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 竜は巨大な鉤爪のついた手をそっと動かし、リェイの脚に触れたかと思えば、着ている長い胴着の裾を軽く引っ張ってみせた。何だろうとそちらを見ると、自分が胴着の裾に縫い付けた魔獣の毛皮が取れかけている。縫い糸が切れて、毛皮の重みで解けている。

「ああ、これは気付かなかった……転んだりしたら危ないな、全部取ってしまおうか」

 ありがとう、と竜に礼を言いながら、リェイは胴着の裾を引っ張った。毛皮と布の境目がはっきりするように伸ばして、持っていた筆の反対側の尖った部分を使って糸を抜いていく。

 後でまた付け直そう、と独りごちて、細長い毛皮を伸ばして畳んだ時、そこに刻まれている模様が、浮き彫りになっている石碑の模様にとても似ていることに気付くのだ。そうしてリェイは、これと似たようなものを沢山目にしたことがあった、ということを思い出した。小屋の隅に寄せておいた石、それを差し出してきた、まだ小さかった竜の前脚。

 シシルスが低く唸った。顔を上げれば、その金色の双眸が蝋燭の火の光を斜めに反射して、興味深そうに輝いている。視線は、石碑と毛皮の間を行ったり来たりしていた。

 ややあって、竜の尾の棘が再び動いた。巨大な癖に繊細で器用な動きをするその先が、リェイの持っている紙片の上をゆっくりとなぞる。

「……何かを書きたいのか?」

 手に逆さまに握られている筆を、シシルスはじっと見てくる。リェイは筆をひっくり返して毛にインクを吸わせ、紙片の上をゆっくり動く竜の棘がつけたごく浅い溝に、黒い線を引いていった。何か複雑な模様が出来上がるのかと思ったが、どうやら違ったらしい。

「……火?」

 リェイは書かれたものを思わず読み上げた。それを表す文字はひとつで、何かが地面から生えているような形だ。火がどうしたのだろう、と首を傾げた時、シシルスの尾の棘が石碑の中ほどを指しているのに気付いた――浮き彫りになっている模様は先程も書き写したものだ、横から見た花と火の粉を模したような。読める人は殆どいない、と言っていたのはドーサだった、ということを思い出す……殆どいない、ということは、裏を返すと、少しはいる、ということなのだろう。

 どこに? リェイがそう思った時だ。

 唐突に、石碑の模様と自分の書いた文字の形が似ている、と気付いた。自分にも読めるような気がした。その次に、読めるどころの話ではないということに思い至った。一見施術院で働く女にしか見えないドーサだが、その実只者ではない。そして、彼女は石碑の模様が単なる図案や意匠ではなく読む為のものであることを知っているのだ。今はいないゲリックは、教えた聖句を口外しないようにとリェイに向かって言いつけている。

「……この石碑がいつ出来たか、ゲリック……はいないから、ドーサに訊いてみるか」

 何かあるに違いない。シシルスもひょっとしたら覚えていてくれるだろうか、と思って、それとなく口に出し、リェイはそれに続けて口を開く。目を閉じた。

「炎の精霊王ヴァグールの思し召しの下に、土の精霊王クレリアの御代に力を与えたまえ」

 ずっしりとした巨大な扉が、床を擦ってゆっくりと開いていく。刹那、そこに重なるのはシシルスの鋭い警戒音。何か太い鞭のようなものが空を切る。

 次の瞬間には切断された人の腕が竜の尾の先についている太い棘に縫い留められていた。

「誰だ!」

 飛び退って両手を構えた。聞こえるのは悲鳴と怒号。見据えた先、鋼ではないものから削り出された美しい剣を持つ腕の先を刺したまま、シシルスは尾を振り回し、幾つもの何かを弾いた。咄嗟のことに口の中が乾いて呂律が回らない。衣嚢の中の符に頼る暇もない。舌に乗せた言葉がかさかさの唇から断片となって漏れ、聖句の体を為さない単語が、ヴァグール、力を、と、ちぎれ飛んだ。

 それなのに、リェイの両手には炎の渦が生まれた。

 見据えた先に、向かい来るは硬い鞣し革の鎧、数多。どうして、とか、何人だ、とか、考えるのを何もかもやめて、叫んだ。

「――焼き尽くせ!」

 何かの力を使える生き物の雌は、子を産んだ後、その力が増すという。胎の子に己の糧を分け与え、命の紐を通して送り込む時に子の力と共鳴する、という。それは、リュークを生んだ時に根の施術院で立ち会ってくれた者が、まだ確かではないけれど、などと付け足しながら言ったことだ。

