3
「試してみてくれ」
二人の声が、亀裂を超えて、広い床や巨大な扉に反響する。ゲリックは信じられないという顔で符を受け取り、リェイの真似をして火の聖句を唱えた。符が炎に包まれた後に〈風精霊の思し召しの下に疾く行け〉と続ければ、先程生まれた火の矢が風を纏う。彼の目が驚きに見開かれた。
「――私でも風を扱えるとは」
「それが符の力だ……私も、これがないと火しか使えない」
炎を宿した逞しい手は扉のクレリアを指す。矢は真っ直ぐに飛び、掲げられた土の精霊王の御手に当たって、薄暗い中で弾けて消えた。風の余韻が、足元に焚かれた透かし彫りの施された金属製のランプの灯を揺らす――何でもかんでも符を使って楽をしている自分の小屋と違って、環では蜜蝋から作られた蝋燭を照明として利用している。それもまた綺麗だ、とリェイは思うのだ。
「なるほど、君はこれで人手を補うことが出来ると考えたのか、なるほど――」
ゲリックは難しい表情をしている。まるで干し肉をしっかり咀嚼して飲み込む時のように、たった今自分が体験したことについて、頷きながら何か考えているようだった。
「なるほど、そうだな」
「……使えそうか?」
「これで罠を作ったことは?」
リェイは頷いたが、その後にすぐ付け足した。
「落とし穴を作る時だけ、符を合わせて使っていた……サーディアナールの根をちょっと掘り起こして削ってやれば、匂いにつられてやってくるから、符と組み合わせる必要が殆どなくて」
「なるほど。しかし、根を傷つけるのはよくない」
組合長は腕を組んだ。
「ほんの少しだけだ。それに、サーディアナールの根は、傷付けてもすぐに塞がってしまうから、特に心配はない筈だ。私はいつもそうしていたから――」
「だが、枯れているという噂が流れている……同じ匂いを出すような罠を作るのはどうだ」
「同じ匂い……どうやって?」
リェイは途方に暮れた。傷をつけてはいけないのなら、どうやって大樹サーディアナールと同じ匂いの罠を作るのだろうか。樹上に実るサーディアナールの葉や実は、空を飛ぶ魔獣があっという間に食べてしまうらしく、樹下に落ちてくることはない。ゲリックもそれを知っている筈なのだが。
「私にもわからん、思い付きで言ってみただけだ……だが、君ならそれを作れる気がした」
「そんな、無茶な――」
「その符の描き方は、樹下の誰も知らないし、私だってわからない」
組合長は、わからない、と言いながら何度も頷き、そして顔を上げ、しっかりとリェイを見つめてきた。その視線は先程とは打って変わって、至って真面目である。
「私が視察から環に戻るまではかなりの時間が掛かるだろう……最低でも一年、根の崩壊や住民の誘導、魔獣の襲来……その他にも問題が発生したなら、数年間不在となるかもしれない。直属の退治人を全員送り出して樹下を回らせてもそういう計算になったのだよ」
「あら、かなりかかるのね」
アリエンを抱いた腕を揺らしてあやしながらそう零したドーサの声は、どこか深刻さを帯びていて低い。ゲリックは啄木鳥のように先程から頷きっ放しだ。
「問題は環にも山積みだが、大樹の近くになればなるほど、人の安全は保障されるだろう……サーディアナールから離れれば離れる程、住人を守る為の様々な工夫が必要になる。それを用意して、正しく機能するのを見守り、長く継続させていくことが、樹下政府の役目だ」
リェイはその言葉に宿っているものに共鳴し、こう感じるのだ……ゲリックは退治人組合長になるべくしてなった人材である、と。退治人の掟は〈傷付いた者を見殺しにしない〉ことだ。彼らに手を差し伸べることが正しいことであるのなら、彼らが傷付く前に危険を取り除くこともまた、正しい。
ヴィオの子守歌が記憶の向こう、耳の内側から聞こえてくる――罪を犯して樹上から追放された者の末裔も、全てを灰に変えてしまうが故に樹上において不可侵の掟が作られた火使いも、樹下で必死に生き残って命を繋いだ。そうして永き時を経て出現した英雄は言うのだ、土の精霊王クレリアは全ての命を等しくその御手に抱いているのだ、と。
「君もそうだろう、環からは離れたが……私に向かって、誰よりもはっきりとした大きな声で掟の宣言をしたな、昨日のように覚えているぞ、リェイ……それを見込んで、頼みたいことがある」
