組合長がまとめてくれていたから助かった」

 リェイは、報告書を脚にくくりつけられた尾白鳥が飛んできた時のことを思い出しながら言った。根の町の魔獣の被害は甚大で、各地から避難してくる住人達をどういう風に受け入れ、住居や食料をどのように工面し、如何なる手段を用いてこれ以上被害が拡大することのないようにするか。その後の会合においては、それが課題だった。リェイは己がゲリックの命を受けて開発している符の運用を切り出そうと思ったが、白熱する議論に圧倒されっぱなしだった。退治人の面目を保つ為に、ゲリックの報告書を参考にしながら自分の意見を必死に示すだけで精一杯だったのだ。だが、心が折れたわけではなかった。

「大変だけど、私にも案があるし、今月の後半にもう一回開かれるから、すぐ慣れる。あまり満足はいかなかったけれど、その場は一体感があったし、他の組合長達は私の為に色々な説明をしてくれたし……特に鍛冶組合の長なんかは熱心だったな。私だって、次はもっと上手くやれる筈だ」

「……そうか」

 そう言って笑うと、ふかふかの座布団を敷いた大きな椅子に座っているハヴィルは、右手の中指を一定の拍子で机に打ち付けて、思わせぶりな表情を見せる。何か言いたいことがある時の仕草だ。

 双方、言葉を切って、暫く。その間にドーサが冷たいお茶を淹れて持って来てくれた。彼女が去った後、アリエンの声が時々聞こえる中で、ハヴィルが口を開く。

「なあ、リェイ」

「どうした?」

 彼の表情は硬い。リェイは良い香りのする木の杯からお茶を飲みながら首を傾げた。

「退治人組合長の代理人だがな、負担に思ったことはないか?」

「いや、どうだろう……組合の者は、わざわざ施術院まで色々なものを届けに来てくれるし、許可証の発行や法案について考えるのは大変だが、嫌だと思ったことはないな」

 杯を机の上に置き、一人で頷く。大変ではあったが新鮮だ、という気持ちの方が強かった。今までずっと環ではなく森の傍に住んでいて、あまり人と触れ合わなかったからだろうか。

「なるほどな」

 ハヴィルもそれに同調するように頷いた。

「……それだがな、おれに一任する気はないか」

 しかし、その口は共感を歌うことはない。困ったときはお互い様だ、と言って憚らない彼であるが、何も今、リェイは悩む程に困っているわけではない。それどころか代理人として務められるのであれば精一杯やるつもりでいた。

「……どうして? 私は何も困っていないぞ、ハヴィル?」

「おれだって役に立ちたいんだ」

 ハヴィルは腕を組んで、いささか大袈裟に顔をしかめ、それからにやっと笑ってみせた。ただ滑稽さを相手に見せる為だけのわざとらしい仕草だったが、今は何かを隠しているように見える。リェイは目の前の男のように笑えなかった。身動きをして自分の膝からどんどんずり下がっていく娘を抱き直し、腕に少し力を込めた。

「……また、あなたを頼るのか? 私があなたの役に立つのはいつだ?」

「役に立つとか立たないとか、そんなことは考えなくてもいい、リェイ……おれ単独の考えで言っているだけだからな。何、その方がお前を危ないところに立たせることがなくていいかもしれない、と思っただけだ」

 わざわざ自分一人で考えた、と主張する意味は何だろう。何かがわかったような気はするが、リェイはそれが言えない。自身の考えとして表明する為の言葉が、どうしても見つからなかった。その代わりに、違うことばかりが口から飛び出していく。

「退治人はいつだって危ないだろう」

「お前はもっと危ないぞ。シシルスが狙われているのは噂で知った。白翼の聖者とかいうとんでもないのが討伐隊長だ、って、皆言っている……あいつは強いのかどうか教えてくれ、見ただろう、リェイ?」

 鮮明に思い出せる。飛ぶというより舞うと形容する方が正しいと感じた身のこなし、力強い腕に素早い動作、美しい純白の翼の驚くべき機動力、竜の攻撃を受け止めても折れない白い槍は鋼ではなく、皮肉気な笑みを浮かべるのはヴィオによく似たかんばせ。

「……シシルスの尾も、爪も、全部受け止めるか、避けていた。もしかしたら、と思う」

「そうか、それなら尚のことだ。お前が代理人をやるのは危険すぎる」

 ハヴィルは今までに見たことがないような真剣な表情をしていた。いつもはもう少し砕けた物言いをする筈なのに、とリェイは思う。まるで最初から答えを用意していたようだ。そして、それに従わなければいけない、と彼は思っているのだろうか。何か理由があるのだろうか。

「……どうして、そう思った?」

 リェイが問うと、少しだけ、ハヴィルの声の調子が上がった。

「おれだって、好きなやつが上にいるし、環のこともお前よりは知っている……リェイ、赤ん坊を抱えて、勝手の知らない環で退治人組合長の代理人をするのは大変だろう」

 人それぞれの事情があるから比べるのはよくない、ということはわかっていた。だが、リェイは勝手に自分の気持ちを決められるのが嫌で、環を飛び出して森の程近くに住み始めたことを忘れたわけではなかった。

「大変かどうかは私が決めることだ……大変でも、やりたいことだってある。ドーサだって力になってくれる。あなたも上に大切な人がいるのだろうけれど、私もヴィオとリュークがいる」

 リェイからすると、それは同じだった。しかし、今日のハヴィルはいつになく押しが強かった。

「だがな、リェイ。お前の方は、ヴィオとリュークを人質に取られたら、ってことを考えると不利だし、何よりシシルスのこともあるだろう」

「それはあなたの好きな人と何か違いがあるのか」

「ある、おれがそいつの名前を誰にも言っていないことだ」

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