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 何枚もの符が粉々にちぎれ飛んだ。どうやら、かなり複雑な模様が描かれたものを、咄嗟に取り出したらしい。発動したものの大きさにシンターの繊維は耐えきれなかった。

 踊る炎を風が巻き上げ、大樹の洞の一番上まで火花を散らしながら狂暴に荒れ狂う。凄まじい音を立てて床に亀裂が走り、そこからはあっという間に水が噴き出し、蔓と葉が数多の悲鳴を飲み込んでその上を覆い尽くした。巨大な扉のクレリアと竜の目が輝き、開錠の聖句を唱えてもいないのに、固く閉ざされた扉が重い音を立てて床を滑っていく。それは罅割れに躓いて止まった。

「大丈夫なの、リェイ!」

 リェイは我に返った。ドーサが呼んでいる。腕の中を見下ろすと、アリエンは不思議な色の目を見開いて、今なお表の彫刻が光り輝いている扉を一心不乱に見つめていた。頬は相変わらずぷにぷにだったし、手も脚もいつものように、はちきれそうなくらい健康に膨れている。怪我はなかった。

「……大丈夫だ、ありがとう、ドーサ」

 あたりを見回すと、呻きながら身体を起こして周囲を警戒する者が見えた。それはシシルスに二度目の奇襲をかけた男で、自分の肩を床に固定して無理矢理嵌め、それから立ち上がる。深い青色をした相棒のサルペンが、シシルスがリェイに対してやるように、男の身体に尾をするりと巻き付けた――相棒を守ろうとしているのだろうか。しかし、その翼は先程行使された術で傷付いて血が流れ、ぼろぼろになっていた。身を起こし始めた群衆の中、衣嚢に片手を突っ込んで符を取り出したリェイが一歩進み出ると、竜とは異なる騎獣は低く唸り声を上げる。

「大丈夫だ、これは治療用の符だから……治療をさせて欲しい」

 そう言いながら、リェイは符の模様を掲げて見せた。直線ばかりで動きの少ない土の精霊王クレリアの紋で多角形を描き、いつか森の中に転がっている岩に刻まれていた放射状の模様を組み合わせたものだ。樹下の森に来たばかりのことだろうか、この模様が刻まれていた岩には沢山の動物の毛や血痕がこびりつき、角を擦りつけたような傷や爪の跡が多く刻まれ、周囲には獣が横たわったような跡が下草を折っていた。その岩に手を当てた時、木の枝に擦って傷付いた腕や脚があっという間に癒えたのを覚えている。

 リェイが〈土精霊の思し召しの下にこのものを癒せ〉と聖句を唱えるのを聞いて、身構えていたサルペンが、大きく拡げていた翼から力を抜いた。畳まれたぼろぼろの翼に触れれば、シンター紙が光と蔓に変化して、それが傷を薄く覆っていく。騎獣とて大きいことに変わりはない、一枚だけでは当然足りないので、リェイは符を何枚も使った。男の脚の怪我も例外ではない。

「……また、お前は助けるのか」

 短剣の名を持つらしい男の表情は相変わらず昏かった。それとは対照的に、あー、とか、うー、とか、よくわからないことをアリエンが言っている。何か訴えたいことでもあるのだろうか。はいはい、なあに、と高めの声で相槌を打って布の中の娘を揺らしてあやしながら、リェイは相手の目を見た。

「それが樹下の掟だ、私はそうしたいと思っている」

「おれの仲間を殺したのに、か?」

 その事実が相手の口から飛び出した皮肉であるということは理解していた。だが、答えられなくて、リェイは口をつぐむ。自分でもこの気持ちが一体何なのかを表現することは難しいと思ったし、何を言えば正解なのかもわからなかった。

「お前が大事なものを守ろうとしていたのはわかったがな、今はもう、その必要もないだろう、ということがわかった」

 男はそんなことを言って、サーディアナールの巨大な洞の中という薄暗い場所で、シシルスを眩しそうに見上げた。リェイから離れた太い尾の先に付いている棘が、癒えた騎士の身体を探るように撫でる。行使された術の衝撃から立ち直った人々は手を出すかどうか迷っているらしく、息を殺して、彼らは竜とサルペンの周りを取り囲んでいた。

「……どういうことだ?」

「人や騎獣ごとき、もう敵わん、という意味だ。十六段目に生息している竜達と比べると、そいつの方が遥かに大きい……おれと同じように下に降りて、火の穢れを負った奴らからの報告だ」

「あなたの他にも、いたのか」

「六月だったな、お前の夫が降りる時についていった護衛だ……魔獣の数が増え、根が食われて枯れ始めている、という報告も、あいつらから入った」

 リェイは震えた。夫の後ろに、十五段目の羽織を身に着け、緊張した顔で控えていた者達は、樹下へ来ただけで穢れだ何だと言われ、そういう風に認識されていたのだ。晴れやかな顔でいってきます、を言ったリュークや、優しく髪を撫でてくれたヴィオのことを思うと、そんなところへ夫と息子をやった自分が恥ずかしくなる。手紙は貰っていたが、それは果たして本物なのだろうか?