ゲリックは数日も経たぬうちに根の方へと旅立って行った。旅と称するには不適切かもしれない、それは退治人の、ひいては樹下政府の仕事なのだから……何年掛かるか、という見積もりは残していったが、それは不確定な未来だった。
彼の頼みはリェイの肩にずっしりと重くのしかかった。それを伝えた組合長本人は、出立前にアリエンの頭を撫でてから、勇気付けるように微笑んで、こんなことを言ってくれたのだが。
「肩書の割に、そんなに構えるような仕事はないようにしておく。それよりも君が描いた符で罠の改良をすることが最優先だ。安心できるように、補佐には見知った者をつけよう。相談役はこのままドーサ殿に頼むことにしている」
……どうも自分には荷が重い、と、リェイは感じるのだ。
そういった懸念を打ち明ければ、ドーサはこのように申し出てくれた。
「私もいるわ、アリエンのことは任せて、心配はしないで頂戴。子供のことだけじゃなくて、何でもお喋りして欲しいわ、いつでも力になるわよ」
「本当に助かる……だけど、私が私だから、侮られたりはしないだろうか、と思って」
自分の身体が小さくて痩せている、というだけで侮ってくる者は、環だけでなく小屋に近い根の町にも存在していた。退治人の中には、火の術を扱わずに罠を使って獲物を取ると、力不足と見なす者も多い。乳飲み子を抱えて仕事をする退治人の母親はどこにだって沢山存在している。そういう女性は、妊娠中に胎内の赤子と血をやり取りする為に、大気中の気を沢山取り込んで鍛えられるので、妊娠中や産後は身体が活性化しやすくなって、強い術が使えるようになるという。だが、誰もが妊娠中に活発に動けるかというと、そのようなことは決してない。現に、リェイは一日の大半を眠って過ごし、狩りは罠で補っていた。また、それに紐づけられる形で、妊娠しない女は強くならない、ということも、よく言われている。そんなことを聞く度、どうしようもない何かが自分の腹の底から沸いてくる……こっちの気も知らぬ者が好き勝手を言っているのだ。
「私の……代理人の補佐がハヴィルだから、確かにまだ安心できるけれど」
見知った者というのは巨漢の幼馴染のことだった。彼の住んでいる根の町は、ここ最近魔獣の被害が家屋の入っている根の上部にまで及んでいるらしく、退治人は来る日も来る日も狩りに明け暮れていて、色々と忙しいらしい。だが、ハヴィルは出産祝いを環まで運んできたのだ。彼は、自分で育てた大量の野菜や近くの泉で釣った魚などをリェイに、大きく育つようにという願いを込めて彫ったクレリアを象る木製の像をアリエンに贈った。
それを知っているドーサはにっこり微笑む。
「そうねえ、あの子はとっても優秀だもの、頼り甲斐があるわ……それにね、思い出して頂戴。環にいる皆が、シシルスと一緒にいるリェイのことを、英雄って呼んだじゃないの」
「……英雄も、何だか、畏れ多くて。竜と言葉を交わすのは、それは、私にはできない」
自分が口に出した英雄という単語が、リェイの記憶に残っている英雄伝説の竜の言葉を引っ張って連れてきた。〈クレリアと分かち合ひた己が名を、そなたが去りし時まで預けん〉と、息子を寝かしつけながら枕元でそれを語る夫の声は穏やかで慈愛に満ち溢れていた。それが無性に聞きたくなって、樹上へ行きたいと思った。寂しいかどうかなんて独りになってみないとわからない、と別れの前に彼に向かって言ったけれど、こういうことなのだろうか。目の前でドーサが微笑んだ。
「大丈夫よ、あの子が何かを感じている時……楽しい時や怒っている時にどういう仕草をするのか、リェイはちゃんとわかっているじゃない」
「そうだな……」
シシルスはリェイが言っていることをしっかり理解しているだろう。こちらが話し掛たり何か動作をしたりすると、竜はその都度様々な表情を見せる。興味深そうだったり、憤っていたり、呆れているようだったり、寛いでいたり、それは瞬きの頻度や速さ、眉間や口の筋肉の動き、牙の露出度、尾の動きなどで十分に伝わってきた。だが、どういう気持ちなのか理解はできても、シシルスの思考回路がどの程度複雑であるのかということまでははっきりとわからない。竜に向かって単語の発音がしっかり聞き取れるようにゆっくりと話したり、文字を見せたり模様を見せたりする為、リェイは符の開発や機織り、息抜きも兼ねて、時々娘も連れて、扉の向こうへ通った。