 想像していたよりも激しい炎が自分の手から放たれて、リェイは己の生み出した巨大な炎の渦を呆然と見つめた。

 取り落されてからりと鳴く得物達、木霊する悲鳴、シシルスの咆哮。烈火は沢山の音を全て飲み込んで、ブーツをあっという間に焼いた。

羽織も焼いた。肉も焼けた。

「……シシルス」

 その前脚に手を触れて撫でると、大丈夫だ、と言わんばかりに、太い尾が巻き付いてきた。燃え盛る炎が虹色の光沢を帯びた黒い鱗に反射して、紅の光を躍らせている。

 黒く焦げた幾つもの人型がばらばらになって崩れた先に、炎を纏った何か美しい人影のようなものが明滅する――嗤った。

「……ヴァグール」

 リェイは息を飲んだ。シシルスの脚に凭れ掛かると、力が抜けて、勝手に膝が床についた。

「これでもぬるいというのか……烈火だけでも手強い上に、竜までいるとは」

 不意に声が響いて、リェイは顔を上げ、シシルスの脚を支えに、何とかして立ち上がった。聞こえてきたのは頭上からだ。

「……誰だ」

「樹上人に名を尋ねるというか」

「どこにいる!」

 今度はもっと遠くの方からだ。リェイは周囲を見回した。シシルスの唸り声が床を這い、開いた扉の前で消えかけた火にぶつかって、灰と一緒に外へ飛び散り、陽光の中へと消えていく。自分の脚を動かして灰の舞う場所を駆け抜け、控えの間まで出てみれば、目に飛び込んでくるのは一対の翼。

 一瞬、誰かを背中に乗せた騎獣か、とリェイは思った。しかし、翼を背負っているのは騎獣よりも小さな影で、よく見てみると、それ以外は自分と変わりない人の形をしている。がっしりとした体格の男だ。豪奢な黄金色をした髪が風を受けて、美しい形の顔の周りで遊んでいる。

「……竜の巫女じゃない?」

「ファイスリニーエ様のことを言っているのか、君もヴィオと一緒で、おめでたい」

 子供がまた生まれたのだからめでたいのだけれど、などと言祝を口にしているが、その調子は癇に障る類のものだ。その純白の翼が羽ばたく度に、灰が躍って舞った。

「樹下に樹上の生き物がいてはいけない」

「……樹上では、火の気は穢れ、だからか?」

「そうだ、故にヴィオライト・シルダもリューク・シルダも、その竜も穢れている。サーディアナールに火は必要ない、噂の通りに根が枯れているのなら、尚更だ」

 僅かに斜めに傾いで上げられた顎はつるりと美しい。明るい翠の双眸が細められる、その麗しいかんばせにはヴィオの面影。夫によく似た口元はしかし、居丈高な笑みを浮かべた。リェイは自分の番いのそんな表情を見たことがない。

「本来ならばヴィオは生きていてはいけない、君の息子も」

 青年は、空中で羽ばたいてその場に留まり、こちらを見下ろしている。彼にそう言われた瞬間、腹の中で業火が渦巻くのを感じた。同時に、夫と息子の身に危険が迫っているかもしれない、という事実にも気付いた。ヴィオとリュークは今どこで何をしているのだろう? 自分は樹上へ行くことを赦されていない身だ、上へ行ったところで探すのも難しい、という絶望感に覆われ、リェイは竜の脚に凭れた。それでも、何とか口は動かす。

「……それは、樹下の掟じゃないだろう」

「確かにそうだけれど、樹上では違うのだよ、〈烈火の魔女〉さん」

 シシルスが唸っている。上を振り仰げば、何を言われているのか理解し、怒っていた――竜も、近しい者の身に何かが起こった時に怒りを覚え、共感し、心に寄り添えるのだ。それに気付いた時、鋭い金色の瞳に宿る炎が燃え上がって、暗闇の中で道を照らす揺ぎ無き篝火となった気がした。

「君は樹上出身だったね、戻りたいだろう、精霊王の加護を受けた恩寵の降り注ぐ場所に」

「……わからない」

 リェイは首を振った。確かに自分は樹上の出身だが、何段目に生まれたかすら覚えていないくらいに記憶がない。再び戻りたいかと問われれば首を傾げるし、戻りたくないのだなと言われれば、それも違うような気がした。

「わからない、私は、ただ樹下の森で生活しているだけだったから――」

「わからない、だって?」

 相手の薄ら笑いが消えた。青年は自らの翼で力強く空気を打ち、右手に持った槍を器用に回転させながら、扉の中へあっという間に侵入してきた。すぐさまシシルスの尾が襲い掛かったが、それはひらりと躱される。