「……その護衛は、どうなった?」

「案ずるな、穢れは払われ、礎になった。もう恨み言も口にすることはない……多分、おれもすぐにそうなる」

「じゃあ、どうしてヴィオは……どうして、ヴィオは、リュークも、生きていられる? どうして私に手紙を寄こせるんだ?」

「竜の巫女であらせられるファイスリニーエ様のご意向だ。あの方は近しい者を大切になさる……」

 低い声に軽蔑が混じった。言葉は途切れたが、その後に続けるとしたら、きっとこうだろう……情に惑わされて樹上の掟を無視している、巫女として未熟。リェイは、ハヴィルについて相談した時に夫から言われたことを思い出していた。出来るだけ多くの人に還元できるような利益だとか、技術の提供だとか、馴染みがなくて大きな話をするヴィオを、何だか遠い存在だ、と感じたのだ。

「ともあれ、おれの見た通り、女子だったな。名は?」

 周囲が動き出す。縄を持ってきた、という声が響く中で、リェイは腕の中を見下ろした。娘はうとうとと微睡んでいて、口をもぐもぐと動かしているのが場にそぐわずとも愛らしい。贈り物を受け取って産まれてきた子を抱いているからこそ、離れて暮らす夫との距離が感じられた。

 その時が二人を別つ前に言葉を交わせたのは僥倖だったのかもしれない。

「……アリエン」

「そうか、手向けられる花がおれにもあってよかった」

 それは花弁の名を冠する娘のことだろう。青痣の消えた顔に、和らいだ微笑みが浮かぶ。誰かの父親であるかもしれないその手に縄が掛けられた。樹上にはもう戻れぬと言ったその身は、樹下の人々も敵に回し、英雄の萌芽を潰そうとした咎でたった一度の制裁を受けるのだ。伝説を犯す者には何人であれ死を、というのが、樹下政府が誕生した時、最初に決定づけられた法であった。

「おれはもう助からない、さらばだ」


「トリニエライト様の意志の下に……サーディアナールよ永遠であれ!」

 それが男の最期の言葉であったらしい。

 退治人達が立ち会う中、名を表す己の得物で胸を一突き、彼は死んだ。苦しまなかっただけましだったのかもしれない。リェイは彼の名を知らなかった。訊けばよかった、と気付いたのは、ことが全て終わってからだった。

 せめて綺麗に死ねるだけでもよかったかもしれない、お前に感謝する。短剣の名を持つ男は、小さな紙切れを遺していた。場を取り仕切ったのは退治人組合の長であるゲリックだったが、彼はこっそりそれを回収して、施術院の一角にある部屋で気持ちを落ち着ける為に機織りをしていたリェイの元をわざわざ自ら訪れ、渡してくれたのだ。

「以前にも会っていたのか」

「……その時は二人だった、シシルスが叩き落して、片方は私が……」

「……そうか」

 ゲリックは疲れた顔で腕を組み、溜め息をついて椅子の背凭れに身体を沈めた。それでも、赤ん坊を見ると心が幾らかは安らぐようで、眠るアリエンの方を見ては頬を緩めている。合わせている椅子は柔らかな綿入りの布で覆われていて、座り心地は抜群だ。その目の前にある机は広く、焼き菓子と冷たいお茶が多角形の敷物の上に載っている。焼き菓子は隣の部屋の妊婦からの差し入れだ。ドーサが入れてくれたお茶は冷たくて、乾季の樹下の暑さに心地良く喉に染み渡った。

「まあ、君の対応は退治人として当然だったし、何も拙いことはない。安心しなさい、リェイ……樹下政府の一員として私がそこをどうするか、というのが問題なだけだ。それに、魔獣も増えているという話も、あの者は出していたな」