そしてそれはいつしか日課となっていった。
巨大な分厚い扉に向かって床を一直線に走る亀裂は放置されている。堅過ぎて誰も直せなかったのだ。術の行使によって傷を入れたのはリェイだったので、床を修復しようとした者達から協力を要請されていた。目下の命題は罠と符の融合であるが、控えの間の床をどうにかする為の符を描くのも大切だ。
手持ちの符を数え直して、あの時に取り出した符がどの属性でどういう効果のあるものなのかを確認し、数日掛けてそれを特定した。その後、修復用に新しく何枚かの符を描き、自分が唱えたのとは逆向きの聖句を設定しようとしていた時だ。
妙に緊張した面持ちの配達人を通して、ヴィオの手紙が樹上から届いた。
「……どうしたんだろう?」
リェイはそれを手渡された時、思わず呟いた。受け取った封筒は前と同じ美しい紙で、十五段目の紋章が浮き出る封――最近わかるようになってきたが、これは樹脂だろう――はしっかり施されており、誰かに開封された痕跡はない。しかし、折り目が雑だった。開けてみれば、中は小さな紙切れ一枚だけだ。
「……気を付けなさい?」
読み上げてみれば、一言だけである。どれだけ上達しているか、と楽しみにしていたリュークの文字はひとつも書かれていなかった。前の手紙で沢山のものを受け取り過ぎたからだろうか、少し崩れた文字はそれぞれの書き終わりが僅かに撥ねていて、枝のような罫線の上を不格好に走っている。何か事情があるのかもしれないとは思えたが、ただ残念だ、とリェイは感じた。
「シシルスはどう思う? ヴィオは気を付けなさい、って言うけれど、何に気を付けろと言っているのか……やっぱり、私を貶めようとする誰かが、何かするつもりだろうか?」
人の声で答えが返ってくるものではないということはわかっていたけれど、リェイは石碑の間で竜に向かって話し掛ける。まるで独り言のようだけれど、唸り声と身体の動きは慰めとなって返ってきた。目の開き方を見る限り、穏やかな表情をしているから、シシルスはきっとこう言いたいのだろう――心配することはない、と。伝説に登場する竜は、人と言葉を交わし意思疎通が可能であったというから、もしかしたらシシルスの動作にはもっと複雑な意味が込められているのかもしれない。
「あなたを環の上に連れて行けたら私も安心だけれど、色々な意味で大騒ぎになるからなあ」
そんな大げさな、とでも言いたいらしい竜の表情に苦笑いをして、リェイは自分が今腰掛けている石碑を撫でた。控えの間の奥、閉じられた扉の内側で、蝋燭の火が揺れる。シシルスが軽く動かした翼が床の上に留まる空気を掻き混ぜているからだろう。
触れた石は冷たい。一体どれほど昔に作られたものなのだろうか、浮き彫りになっている模様のようなものは所々が削れている。一定の規則があるのだろうか、火の粉が散るような模様、流れる水のような模様、光が放出しているかのような模様、輪を表しているらしい丸い模様などが、組み合わさったり一部が消えたり繋がったりしながら、真っ直ぐに並んでいる。模様の種類は六つほどあるようだ。もしかしたら文字なのかもしれない。だとしたら、一体何を書いているのだろう。
どこかで見たような気がする……その時、この竜も傍にいた、という記憶があった。
「……シシルスには読めたりするか?」
言いながら、リェイは衣嚢を探って、いつもは符に使うシンター繊維の紙片を取り出した。小瓶に少しだけ入れたハルスメリのインクと筆も探って石碑が鎮座している石の段の上に置いた。もしこの模様の意味を竜が理解しても自分に伝えられない、ということはわかっていたから、自分でも写して好きな時に読めるようにしておきたい、と思ったのだ。
それに、これを符にしたら何が起こるのか、興味が湧いたのだ。
「……風の矢に似ている」
石碑の三行目を写しながらリェイは思わず呟いた。そこにシシルスの尾が伸びてくる。繊細な動きをする尾に付いた棘の先が示しているのは、天に向かって開く花を横から見たような模様で、火の粉を思わせる点が二つ、その上についている。
「どうした、シシルス?」
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