 竜が後ろ足で立ち上がった。強靭な筋肉が唸り、繰り出された前脚の爪は音を立てて空気を切る。しかし、それも当たらない。

「樹下にいる君達は、既に恩寵の蔓が届くところまで火の気を帯びたみすぼらしい足場を積んだじゃないか。戻りたくないなんて嘘だろう」

 余裕の表情だ。皮肉気な笑みと声が、リェイの肩のあたりに刺さってくる。身体の中で渦巻く炎が外に出たがっているのがわかって、無意識のうちに腕を構えていた。

「ヴィオは君を十五段目に上げるつもりだ、そして君はそれを拒否していないそうだな……わからない、というのが本心でも、これがどういうことかわからない程の馬鹿ではないだろう、君も。語り部のおかげで君の家族は生かされているけれどね、大樹の為を思えば、そういうものはなくした方がいいのだよ……語り部など誰にでも務まる。試練も越えられぬ不能は、ファイスリニーエ様の慈悲深さによって生かされているだけに過ぎない」

 不意に、助けてはいけない人だったのかもしれない、と思った時のことが蘇ってきた。自分が助けた少年が目覚めて、エイデルはどこだ、と言ったあの日から五年――リェイは思う、あの昏く光る眼は、己の意志で生きようとしている人のものだった、と。退治人の掟や、竜の巫女の権威で生かされてはいるが、ヴィオが己の名に誓ってリェイを抱いたことは忘れていない。

「ヴィオはただ生かされているだけの存在じゃない」

「そういう話をしているわけではないよ、君達の慈悲があれを生かしているのは事実だろう」

 青年は、次々と繰り出されるシシルスの攻撃を、ひらりひらりと躱しながら喋り続ける。

「ファイスリニーエ様が大樹の声を聴く竜の巫女であらせられるが、私は大樹サーディアナールの守護を担う盾であり、魔獣を屠る剣だ……私は大樹を守り、大樹に害を及ぼすものを全て遠ざけるという使命がある、樹上に住む正しい人々の為に。お前達火使いと魔獣を皆、砂漠の向こうへ追放してもいいくらいだ……余計なことを伝えて大樹を危険に晒そうとする語り部も必要ない、到底樹上人として認められない奴らだ」

「……余計なこと?」

 リェイの呟きは思いの外よく響いた。それを聞いた青年は愉快そうに嗤う。

「その内に小さな炎を秘めて夢に遊び、やがて荒れた大地を滅びの御手から救うでしょう……全く、馬鹿馬鹿しい子守歌だ。火は燃やすばかりで救わない、ついさっき君の生み出したものがそうだったようにね。それがわからない愚鈍な輩は語り部を筆頭に数え切れない程樹上にも存在するが、そのような者達にも理解させるのが私の役目だ……火は大樹を焼く穢れである、とね」

 シシルスが攻撃の手を止めた。リェイが言葉を投げかけるばかりで手を出そうとしないことに苛立ちを感じているのだろうか、双眸は青年ではなくリェイを睨みつけている。だが、リェイ自身は炎を繰り出すよりも、先に話を聞いてみたいと思った。どうして、背中に翼を持つ美しい青年がそのようなことを言うのかが気になるのだ。

「……皆、歌っているけれど。あなたはどうしてそう思う?」

「どうして、か? 簡単だ、代わりのものなど幾らでもあるし、生み出されていくのが当たり前だからだ……私はいずれの日にか、竜の巫女たるファイスリニーエ様と番うだろう。その暁には、そのようなものは樹上から消し去ってやる。私の唯一無二の友だったヴィオライトは、火の気を帯びた鋼の剣を手にしたから、大樹の礎となるように仕向けられた。ならなかったけれどね、君のせいで」

 それを聞いた瞬間、ヴィオの柔らかな歌声が耳の奥から蘇る。青年の声は、夫のそれとよく似ていた――似ているのに、どうしてこうも違うのだろう、とリェイは思うのだ。リェイ自身はその子守歌を夫の歌う節回しで覚えているが、樹下では少し違う。きっと自分も夫も樹上に生きた人々が歌い継いできたものを持っているのだろう。だが、詩は樹上も樹下も関係なく同じだった。幼子を抱いてあやす根の人々が子守歌を口ずさむ時、そこには変わらぬ慈しみと愛が存在していた。その中には決して幸せではないという者もいたかもしれないが、ひょっとしたら、その時の彼らは歌の中に一抹の安らぎを求めていたかもしれない。

 目の前の青年が歌ってみせた旋律にはそれがなかった。慈しみも愛も、安らぎも忘れた声。

「……あなたと番って、竜の巫女は幸せになると思うか?」

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