 詳しく訊きたかったが致し方ない、と退治人の長はまた溜め息をつく。本当はもう少し生かしておきたかった、とでも言いたげだ。新たな伝説の誕生を脅かした者を存命させると不満が出ると見たのだろう……しかし、そこまで焦って対処をするのも何か変だ、とリェイは思う。腕を組んだまま、ゲリックはお茶も飲まず、唸るように言葉を紡いだ。

「最近、環の人の数が目に見えて増えている」

「……シシルスのせいではないだろうか?」

 竜に獲物を献上せんが為と控えの間を訪れる人は後を絶たず、あのような事件があった後で減るかと思われたが、その数は増えているように思われた。次の日も、その次の日も、アリエンを抱いてドーサやゲリックを供にそこへ赴き巨大な扉を開け放ったから、リェイは知っている。まるで祭祀の時よりも賑わっているように思えた。

「流動的にはなっているだろうがね、一方でこんな噂も流れている……君は施術院と地下だけしか行かないからあまり聞いていないだろうが」

「何かあるのか?」

 訊けば、ゲリックの眉間に皺が寄った。

「大樹の根が枯れて、崩れているらしい」

 何だって、と、声にならない声が漏れた。根を齧る獣を符で退治し、罠で捕らえ、退治人の中でもかなりの数を屠ってきていたのに、まだ足りないというのだろうか。自分の住んでいる小屋から一番近い西南の根の町は平和だった筈だが、そこも駄目になってしまったのだろうか。リュークを生んだ施術院、ジュースを飲んだ店。時々泊まっていた宿の広い部屋、ふかふかの寝台。

「嘘だろう」

「私も直接この目で見てはいないから俄かには信じがたいが……だがね、東の根から逃げてきた、という人がいるのだよ。だから、近々、根の方へ赴こうと考えている。視察だ」

 魔獣が増えたり減ったりしているという実感はなかった。しかし、増えているというのであれば、どのような狩り方をすれば減らせるのかを考慮し、必要であれば人を増やさなければならない。

 ゲリックは、リェイが考えていることを見透かしたように言った。

「そして、魔獣の数が増えているところに退治人を配置し直す、必要なら増員だ。だが、君はその子を産んだばかりだからな……出来る限りここに居られるように手配はするが、万が一の時は移動してもらうことになるかもしれない。準備だけはしておいてくれ」

「……環で待機している退治人は少ない筈だ、大丈夫なのか?」

「そうだ、そこが問題だな……」

 組合長の眉間の皺が深くなる。ちらりとドーサを見ると、仕方ないわね、とでも言いたげな表情だ。リェイの視線に気付くと、彼女は肩を竦めて笑ってみせた。

「抱え込みがちなのよ。組合長っていうのも大きいけれど、相談するのが下手なのよ、ゲリックは」

「言ってくれるなドーサ、わかっている……人を使わないような効率のいい方法があればと考えていただけだ、人事で悩んでいたわけではない。こんな場で何だが、何かいい考えを思いついたりはしないかね、〈烈火の魔女〉殿――」

 彼が言い終わる前にリェイは立ち上がっていた。衣嚢の中にある符を探って取り出し、机の上に並べて置いて顔を上げると、二人が驚いてこちらを見ている。

「――あ、いや、そうしたらこれが使えるかと思って。烈火なんちゃら、とは言われるけれど、私は火だけを使って狩りをしているわけではないから……」

 ゲリックとドーサが顔を見合わせる。リェイは畳みかけた。

「どこか、術を使ってもいいような広いところへ行きたい……広めて欲しいことがある」


 できれば燃えるようなもののない場所がいい、と言えば、もうあそこしかないだろう、ということで、シシルスのいる扉の手前、控えの間に赴くことになった。ドーサに娘を任せて組合長と二人きりでも構わなかったのだが、心無い人間からない噂を流されて面倒なことが起こるという可能性も考慮して、アリエンも一緒だ。

「その、模様の書かれた紙切れが、君の力の元だと?」

「組合長は、前に私の成績を誉めて下すった時があったけれど、こういうわけだ――」

 リェイは抱いていた娘をドーサに預けて、いつも狩りの時に使っている符を一枚、指の間に挟む。〈火精霊の思し召しの下にこのものに力を与え給え〉〈風精霊の思し召しの下に疾くいけ〉と聖句二つを続けて唱え、符を燃え上がらせた。それを構えて少し離れた床に向かって指差すように放てば、麗しく燃え盛る紋が一直線に駆け、亀裂の入った場所に当たり、その端を削って消えた。

「火だけでなく、風にも聖句を捧げるのか……君の力だと思えたが、違うのか?」

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